第8章 脳は思考の器、肉体は感情の器(下)
これは前作「中2の夏に、白石くんが神様になった」の続編です。
今年の夏休みに不思議な体験をした、日向 結と白石くん。
秋から冬、そして早春に季節は進んでいく中で、さらに不思議さは増していきます。
人間の“思考”と“感情”、“魂”と“心”をめぐり、少女が成長する物語をどうぞ最後まで見守ってあげてください。
第8章 脳は思考の器、肉体は感情の器(下)
(2)-a
「パパ、ママ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「Have a nice day!!」
いつもと同じ登校の場面。学校に向かって歩きながら、わたしは考えていた。
(ママの気持ちが暗いな……)
今朝、「おはよう」とお互いに挨拶してママの顔を見た時、ママの感情がわたしにはわかった。ニコニコしていたけど、わたしに何か言いだせなくて苦しんでるみたいだった。
それが何なのかまではわからない。ママとわたしの間のこの感覚は、いつも言葉まではわからない。心の状態が大まかに感じ取れるだけだ。
あっ、でも名前はわかるな。ママが心の中で「結!」って思ったときは、耳で聞いたのと同じ感覚で伝わってくるかな。
(でも、わたしの方だって……)
第二回神様Q&Aのことも言ってないし、またやろうとしてる第三回目のことだって言えない。心配かけちゃうから……。
(どうしよう、良くないよねこういうの)
*
放課後アルトパートの女の子たちと自主練して、夕方ひとりの帰り道。
今日は白石くんとしゃべれなかった日だった。
休み時間は各パートで自主練してたし、放課後はわたしも白石くんも、それぞれ自主練があって帰る時間が合わなかった。
だから昨日矢納さんと話し合って決めた、第三回神様Q&Aのことも伝えられなかった。
こればっかりは、白石くんがいないとできないから、早く相談しなくちゃいけないんだけどなぁ。
(2)-b
「ただいまー」
結が帰ってきた。
「おかえり、結」
返事をしながら結の顔を見た時、美沙には結の感情が伝わってきた気がした。
笑顔ではあるけれど、憂鬱で沈んだ感情。
「パンケーキ焼いてるのよ、結もおやつに食べる?」
「やった! お腹へってるんだ、いっぱい唱ったから、クタクタだよ」
(そうか、それで……。疲れてたのね、結)
杞憂であったかと、美沙は多少安心してキッチンに戻った。
「結、帰ったのか。おかえり」
ジョナサンが、部屋のドアから顔だけ出して結に声をかけた。
夫は、1日中部屋にこもって、仕事の文書を作成しているようだ。結も「ただいま、パパ」と応えながら自分の部屋へ荷物を置きに行った。
妊娠中期で安定期に入ったと定期検診で告げられたばかりなのに、なにかわからない不安感があり、過度に敏感になっている神経を美沙は持て余していた。
なにしろ、夫の代わりに夕食の支度をするつもりだったのが、なぜか結のためにパンケーキを焼いてしまっていたのだ。
「どうぞ、召し上がれ」
テーブルにパンケーキとメープルシロップを運んだときの、甘い香りが鼻につく。安定期に入っておさまっていた“つわり”が、またくる予感がする。
「美味しそう、ありがとうママ」
「お口にあえばいいけど」
かろうじて笑顔で応えられたが、立っているのがつらくて、テーブルの横のソファにドサッと座った。
「ママ、大丈夫? お腹大きくなってるのにごめんね、しんどいよね」
食べかけのパンケーキを皿に置いて、結が立ち上がった。
「パパー、ねぇ、パパぁー!」
ドアが開いてジョナサンが飛び出してきた。
「パパ、ママがつらそうにしてる」
「Misa! What’s wrong? Does something hurt?」(美沙、どうしたんだい? どこか痛むのかい)
「I’m OK. It was just a little hard to stand.」(大丈夫。立ってるのがちょっとつらかっただけだから)
「Were you planning on making dinner? I’ll do that for you.」(晩ごはんを作ろうとしてたのかい? そんなの僕がやるから)
「Thank you, but I’ll be fine if I get some rest.」(ありがとう、でも少し休めば大丈夫)
妊娠してる美沙に、献身的にサポートしてくれる夫に、いつも笑顔で感謝している美沙だが、今は神経が過度に反応して、涙がひとすじ頬を伝っていた。
(2)-c
さっきはびっくりした。ママやっぱり大変なんだなぁ。きっと、今朝、ママの感情を感じたあの時も辛かったんだ。
あれからママはソファに横になり、わたしはママの向かいのソファに座って、パパが急いで晩ごはんの支度をしているのを見ていた。
パパはときどき振り返ってママのことを見ていた。パパも優しい。
さっきママがちょっと泣いちゃった時、パパはママにキスしてた。いつもは見ないようにしているんだけど、さっきは横目でちょっとだけ見てた。
ママはご飯を食べなかったけど、体調はそんなにひどくないみたいなので、今はソファに横たわったまま、パパと仲良くお話してる。
夏にハイキングに行った時、パパが言ってたな。
「パパとママのお互いの気持は、見事に融合してる」
って。
神様が言ってた。
「思考は融合して“魂“という大きな思考になる。人間に宿った“魂“同志がさらに融合して、よりおおきな思考になるのか、それはまだわからない。ただ、どのみち肉体に留まることのできなくなった“魂“は、ぼくが取り込んで、ぼくと融合する」
って。
それはきっとそうなのだろう。それが世界の真実なんだと思う。
でもね、神様。人間に宿った“魂“という思考は“感情”を生み出すんだよ。
手で触れた感触、肌で感じた温度、目に映る美しいもの、いい匂い、舌で感じた美味しさが……。肉体から送られてくる、そんな情報から“感情”が生まれるんだ。
脳は思考の器。
肉体は感情の器。
そして神様、人間から取り込むことができるのは思考だけ。“感情”は神様とは融合しないで、肉体が終わってしまった後でも、子どもや残された人々に引き継がれていくんだ。
肉体を持たない神様には、たぶん“感情”がわからないのだとしたら……ちょっと、かわいそうかもしれないな。
パパとママが仲良しなところを見て、それがジグソーパズルの最後のピースになって、わたしはそんな全体像を導き出した。
(合ってるかなぁ?)
