狩人は闇に潜む 8
Chapter 8
35
「ほう、あの『厄獣』から逃げおおせたか。さすがだな」
ジドーの背後からケドルが顔をのぞかせた。
何ら悪びれる様子もない、けろりとした表情だ。
「何が『さすが』だ!
おい、ケドル!
この臆病者!
仲間を置いてひとり逃げやがって!
それなのに、なんだ、その態度は!」
ルピーダはケドルに詰め寄ろうとしたが、ゴーゴリーが両肩をつかんで、それを止めた。
「態度もなにも、当然の対応をしたまでじゃないか、プライネスのお嬢様」
「当然だと!」
「あの状況は、完全に不意を突かれて、こちらに勝ち目はなかった。
俺はすばやく状況を判断し、急ぎ村まで撤退したんだ。
俺ひとりでも逃げ切れなかったら、誰もこの事態を把握できなくなるからな。
俺の役目は重要だと考えたわけだ」
「よくも、そんなことを抜け抜けと……」
「ところで、村へ戻ってこれたのは3人だけかな?
アラドの連中と、魔法使いのお嬢ちゃんの連れは?
ほかに、プライネスの若いやつがいたが……。まぁ、あいつはどうでもいいか。
そうそう。結局、マジはどうした?
ちゃんと連れ帰れたのか?」
ルピーダは苦しい表情になった。一番触れられたくない話題だった。
「……マジは助けられていない。
あそこに吊るされたままだ」
「ふうん。じゃあ、結局は俺と同じことをしたわけだ。
だったらよ、俺を責めるのはお門違いってやつじゃないかなぁ。
俺の行動は、あんたたちより少し早かっただけさ。
生き残るためには仲間を置いて撤退しなければならない場合がある。
俺とあんたとの違いは、その判断が早かったか、遅かったか。
それだけの違い。そうだろ?」
ゴーゴリーに遅れて集会所に到着したメルルは、ケドルの抜け抜けとした言い訳を全部聞いてしまった。
ケドルの発言に呆れると同時に、怒りも湧いてきた。
もし、ケドルも『厄獣』の襲撃に対処して、毒矢の支援を行なっていれば、あそこまで壊滅的な状況に陥らずに済んだのかもしれないのだ。
ろくに戦いもしないで逃げ出したことを恥ずかしいとも思っていない。
ルピーダは、マジを置いて逃げる決断をしたことに苦しんでいた。
おそらく、それが人間本来の感覚だろう。
ケドルはマジを置いて逃げたことを正しい判断として、何の呵責も感じていないらしい。
ひどすぎる。
これは別の意味での『悪意』だ。
メルルはそう思った。
「……これがウルバッハ一番の用心棒かい?
ずいぶんとお粗末じゃないか、執事さん」
ルピーダは精いっぱいの皮肉を吐き出した。
それ以外はすべて罵倒の言葉しか出ない気がして、しゃべるのが辛かった。
「これは手厳しい。
どうやら、プライネスの用心棒たちは皆、勇敢な者たちなのでしょうな。
うらやましいかぎりです。
ところで、あなたのお父君、カルロス・プライネス候はどちらにおられるのかな?
『厄獣』討伐の指揮を執っておられるなら、この村でお会いできるだろうと思って参ったのですが」
ルピーダはあたりを見回した。
ルピーダが騒いでいる間に、このあたりは人だかりができている。
多くは顔の見知った村人たちだが、いかつい、いかにも凶悪そうな顔つきの男たちが何人も含まれている。
……ウルバッハの用心棒たちだ……。
ルピーダはすぐに察した。
けっこうな人数だ。少なく見積もっても20人はいるだろう。
「……ずいぶんと護衛を連れて来たものだな、執事さん。
やはり、『厄獣』のいる森を抜けてここまで来るには、それだけの人員が必要だと思ったかい?」
ルピーダの皮肉ともとれる発言に、ジドーは表情ひとつ変えることはなかった。
「たしかに、ここへ来るには危険な森も抜けなければなりませんでしたからな。
用心に用心を重ねることに、しすぎということはありますまい」
さっきのケドルのふてぶてしい態度には、多少突っ込める部分があると感じていたが、この執事はかなり手ごわいと、メルルは感じた。
ああ言えばこう返す、というように、すべて受け流されて、いつの間にか言いくるめられてしまう。そんな畏れも抱かせた。
「さて、話を戻しますが、ご領主、カルロス・プライネス候はいずこに?
