乂阿戦記3 第三章 黄衣の戦女神 峰場アテナの歌-4 亡き妻グレートヒェン
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彼は生まれた――それは、記憶であり、呪いだった。
ファウストは思い出していた。いや、それは「思い出」などという生易しいものではない。
自分がこの世に現れた、その瞬間の記憶。
まさに、生と死の境界を越えた“原体験”だった。
かつて彼は、巨人族の血を引く狂気の科学者として生を受けた。
ロキから禁断の知識――すなわち“ケイオステュポーン”に関する研究資料の提供を受け、世界の真理に挑んだ男。
類稀なる頭脳を持ち、しかしその才がゆえに人類を駆逐し、巨人族による新世界を築こうという歪んだ思想に染まっていった。
やがて彼は進化とは逆行するものであり、人間を原初の姿――すなわち“進化前の生物”にまで退化させ、新たな種へと導くべきだと結論づける。
彼が取り組んだのは、「別進化型人類」の創造だった。
だが、その研究は失敗を重ね続けた。
ついには自身も病に蝕まれ、余命幾許もない身体に陥る。
狂気と孤独、そして業績への執念だけを残して――ファウストは自ら命を絶とうとした。
しかしその直前、彼は決断する。
自らの肉体を、研究成果へと捧げることを。
死の間際、燃え尽きる寸前の彼の意志と記憶は、実験体の中核へと統合された。
生への執着は、形を変えて甦る。
そうして生まれたのが、《カオスクトゥルー》。
先代ファウストの知識・記憶・肉体構造のすべてを吸収した“究極戦闘生命体”。
だが、カオスクトゥルーは巨人族至上主義には興味がなかった。むしろそれを「くだらない妄想」としてあっさり否定していた。
自分は、かつてのファウストとは異なる存在――なぜなら、「喰らった」からだ。
先代ファウストの脳髄を貪り、その全記憶を取り込み、愛憎も、理念も、家族の記憶さえも、その血肉とした。
そこに宿っていたのは、無様なまでに人間的な愛の記憶だった。
先代ファウストは、妻グレートヒェンを愛していた。
だが、娘・クリームヒルトには――まるで関心がなかった。
彼女は“人造魔法少女”。愛の果てに生まれた実子ではなく、研究対象として製造された“人工の存在”だったからだ。
「これは家族ではない」――その冷徹な態度が、夫婦仲を決定的に壊していた。
やがて離婚。
先代ファウストは研究に没頭し、孤独のうちに朽ち果てた。
――そして怪物だけが残された。
……当初、カオスクトゥルーはこの家族に関わるつもりなど一切なかった。
自分はただの“代役”。記憶はあっても、それは演技のための台本のようなものでしかなかった。
だが。
怪物のはずの彼が、人間と交わるうちに、奇妙な感情を抱き始めた。
かつてのファウストと同じ名で人間社会に紛れ、グレートヒェンと再び関わるうちに――まったく違う関係性が育っていた。
皮肉なことに、人間だった頃よりも、怪物になった今の方が“家族”という形に近づけていた。
ある日、グレートヒェンは言った。
「あなたも組織を抜けて、随分と丸くなったわね……。再婚、考えてみる?」
再婚はしなかった。
だが、旅を共にし、日々を重ねるうちに、彼女の胎に新たな命が宿った。
ファウストは責任を取ろうと、改めて再婚を申し出る。
だが彼女は、それを拒み、代わりに「養育費だけでいい」とだけ伝えた。
その選択に、ファウストはただ微笑んで頷いた。
――過ちの先に微笑みがあるなら、それだけでいい。
そう、信じていた。
文通を続ける中、ある日届いた手紙に彼は目を見張る。
――『男の子が生まれるよ!』
名前の相談を受けたファウストは、“キラグンター”と名付けた。
そして、クリームヒルトの誕生日に再婚の意思を込めた贈り物を送ろうとした、その日――
彼は、何の連絡もないことに不安を覚え、彼女の家を訪れる。
しかし、家の中は鍵がかけられ、呼びかけにも応じなかった。
「開けろ、グレートヒェン! 中に入るぞ!」
ドアを破って飛び込んだその先で、彼が見たのは――
ベッドに倒れ、腹を抱えて震える彼女の姿。
その腹から溢れるのは、ただならぬ魔力の奔流。
「グレートヒェン……お腹が……!」
「イヤッ! 放っておいて! この子は、私が産むの!」
その声には、恐怖と決意が同居していた。
「病院だ! このままだと死ぬぞ!」
「どの病院でも言われたわ……中絶しろって。そんなのイヤ!! 私は絶対にこの子を産む!!」
強情な彼女を、ファウストは無理やり抱きかかえる。
だがすでに、彼女の体力は限界に達していた。
「……これは、私のせいか? 人間ではない私が、グレートヒェンと……子を作ったから……?」
罪悪感が、心臓を掴むように押し潰してくる。
彼女は病院で息を引き取り――その命と引き換えに、キラグンターはこの世に生を受けた。
それは始まりだった。
だが、同時に、また一つの悲劇でもあった。
ファウストは思い知る。
自分のような怪物には、子を育てる資格などない。
自分は獣だ。人に交わるべき存在ではない。
愛すれば、死に至る。
ならば、自分は――誰も愛してはならない。
彼は人間社会から姿を消し、ひとり研究所の奥へと沈んでいった。
……そして今もなお、あのとき彼女の手から伝わった微かな温もりを、忘れることはできなかった。
――それが、彼が“父”として唯一果たせると信じた、遅すぎた祈りだった。