これは、“神様に聞きたいこと”というよりも、”神様に教えてあげたいこと”ってことになるのかなぁ。
(3)
11月19日(水)
「結ちゃん、昨日いっしょに帰れなかったから、きょうは帰ろうね」
白石くんが朝から帰りの話をしてきた。うれしいけど、けっこう教室に人が増えてきたから、ちょっと恥ずかしい。
それで、小声で「うん」って返事して、
「今日、ちょっとでいいから白石くんの家行ってもいいかな」
神様Q&Aの事を話さなくちゃならないから、学校じゃなくてどこかでふたりきりになりたいんだ。
「えっ、い、いいけど……なんで」
「話があるの。誰にも聞かれないところで」
「わ、わかった。そ、それで、あの……」
始業のチャイムだ。残念そうに白石くんが席に戻っていった。
*
きょうは5、6時間目の授業が、クラス全体の課題曲練習に変更されていた。
ピアノ伴奏の女の子と指揮者の男の子の練習も兼ねている。パートごとに音楽室の後ろに並んでみると、なかなかの緊張感だ。
指揮者がタクトを頭上に掲げて止まる。そしてゆっくりと振り下ろされ、ピアノの前奏が始まる。
♪どうして 君が泣くの
まだ僕も 泣いていないのに
自分より 悲しむから
つらいのが どっちか わからなくなるよ♪
わたしは「ひまわりの約束」の歌詞が好き。
大切な人同志が、離れてしまったり、その先でまた出会えたり……。わたしにもあるかも知れない未来と、その先にある、もっと先の未来のことを想像できるから。
♪そばにいたいよ
君のためにできることが 僕にあるかな
いつも君に ずっと君に 笑っていてほしくて♪
*
最後まで通して唱い合わせるのは初めてで、まだ練習不足なところはあるけど、すごいよかった。素敵だった。みんなもちょっとどよめいていた。
部分的に合わせて唱ってみたり、パートごとにやってみたり、かなり濃密で収穫のあった練習だった。少し疲れたちゃったけど、それさえも心地よい。
担任の先生もいっしょに音楽室にいたので、そのままHRをやって解散。みんな教室に荷物を取りに行ってから下校だ。きょうはどのパートも、自主練はなし。
教室に向かう集団の後ろの方で歩いていると、白石くんが近寄ってきた。
「日向さん、練習良かったね、楽しかった」
そう話しかけてきた白石くんは、目がキラキラしてる。
「ねっ、わたしも楽しかった」
「僕、日向さんの声、判ったよ」
「あっ、わたしも白石くんの声だって思った、サビのとこで」
「そばにいたいよぉ~♪ってとこね。あそこ好きで大きな声になっちゃう。パート練習で注意されちゃった」
「えー、いいじゃん、大きいほうが、声」
「でも、ハモるとこでテノールが目立っちゃ、合唱としてさ、アレなんじゃないかな」
夢中で話していたら自分たちの教室を通り過ぎちゃってて、慌てて廊下を戻ると、もう教室には誰もいなかった。
「早く帰ろっか、僕の家来る時間なくなっちゃうよ」
「うん、でもこのまま直接、白石くんの家に行っちゃおうかなって思ってたんだけど」
「えっ?」って振り向いた白石くんの顔と、カバンを持って立ち上がろうとしたわたしの顔が、くっつきそうなくらい近づいた。
(……!!)
「ご、ごめん! 結ちゃん!」
(……)
「ごめんね……」
「うっ、う、うん。ぶつかっちゃうとこだったね、はは……」
「……行こっか」
「うん!」
ゲタ箱まで階段を下っていく。白石くんは前を歩いている。いつもは少し見上げている白石くんを、上から見下ろしながら付いていく。
(少し髪の毛伸びてるな)
白石くんの襟足を見ながらそう思う。
さっきはパパとママがキスしてる場面を思い出して、すごくドキドキした。今もドキドキが少し残ってる。
(白石くん!)
心の中で名前を呼んでみた。
「えっ、なに?」
階段を下り終えた白石くんが振り向いてくれた。
「うぅん、なんでもない」
*
白石くんと並んで歩く帰り道。日が落ちるのも早くなった11月、もうオレンジ色の空に変り始めてる。合唱祭までの2週間、毎日楽しい練習が続くといいな。
ニコニコと笑うわたしの顔は多分真っ赤になってる気がしたけど、もうすぐ夕焼けだから大丈夫かな。
白石くんの家に行く用事を、完全にわたしは忘れていた。
(つづく) 8月12日 07:00投稿予定