ケドルの報告を受け、こちらの考えをお聞きいただこうと思っているのですが」
ジドーは穏やかな口調で話しかける。
ルピーダは周囲に目をやり、村長と目を合わせた。
村長は困惑の表情で首を左右に振る。
「……申し訳ないのですが……。
我々も存じておらぬのです。
こちらに詰めておられるのは、お屋敷の若い衆の皆さんが数人ほどで。
ご領主様とは連絡もつかない状況なのです」
……ウルバッハの動きを警戒して、本当に身を隠したか……。
ルピーダは父親の意図を察した。
そこで、ルピーダも状況が見えてきた。
……ジドーが大げさすぎるほど手勢を引き連れているのは、あの馬鹿親父を『狩る』ためか。
存外、馬鹿親父の『見立て』は大外れってわけでもないようだな……。
「そうか……。
あいにく、あたしも馬鹿親父が今どこにいるのか知らない。
あんたと同様、ここにいると思っていたんだ」
予想通りの返事だったようで、ジドーに落胆の様子は見られなかった。
「さようでございますか……。
では、直接、お屋敷まで向かわせていただいてもよろしいですかな?
なに、そちらでもお留守であれば、我々はそのまま北回りでウルバッハへ戻るとします。
遠回りですが、そちらのほうが安全に帰れますからな」
「簡単に戻って大丈夫か?
相談事があるのだろう?」
「少なくとも、お屋敷にはどなたかおられますでしょう。
我があるじより、書簡を預かっておりますので、それをお渡しできれば、我々の役目も半分は片付きます」
「そうか」
ジドーの言葉に、それを拒否する理由は見い出せない。
ルピーダは再び村長に目をやった。
村長はルピーダと目が合うと、ぶんぶんとうなずいてみせた
「さっそく、通行許可の証明書を発行いたします」
村長はどたどたと足音荒く、その場から走り去った。
「……というわけだ、執事さん。
村長の家まで証明書を受け取ってもらえないかな?」
「そういたしましょう」
ジドーは頭を下げた。
「ところで、相談事は何だ?
協定の確認はこの間済ませたばかりだろ?」
ジドーがここに現れた理由はすでに見当がついたものの、ルピーダは一応聞いてみることにした。
おそらく、そのほうが自然な反応だとも思えたからだ。
「そうですね。
お嬢様にお話ししても差し支えはないでしょう。
今回の『厄獣』の一件。
我々のみで対処するので、そちらのお手をお借りするのはお断りしようと考えております」
「あんたたちで?」
ルピーダの目が鋭くなった。
「当然、対処に困れば、王国の力をお借りしなければならないでしょうが、その申し出をするのも我々でさせていただきます」
「おいおい、あたしたちを完全に外すって言うのか!」
ルピーダはジドーに詰め寄ろうとしたが、ゴーゴリーにしっかり押さえられたままだ。
ルピーダはいまいましげな眼をゴーゴリーに向ける。
「『厄獣』は現在、我が領へ入ろうとしています。
あなた様が指揮する討伐隊が、『厄獣』を追って我が領に足を踏み入れるのは許可しましたが、討伐隊が壊滅した今、この問題の当事者は我々になります。
当事者として、責任の所在、範囲、それにともなう細かい決まり事……。
それらについて優先されるのは当然ではございませんかな?」
「壊滅だって?
あそこにはまだ、生存者が6名もいるんだ!
彼らを救うためにも、王国軍への協力要請は急を要するんだ!
あんたたちは彼らを救助し、『厄獣』を討伐するだけの戦力があると言うのか!」
ルピーダは絶叫に近い声で怒鳴った。
こいつらは何もわかっていない。あの『厄獣』は、こんなくだらない政治につきあうことなく殺戮を繰り返す。
自分たちの過ちに気づいたころには、犠牲はとんでもなく大きなものになっているだろう。
その犠牲のなかにはレトたちも含まれるのだ。
そんなことを見過ごせるはずがない。
「当然、生存者の救助はいたします。
我々の義務ですからな。
もし、我々の考えに異論がおありであれば、プライネスのご領主みずから、当方へお声がけいただければと存じます。では」
ジドーは深々とお辞儀すると、村長の走り去った方角へ歩き去った。
ウルバッハの用心棒たちもぞろぞろとあとに続く。
20人ほどと見込んでいたが、彼らの動きからさらに大人数であるとわかった。
「お嬢、これは罠です。
ご領主様を釣り出すための……」
ゴーゴリーはルピーダの耳元でささやいた。
ルピーダはゴーゴリーを振り払った。「そんなことぐらい、わかっている」
「あの、本当に、私たちはレトさんを助けに行けなくなるんですか?」
これまでのいきさつをハラハラしながら見ていたメルルは、不安そうな表情で両手を組んでいる。
「そんなことさせるわけにいかないよ。
あいつらがレトたちを助けになんか行くもんか。
せいぜい、『厄獣』が無事、自領を通り抜けるまで監視して、よそへ行ったら『解決した』と発表するだけさ。
