番外編2-6 幸せの隠れ場所《6》
社交の場のマナーを習おうと、旦那様に相談したところ。
結局は、男爵様の弟君の婚約者――と、言う方にアリメアは習うことになった。
そのユーフェリヌ様も大層な貴族の出で、セールブリア様とはタイプが違うかわいらしい方ではあったけれど、劣らず品があり礼儀作法も洗練され完璧だった。それなのにアリメアが元メイドと知っても蔑む事のないお優しい方で、腰が引けているアリメアをにこやかに受け入れてくれる。
彼女の言い分はこうだ。
「私、変わったことが大好きですの!」
アリメアと旦那様のなれそめを男爵様から聞き。身分差のロマンスなんて素敵……と、うっとりするユーフェリヌ様は、マナー教師役を二つ返事で引き受けてくれたらしい。
しかも彼女は公爵令嬢と家格が高く、男爵家では不相応……らしく。それでもなお弟君を選んだ彼女自身も、アリメアとは程度と立ち位置の差がかなりあるけれど貴族社会の中での身分差恋愛経験者だ。
そんな彼女はアリメアの絶好の教師だった。
「あの場は。特に気にする必要はないわ。ただダンスと食事のマナーさえ何とかして恰好付ければあとは退屈なものよ?」
ユーフェリヌ様にそう何でもない事のようにからりと言われると、不安はあるけれど、大丈夫な気がして来るから不思議だった。
人生何事も楽しみを追い求めなくちゃというのがユーフェリヌ様の主義で。
劣等感まみれで、私なんか……と、つい引け目を感じてしまうアリメアは前向きになれる影響を受ける。
「まぁ、風辺りが強くなったらそれ以上の防波堤と一緒にいれば、あのつまらない人達なんか何も言え無くなるわよ?」
――貴女の為なら喜んで防波堤になってくれるお方が一杯いるんですもの、頼らなきゃ損よ?
と言われ、とんでもないですと、アリメアは首をふる。
頼るだけじゃ、嫌だった。
「そうならないためにも頑張りたいです」
そんな様子を少し驚き見つめながら、思い直したように、茶目っ気たっぷりにユーフェリヌ様が言う。
「そうね頼らないように私に習っているんですものね、存分に驚かせてやりましょう」
アリメアが入れたお茶をユーフェリヌ様も気に入ってくれて、時折茶器と茶葉をお借りして入れる事もあるが。今回は、入れる方ではなく飲む方だった。ユーフェリヌ様付きのメイドが入れてくれる。他の方に入れてもらうなんて、悪いとびくびくして、自分でやってしまいそうになっていたが、今日はお茶を優雅に飲む作法を教えるということになっていたので、それは止められていた。
むしろ、使用人を使うことに慣れなければ……とアリメアとしてはとんでもないことを言われる。
一人でマグに入ったお茶を飲むことが多いし、カップの温かさをつい感じようと両手で包み込むように持ってしまって、ビシリ、と「ハンドルをつまむように! 指先を優雅にそろえて!」とすかさず注意が入る。
「でも、殿方は好きな女性には頼って欲しいものなのですわ……夜会でいちゃつくカップルを覗…こほん。いえお見かけするとそんなふうに、女性の方が可愛く自分の魅力を十分に使っておねだりしていますし」
「そんな……旦那様にご迷惑は」
「では、貴女は貴女の愛しの旦那様がお茶をいれてくれとおねだりされたらどう思いますの?」
「う……嬉しいです」
「ほうら。好きな人に頼って貰える事って素敵じゃないこと?」
そんな会話を、女性ならではの視点で語り合えるのは、アリメアにとってはすごくうれしい事だった。
そして、ユーフェリヌ様はアリメアを甘やかさない。
言うべきことは言って、そしてどんなつらい事でも直視させる。
おどおどとした態度は、それだけで恰好の陥れる材料になってしまう、人は弱いものを攻撃するものだから。
だから胸を張って……その自信は旦那様を好きだって気持ちが支えてくれる。
そう、自然に思えるようになってくる。
とにかく旦那様が恥ずかしくないような振る舞いさえできればと、必死にアリメアは毎日習い何とか形になった頃だった。旦那様から言われたのだ、一緒に夜会に出て欲しいと。
その招待は、セールブリア様の家の招待状。
趣旨としてはごく身内だけの気軽な小さな集まり、とはいえ招待客はかなりの数になるだろう。震えてしまうけれど、旦那様が側についてますと言ってくれて、そんな場に出る女性としてのマナーを習っていたその学習の成果を発表する時が、ついに来た。
