番外編2-1 幸せの隠れ場所《1》
アリメア=ヘイトンは今の自分の状況が幸せすぎて、夢じゃないかと思っていた。
幼い頃からお仕えしてきた、大好きな旦那様からの求婚。
それは、何度頬をつねっても、痛みを伴い。何度眠って朝が来て現実だと教えていても、彼女にはいつか醒めてしまうんじゃないかと、雲をつかむような夢のような出来事だった。
何度となく旦那様と顔を合わせるたびに、求婚された事は今になかった事になるのではないかと、びくびくしていたが、今まで使用人としては絶対に許されることはなかった、旦那様の隣に座らせられ視線を合わせて話をしたり、恋人としての待遇をされているうちに、幸せが実感できてくる。
ささやかなノックの回数でさえも。
先日は、当たり前のように手を握られて、心臓が壊れそうなほどドキドキしたが、涼しげな顔をしている旦那様に「自分も緊張してますよ」と言われると、とっても信じられなかったが、心が和らいだ気がした。
口付けを交わしたのは、あのプロポーズの時の一度だけ。
結婚すると言う事。恋人同士になるということが、恋愛レベルが小さい子並みのアリメアにとっては驚くべき出来事で、でも旦那様はアリメアのペースに合わせてくれている。
そんな風に、二人はゆっくりと、でも確実に恋人として近づいていた。
しかし、時間が経てば経つほど、アリメアには違う現実が見えてきた。
旦那様は豪商、ソル家の次男。
貴族ではないが、上流階級としての暮らしがある。その奥様となるには、それ相応の身分にふさわしい品格、教養などが必要だ。それは、旦那様のお母様をみても、旦那様のお見合い相手の履歴を見ても明らかで。生まれながらのメイドであるアリメアには勤まらないように見えた。それは身分社会の現実。
でも旦那様は、意外にもアリメアの不安を一笑に付した。
「自分はもうソル家からは独立して、独自の暮らしを確立していますよ」そう告げられ、ソル家は長男のお兄様のもので、旦那様のお仕事……騎士団内での身分は隊長であり、ソル家の次男としてではなく、騎士団隊長としての家庭を築き上げたいと、アリメアに説明する。実家の仕事は手伝うが、あくまでも家族としての義務から。旦那様はソル家の次男としては、公の場でも私的な場でも出る気はないようだった。
「ソル家の次男でなければ、私とは結婚しませんか?」
そう、伺うように微笑まれれば、アリメアは首を横に振るしかない。あくまでもアリメアは「旦那様」自身が好きなのだ。
出会ったのも、仕えたのも、ソル家の次男としてだった。
でも「好き」になったのは彼自身がどこまでもアリメアに優しかったからだ。
見守ってくれたからだ。
出来るまで待ってくれるからだ。
そんな人は今まで居なかった。だから出会いが違っても、仕えるべき主人じゃなくても、彼が彼で在れば、アリメアは何度だって恋に落ちていただろう。
そんな必死なアリメアに、旦那様はほっとしたように、ため息をついた。
「両親の事は尊敬してますが。親の顔もろくに見えないような家庭は作りたくないのでね」
この台詞で、旦那様の本音が見えた気がした。
旦那様のご家族は、商売柄各地方をバラバラに飛び回っている。家族全員がそろうのは年に数えるほど。家族よりも、メイドのアリメアと一緒に居る時間の方が長い。
かくいうアリメアも、旦那様のご両親に直接の結婚のご挨拶は、まだ出来ていなかった。執事のオルティス経由の手紙で、二人の結婚の許しをもらっただけである。頂いた手紙は旦那様の父親の蝋印で封をされ、間違いなく旦那様の母親の筆跡で、「二人の意思が確かならば結婚を許します」と簡潔に書いてあった。それで許されたことには間違いはなかったが、現実味はない。
アリメアは色んな要因が重なって、旦那様の妻になるという自信はつかなかったが、旦那様の隠された本音を聞いて、初めて明確に決心が出来た。
そして旦那様がアリメアを選んでくれた意味も、理解する。
今までの旦那様のお見合い相手では、叶えられないかもしれないその理由は、庶民育ちのアリメアにとっては当たり前の家族としてのあり方で。旦那様のその願いをかなえて上げられるのだ。むしろ適役といっていい。
ソル家の次男の奥様としては絶対無理。でも、アリメアは騎士団隊長の奥様としてはなんとかなるかもしれない。そんなかすかな甘い希望を抱いたのだった。
旦那様の奥様になる決心が……アリメアなりに整理できてから数週間。
