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葬式みたいな雰囲気の五時間目の授業中、黒板のフラクタル図を、教師の極度な猫背越しに眺めていると、空席だった隣の席に人影が見えた。
「…………」
目も合わせず、声も掛けず、淡々と隣に座ったボブヘアの女生徒は、膨らんだスクールバッグから授業の準備をする。
こんな時間に遅刻なんて何を考えるのだか毎回よく分からないが、これがこの女の常である。一学期から途中からの授業参加が多く、なんなら休んでもいい時間にもやって来る。体調が悪いとかでもないし、家庭の都合でもない模様。だが成績も授業態度も悪くないし、いたってどこにもいる普通の生徒のよう。
担任含め周りも興味を示さないし、いつしか容認されてる始末のその彼女の名は、雨月ひより。
僕の隣に座る女だ。
「ページいくつ」
「六十ページの問四」
「……そ。ありがと」
雨月ひよりは同級生と関係を築きたがらない。いつも一人でいる。もっとも、僕とは出席番号一番と二番の関係で座席以外も何かと一緒になるため多少の仲ではあるが、特に友達とも呼べない距離感だし、屋上で会う不涼ほどお互いを知らない。
知る必要もないのだ。
「……藍那くん、ここの途中式見せて」
「問題解き終わってからな」
「うん」
「…………」
「…………」
「ん」
「どうも……字、キレイね」
変わらぬ平坦とした口調と物憂げな表情を携え、雨月は淡々と僕のルーズリーフを手に取る。
その際、彼女の左腕に何か白く細い物がセーターに絡まってるのに気付き、手を止めた。
「なあ、雨月」
「なに」
「お前のセーター、白髪みたいのついてる。腕のとこ」
首を傾げ、瞳が儚げに動く。
こういう時、僕はこいつを艶のある女だと思ったりしている。
「ああ、さっき、猫抱いてから」
「へえ。じゃあ猫の毛か」
すると興味無さげに白髪を一本つまみ、なぜか僕の腕にくっつけてきた。アンニュイな表情の中に小さく悪戯っぽい笑みがある。距離感がよく分からないこの女がたまにやる、よく分からない行動だ。
「なにすんだよ」
「おちゃめ」
平坦な口調でそんな台詞を言われる。
「好き? 猫」
再び目線をノートに戻し尋ねる雨月に、僕は視線を戻して答えを考える。前からだけど、大人しそうなイメージとは違い結構お喋り好きな女である。しないだけで、意外に誰でも仲良くなれるタイプなのかもしれない、とかも思ったりしてる。
「……まあまあかな」
「まあまあ、好き?」
「まあまあ嫌い。懐かれないから。でも可愛いとは思う」
「わたしもおんなじ。でも、理由は違う。よく懐かれるから、めんどくさい」
「マジか」
「マジ」
「ところでさ」
さっきつけられた、白というより灰色な猫の細い毛を床に捨てて雨月を見る。喋ってるのは僕らだけなのに、周りは誰もこちらを気にしてない。いつも通りだ。
「毎度の疑問。なんでいつも来んの遅いわけ」
今朝の夢のせいもあったのだろう、無意識にしないでいた質問が口から出ていた。だが、当の本人は嫌な顔もせず、特段気にする素振りもなく、机に頬杖をついて答える。
「藍那くんもたまにサボってるじゃない。それとおんなじ」
「……ふうん」
まさかそれを言われるとは思ってなかったので、反応しずらい。
「単に授業を受けてる気持ちじゃないの。何かそれ以外にしなきゃいけないような気がするから、しばらく、その何かを探してる……でも、結局何もなくて、遅刻して学校に来てる。それの繰り返し」
淡々とした言葉の隙間に寂しそうな眼差しを入れ、写し終わったルーズリーフを「どうも」の一言とともに返される。
なんだろう。こんな事言われると、先程の不涼の話を思い出す。何かしなきゃいけないという漠然とした焦り。でも見つからないその何か。彼女も言い方は違えど、屋上のあいつのように、どこかにその感情の正体を探しに行っているのかもしれない。
しかし、それは、やはり。
「患ってるな」
大きな声で言えたもんじゃない。
僕も同じような、近しい感情を持ち寄ってるからこそ、そう思える。
「ひどい言葉。でも、それは藍那くんも」
「自覚してるよそんなの。じゃなきゃ、直接言わないしな」
「へえ、実は少し仲良くなれてたって事? なら、どうぞよろしく。これからも隣として」
そう言って、雨月はまた猫の毛を僕の腕に乗せて来た。僕はふと、つまんでそれを見つめて考える。
つまり、僕も不涼もこいつとは『同類』的な関係って事か? 僕のサボりと不涼の不登校、そして雨月の遅刻。近いような、けれど、完全には一緒ではない気持ち。
雨月もまた、あの夢みたいなのを見ているんだろうか。
幾何学模様みたいな感情に、黒板のフラクタル図は答えない。