この日の為に、菫色のドレス一式を旦那様にプレゼントして頂いた。
仕立て屋さんを呼んでくださって、一から自分の為だけに作られたそれは、今までに着たことがない程の上等の布地とデザインで、アリメアにとっては贅沢過ぎる品物だ。自分で布地を買って縫いますからと、遠慮しようとした時。ユーフェリヌ様の「おねだり」についての会話を思い出し、ありがたく受け取ると。旦那様はすごく嬉しそうにしてくださった。
そしてユーフェリヌ様の侍女の方に手伝ってもらい、化粧を施し、髪も結い上げ……鏡に映ったアリメアは別人のようにどこかの令嬢の様で、まるで魔法にかけられたような気分だった。
でもやはり、どこかおかしくないだろうかと不安になる心は、その姿を見た旦那様が「やはりアリメアには瞳と同じ菫色が似合いますね」と微笑んで言ってくれるだけで泡のように消えてしまう。
「いきましょうか?アリメア」
そういって旦那様が腕を差し出すと、アリメアは躊躇いがちに頷いてから顔をあげ、そっと自分の手を添えた。
今まで夜会の準備のお手伝いと裏方はしたことがあったけれど、招待客として参加するのは初めての事。しかも旦那様のエスコート相手と言うことで、お屋敷につくと良くも悪くもかなりの注目を浴びた。
アリメアは煌びやかな人々が投げかけるその視線に込められたさまざまな思惑に、倒れそうになる程緊張して青ざめた。ドレスも髪型も急に、中身がそぐわないと笑われている気分になる。
が、隣にいる旦那様の存在が勇気を与えてくれる。――帰りましょうか? と、旦那様の目はそう語っていた。気を使ってくださるけれど。途中で帰るのは招待してくれた方にとても失礼にあたるので、アリメアは絶対に帰ろうとは言えなかった。それに一度帰ってしまうと、二度と行く勇気が持てなくなってしまう。
すでにそこにはユーフェリヌ様が婚約者様ときていたようで、柔らかそうな老婦人と談笑していた。老婦人はシェイドルディナー伯爵夫人と名乗ったので、アリメアもドキドキしながら丁寧に名乗った。けれど……態度は変わらない。まぁかわいらしい方ねとほほ笑む。
「ソル隊長のお心を射止めるお嬢様はどんな方かと皆噂しておりましたのよ。貴方は――特定の女性をエスコートされないから」
「大事な人は隠しておきたい性分なのですよ……無駄な争いは避けたいものですから」
「まぁ、お熱い事。本当に溺愛していらっしゃるのね」
「……」
アリメアはそんな会話に入っていけずに、しかも内容が内容なだけあって、真っ赤になって俯く。
しばらくは、そんなアリメアにとってはなんと答えていいかわからない話題が続いたが、他の方々も伯爵夫人の周りに集まってきて、他の招待客の話題に移っていく、その頃にはユーフェリヌ様とお話ししていたように、他の方とも自然と会話できるようになっていた。
そして、ユーフェリヌ様の言っていた「防波堤」の本当の意味に気が付いた。
優しくて暖かいご婦人の周りには、そんな方々が集まるのだと。
アリメアの事を、興味津々な目で見ても、見下すような目で見る人なんていない。
先程から、旦那様の婚約者と知って鋭い視線はあったが、その視線は遠巻きに見ているだけで、近寄ってはこなかった。
そしてついに、主賓格であるセールブリア様にご挨拶をすることになった。
旦那様に付き添われ紹介されたセールブリア様は、間近で見ると屋敷の本宅で掃除中に見た、国宝級の陶器の人形のような美しい方だった。
アリメアも細い方だが、アリメアのそれは、貧相に映る。
けれど、彼女の細さは繊細な細工を思わせた。
滑らかで白い肌、可憐な唇、黄金のような巻き毛。瞳はまあるく、宝石のように美しい青の色。いくらでも賛辞の言葉が浮かんでくる。
こんな美しい方を差し置いて……旦那様は本当に、何故自分を選んでくれたのだろうと、一瞬アリメアは混乱した。
でも旦那様の優しい鳶色の瞳は、こんなに美しい人を前にしても、アリメアの方を見ている。
優しいまなざしは、アリメアだけに注がれて、それが本当の事だと、なによりも物語っていた。
「貴女が?」
美しい声で、揶揄するように尋ねられて、アリメアは背筋を伸ばし「はい」と答える。
周りの皆が、言わなくても視線で三人の会話を気にしているようだった。