しかし今だアリメアはメイドとしての立場と、旦那様の婚約者としての立場もどっちつかずだった。
やはり要領の悪いアリメアには、今までのメイドの立場をすっぱり捨てさり、うまく切り替える真似が出来ない。
旦那様は「出来れば早く奥様としての態度になってくださいね」と言うけれど、その言葉だけでいつもの通りに急かす素振りはみせなかった。メイドの仕事のようにいつかアリメアが婚約者としての役割に慣れると思っていたのだろう。
その優しさに溺れて、大失敗をするとは思わずに。
仕事の終わった旦那様と夕食まで一緒にゆったりとした時間を過ごすのが日課になっていた。
それは、旦那様の提案。
二人の時間を作ることで、婚約者としてなれるようにということかと思ったアリメアだったが、「ただ単に貴女と居たいんですよ」と言われれば、違う意味で動悸が早くなる。
書類を見ながらカウチにゆったりと腰掛けている旦那様の隣に座って、やる事は……というとメイド仲間であった友人に手紙を書いたり、本を読んだりと様々だが、今日はアリメアは刺繍をしていた。
刺繍はアリメアの趣味だ。初めの頃は旦那様と一緒にいる時に、手を伸ばさなくても触れ合える程の近距離の緊張に耐え切れず、指に何度も針を刺してしまっていたのだが、慣れてしまうと旦那様の視線が書類にあって、その横顔を見つめてしまう。旦那様の真剣な顔も、見とれてしまうほど素敵だった。
時たまに、旦那様がこちらの方を覗き込んで、アリメアの刺繍の出来を見る。
縫い目は長年の趣味だけ合ってそれなりに整っていたが、図案はアリメアに絵心が全くないために、既存のものを使わないと、普通の人には理解できない形になってしまっていた。しかし旦那様は長年の付き合いの経験とカンで、何を縫っているのか理解している。
今日も縫い始めた刺繍枠を覗き込まれて、図案の説明をしていると、ふわりと旦那様の前髪とアリメアの前髪が触れた。視線を上げると、旦那様のとび色の瞳にじっと見つめられている。
「……旦那様の瞳、大好きです」
アリメアがやっとのことでそういうと、旦那様はアリメアの髪を優しくなでた。
優しい、鳶色の瞳。
この目に見つめられて、安心していたのは何時までだろう。今では見つめられるだけで、嬉しいけれど落ち着かない。でも、アリメアの視線は旦那様を追ってしまう。
頭の中が、ぼおっとなって、旦那様の顔がゆっくりと近くに寄る。
ぎゅっと、目を閉じれば。かすかな吐息の後に、接吻は額に降りてきた。恐る恐る目を開けてみれば、少し困ったような旦那様の顔。
「すみません……。嫌、でしたか?」
「いいいいいえっ!!」
呆れられた! そう思うと、自分の子供っぽさに泣きたくなる。
嫌じゃない、そういいたいのに、そう伝えたいのに、アリメアは上手くいえない。
「貴女が嫌がるような事は、したくはないのでね」
「そ、そんな」
長い付き合いだけれど、恋人同士の関係としては始まったばかりで、この距離感は旦那様もアリメアもお互い手探り状態だった。アリメアは恥ずかしく、触れられた先から何かが変わっていくような気がして、少し怖かった。でもそれ以上に、旦那様が好きだという気持ちはこみ上げて来る程強くて、そしてはしたなくても、もっと触れて欲しいと思ってしまう。
すこし気まずい雰囲気を何とかするかのように、アリメアはありったけの決心して告げた。
「あの……えっと、旦那様にお願いがあるのです……が」
「何でしょうか?」
少し驚いたように、でも嬉しそうに微笑む旦那様に、アリメアは初めて恋人のおねだりをしてみた。それは些細なことだったけれど、恋人としての第一歩、勇気を出して意思表示。
言葉じゃ、伝えきれない。
アリメアは旦那様に寄り添ってみる。
そんなアリメアの行動が思いもかけなかったのか旦那様の身体が少し強張った。駄目だったのだろうか? そう伺うようにおずおずと見つめてみれば、旦那様はすでに書類に目を通していて、身体を離そうとしたアリメアを空いている手で引き寄せた。無言のその行動に、アリメアは面食らったが、旦那様も緊張してるけど嫌がられてないと思うと、段々と胸の鼓動も落ち着いてくる。これが、いつか自然な二人の姿になるのだろうか、とよく見る夫婦の関係を思い浮かべながら、それまでに自分の心臓がもつのだろうかとアリメアは考える。
そして、その穏やかな時は一人の来訪者によって、崩された。