あいつらは問題の解決に動きはしない。
先送りするだけだ」
「それじゃあ、レトさんたちは見殺しにされるってことじゃないですか!」
メルルは思わず叫んでしまった。
自分の声の、思いがけないほどの大きさに驚いて、慌てて自分の口を両手でふさぐ。
「だから、さっきから言ってるじゃないか。
そんなことさせるもんかって」
「でも、どうやって?」
「あの馬鹿親父のことだ。
姿を隠したってことは、念のため王国軍に鳩は送っているだろう。
紛争回避のための緊急要請ってやつだ。
各領主は一定の自治を認められているが、みずから要請すれば、王国軍を自領に入らせることができる。
ここの場合、緩衝地帯まではプライネスの判断で軍を送り込める。
問題は、ウルバッハ領まで送る場合だが……」
メルルは思い出した。
「……たしか、レトさんが言っていました。
何か理由があれば、王国が直接介入できるって。
あのときはチョプスさんの死の理由を解明できればって話でしたが……」
「あんたたちは、そっちが本業だからね。そう考えるのもわかるが……。
そうだね……。もし、『厄獣』討伐について、こっちの参加を拒否する理由が法に触れるものだったら、王国は堂々とウルバッハ領に踏み込むことができるな」
「レトさんたちの救助にもひとを送り込めますか?」
希望の光が差したように、メルルから明るい表情が戻ってきた。
ルピーダはうなずいた。「当然さ」
「でも、その『理由』ってのを証明できないといけませんね」
ゴーゴリーが申し訳なさそうに口をはさんだ。
メルルは少し勢いを取り戻しかけたが、ゴーゴリーの言葉にシュンとうなだれてしまった。
「馬鹿か、お前は!」
ルピーダはゴーゴリーにつかまれたまま、顎に強烈な一撃を食らわせた。
36
「くそっ。ここから先は進めねぇ!」
アラドは苛立った声をあげた。
『太古の裂け目』を北上して、渓谷の端からプライネス領を目指してきたが、道らしいものはなく、その行程は困難だった。
渓谷沿いを歩ければ、道は簡単なものだったが、岩場や崖に阻まれ、結局、森を通るしかなかった。
『厄獣』の潜む、この危険な森を抜ける……。
それは、これまで以上に集中力と精神力が要求されるものだった。
森へ入っても侵入の不可能な場所に行き当たり、アラドたちは広大な森をさまようしかできない状態だ。
当初は、レトたちを探し出して合流する考えだったが、彼らの頭に、すでにその考えはなくなっていた。
正確には、そう考えるどころではなくなっていたという状況だ。
このままぐずぐずしていられない……。
『厄獣』は俺たちを追っているかもしれないんだ……。
この焦りが、アラドを苛立たせていたのである。
「アラド、落ち着け。
焦ったってしょうがない」
メッシーナがアラドの肩に手を置いた。
アラドはメッシーナの手を振り払った。
「わかってる。わかってるがしかし……」
「『厄獣』の思うつぼなんじゃないか。
そう考えているんだろ?」
バット・ダガーが落ち着き払った声で言った。
「吊り橋の綱の切り口を見たときから、アラドはずっとこうだ」
アラドはバット・ダガーに振り返った。
「そうだよ。恐れているさ、俺は!
ウザを殺したあいつは、ウザを食べていなかった。
ただ樹にくくりつけ、マジが罠にかかるように仕向けた。
そして、ここから撤退しようとする俺たちが、あの橋を渡ることを見越して、綱に切り込みを入れておいたんだ。
俺たちが通ったときに切れるようにな。
こんなこと、ただの魔獣にできることか?
俺たちは何匹もの魔獣を狩ってきたが、ここまで知恵のあるやつと渡り合ったことはあるか?」
メッシーナは首を振った。「考えすぎだ、アラド」
バット・ダガーは片手をひらひら振った。「偶然ってことはないか?」
「お前らは吞気すぎる。
偶然ってのは、そう何個も重なるものじゃねぇぞ!」
「まぁ、たしかに、熊ってのは、本来は警戒心が強いし、状況を判断してから行動することもある。
いろいろと学習して、芸事もできるって話だしな。
熊は頭がいいって話も聞いたことはあるよな」
「そんなことは俺も知っている。
しかし、あいつの『知恵』は、人間と同等か、それ以上じゃないのか?
やつは、俺たちを獲物と見定め、確実に狩る気でいるんじゃないのか?」
アラドの言葉に、ふたりは黙り込んだ。
アラドほどではないにしても、彼らも『厄獣』の得体のしれなさは感じていたところなのだ。
「……だったらよ……。
そこを突いてみるのも手じゃねぇか?」
メッシーナが進み出て言った。
「突いてみるって?」
アラドだけでなく、バット・ダガーも不思議そうな表情を浮かべた。
「この慣れない森の中を、ただ逃げ回るだけじゃ、いずれ追いつかれる。
そうなる前に、このあたりに罠を仕掛けるんだ」
「俺の話がわかっているのか?
あいつは人間並みの知恵があるって言ったんだぞ。
下手な罠など、すