第一話 旦那様の求婚
「え……っと……。あのっ……。その……?」
「では、とりあえず、考えてみてくださいね。
内容が内容ですから、早めに返事は頂きたいものですが。
急かしは致しませんよ」
そうアリメアに言った青年は、いつものように優しく微笑むと、何事もなかったように、手元にある書類に目を落した。
その机に向かっている様子は、目の前にいるアリメアの事がすでにいないかのようだ。
窓から差し込む夕日で、その微動だにしない整った顔は、彫像のようにきらめいている。
アリメアはぼーっとその姿を見つめて、しばらくして我に返った。
「あ、は……はい。
失礼いたしますっ……旦那様!!」
アリメアは茶器一式を載せたワゴンをぎこちなく押しながら、書斎を退出する。
夕日の光が隠してくれたが、色白な顔は林檎のように真っ赤になっていた。
心臓がドクドクと、自分の物ではないように強く波打っている。
夢見心地に廊下がふわふわと揺れているようだ。
なかなか足が進まない。
厨房という自分の領域に入ってやっと……自分が息をしていない事に気がついて、大きく深呼吸する。
――これって夢じゃない、ですよね?
好きな人からプロポーズされるという事は、とても幸せな事で……。
女の子なら誰もが夢見る最高の夢だと思う。
そう、たった今アリメア=ヘイトンは、好きな人にプロポーズされたのだ。
でも、アリメアはどうしていいか分からなかった。
『いいえ』と拒否したら、その話はあっさりと無かった事になるだろうし。
そして素直に『はい』と頷いてしまえば、きっと旦那様はあっさりとアリメアと結婚するだろう。
そんな冗談は言わない人だ。
でも……。
アリメアはとてもおっとりしていて、親だけでなく初対面の人間にさえゆったりしすぎていると言われてしまう女の子だった。
このプロポーズに「はい」と言っていいかどうか、一生で一番頭をフル回転させてもどうしていいか分からない。
……相手が好きな人、なのに。
アリメアにプロポーズしたのは、現在彼女をこの家の通いメイドとして雇っている主の青年だ。
――二人の出会いは、アリメアが幼い頃までさかのぼる。
父親と離縁した母親が、結婚前の職歴を生かして、豪商の家でメイドとして働く事になった事から始まった。
次男である坊ちゃまと年の近かったアリメアは、その関係でお世話係になったのだ。
要領の悪いアリメアは父親にいつも怒鳴られていた。そんな自分にお金持ちのお坊ちゃまのお世話係なんて、とても出来ない恐ろしい事のように思えた。
会う前日は、緊張で眠れなかった程だった。
しかし……実際に会ってみると坊ちゃまは、恐ろしくもなく優しげで、見るからに賢そうな男の子だった。
坊ちゃまの子供部屋は、高い天井を覆い尽くすように本棚が備え付けられていて、まるで本の海の中だった。
その中に立っている、仕立てのいい服に身を包んだ少年。
大きな窓から刺す光で、金色に輝く髪を持つその顔に、優しげに微笑を浮かべている。
まるで天使様のよう……。
じっくりと見つめれば、麦わら色で輝くような金髪ではなかったが、光の加減を差し引いても輝くような雰囲気を持っていた。
緊張して、母親の後ろから中々出て来れないアリメアをじっと見つめている鳶色の瞳は、特に非難の色も見せず、柔らかい。
坊ちゃまはアリメアを否定する事もなく、そして辛抱強く待つ少年だった。
豪商の次男という環境で育ったので、同じ年頃の子供よりはかなり大人びていた為に、アリメアの引っ込み思案な性質を見抜き、待つ。という事が最適な対応だと思ったんだろう。
仕事があるからと母親に置いていかれ、二人きりにされて困ったアリメア。
そんなアリメアを見て、坊ちゃまはそのまま放置した。
無視しているのとは違う。
「用事があればしてもらいますから、自由にしててください」と指示はされた。
自由にしてもいい。
そう言われて、むしろどうしたらいいのか分らないアリメアは、する事も無く立ち尽くすしかなかった。
……そしてじっくり考えて。
母親がいつもお茶を入れていたことを思い出し、坊ちゃまに許可を貰ってお茶を入れる事にした。
しかし、今までそんな事を自分でしたことがなかったアリメアが、勿論できる筈もなく、結果は大失敗。
坊ちゃま所有の高価そうな本を数冊、お茶とはいえない液体で駄目にしてしまったのだ。
あわてて謝る事しかできないアリメアに。
「いいえ。君にお茶を入れる事を許可した、自分が悪かったんです」
坊ちゃまは、静かに言った。
とてもとても怒られると思っていたのに、アリメアは小さい体には不釣り合いなほど大きな目を見開いて、驚いた。
事実、父親が居た時には些細な失敗で、殴られていたアリメアには信じられない言葉だったのだ。
自然と、涙があふれてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「……? なぜ、泣くんです?」
坊ちゃまは、本当に不思議そうにアリメアを見つめていた。
早く泣き止まなくてはと思えば思う程、なかなか涙が止まらないアリメアに困ったように、ハンカチを差し出す。
「出来ないのなら、出来るようになるまでお茶を入れてみてください。
自分も飲んで付き合いますから」
――なんて優しい人なんだろう。
それが、坊ちゃまとの初対面。
坊ちゃまのお世話をするようになったアリメアは、時々坊ちゃまから薦められて、勉強を教えてもらうようになり。絵本からだが、本も坊っちゃまに借りて読むようになった。
仕事の手順を覚えるには読み書きを習い、覚え書きを取ることが、一番だと提案してくれたのだ。
頭のいい坊っちゃまは、一度聞けば覚えるらしい。
そんな坊っちゃまが、覚えの悪いアリメアに考えてくれたのがこの方法だった。
書いたことを読めば、人に何度も聞く手間を省けて効率的だ、と。
アリメアは流石頭のいい坊っちゃまだと尊敬する。
文字を覚えることは、はじめての経験で、アリメアにはとっても楽しい事だったが、要領はかなり悪かった。出来なくて、悔しくて、幼いアリメアは何度も泣きそうになった。
けれど、初めて泣いた時にもらったハンカチはそのままアリメアのものとなって、何度もその涙をぬぐってくれた。ハンカチを使うたびに、坊ちゃまに慰められている気分になる。
一を聞いて十を理解できる賢い坊ちゃまからすれば、十を聞いて一しか理解できないアリメアはとても馬鹿に見えただろう。
でも。
「仕方がないですよ、人には向き不向きがあるのですから……貴方ができなくても当然です」
貴女は貴女のペースでやればいいのです。
そういって励ましてくれた、鳶色の瞳はいつまでも変わることなく優しげで。
普通の人なら馬鹿にしたり、怒ったりするようなことをアリメアがしでかしても。坊ちゃまは決して声を荒げたりもせず、アリメアに対してじっと辛抱強く、穏やかな態度を崩さなかった。
「昨日より今日、今日より明日。
できるようになっていますよ、お茶も」
そう言って、アリメアが入れたお茶を飲みながら、優しく微笑んでくれるのはいつものことだった。
アリメアが坊ちゃんの事を異性として段々と好きになってしまったのは、当たり前の事だったと、思う。