「まぁ本当に使用人と結婚するなんて……ありえませんわ」
「セ……」
旦那様が何か言いかけるのを、添えた手に力を入れて、アリメアは止めた。
心臓が、緊張のためどきどきする。
優雅に口許に扇を添えながら追い撃ちをかけるその姿も、まるでお芝居のように美しい様子なので、アリメアには現実感がなくて思ったよりショックは少なかった。それに彼女の様子は、軽蔑よりも純粋な疑問が強い。
「そんなに……おかしい事ですか?」
分かりすぎる程、アリメアは分かっていたけれど。
聞かずにはおれなかった……気になっていたから。
「貴女には失礼ですけれど軽く見るのは当たり前ですわ。だって育った環境が違い過ぎて、価値観が違うのですもの。同じ世界の人間をパートナーに選ぶのは自然ですわ」
それは散々、アリメアには痛感していること。
――大丈夫、耐えられる。
心配しないで下さい旦那様と、アリメアは旦那様の様子を伺う目に答えるように、添えた手をかすかに動かした。
「どれだけの労力を貴女は費やして、彼の身上を無駄にしないおつもりなの?」
暗に、私なら旦那様の全てを限りなく使えるとセールブリア様は言っていた。
その答えで、アリメアはあの日、旦那様が言ってくださった事が、本当だったのだと実感する。
『自分たち二人の間にあるのは家同士が有益かどうかなのです』
旦那様はそうおっしゃってくれたけれど、本当にそうだろうか? と、セールブリア様のお気持ちがアリメアには気になっていた。
本来なら、彼女こそ旦那様の奥様の座に一番近い方だったのだ。
だからその答えを聞いて、アリメアは安心してしまう。
そして自然と、口に出た。
「その、身のほど知らずなのはわかっているんです。でも、旦那様を、お慕いしてるんです」
こんな完璧なセールブリア様にはなく、間違いなくアリメアの方が持っているものがある。
それは旦那様が好きだという気持ち。
旦那様の好きだと胸を張って言える自分。
「あの……だから。一緒に笑って……二人で幸せになりたいです」
言ってしまってから、セールブリア様の質問へあさっての方向へ回答している事に気がついた。ますます賢い旦那様には不似合いの愚かな娘です、と言っているも同然で。
アリメアは恥ずかしさのあまり、真っ赤になるのを止められない。
でもセールブリア様から目を離さなかった。
それはどんなに馬鹿にされようと、自信があったから。
しかしセールブリア様は、馬鹿にするどころか、目を伏せて軽いため息をつくと、旦那様に確認する。
「お可愛いらしい方ね……貴方は"これ"を選んだのね」
「ええ。お分かりいただけたでしょうか?」
呆れられても仕方のない回答なのに旦那様は満足し、そしてセールブリア様は納得している。
「今日は彼女と直接お話できてよくわかりましたわ……どうやら貴方とも価値観が違ったようね」
「ええ」
旦那様がアリメアを見ながら、極上の笑顔を浮かべる。
アリメアは二人の間に通じ合うものがなにがなんだかわからない。でも。
セールブリア様は、アリメアの答えで満ち足りたようだった。
「お二人ともお幸せに。お二人が笑顔で過ごせる家庭を築くのをお祈りしておりますわ」
そう、笑顔で言い。セールブリア様はお忙しいのか、話を切り上げて他の方の輪に入っていく。
アリメアは優雅に去っていく後姿を見て、この方とお話できて本当によかったとホッと一安心し、旦那様を見た。旦那様は、相変わらず満足げにアリメアを見ている。
「あ、あの。本当によろしかったのでしょうか?」
「何がですか?」
「そ、その……色々と」
少し、興奮が冷めてくると、アリメアは何かまずかったのではないかと、びくびくしてしまう。
アリメアが言いよどむと、旦那様は穏やかに――でも少し愉快そうにアリメアの手を取った。
「先ほどの、勇ましさはどこに行ってしまったのですか? ……自分は嬉しかったですよ」
「?」
「貴女の口から、自分の事を好きだと聞くのは心地よい事なのですが」
「!!」
そうだ、告白をしているのと同じことなのだと、恥ずかしがり屋のアリメアは公衆の面前で何という事を言ってしまったのかと、顔から血の気が引いてしまう。お行儀が悪いと思っても両手で、頬を挟んでしまう。それを察した旦那様は、少し夜風に当たりましょうか、とテラスへと人目を避けるように自然とアリメアを誘導してくれた。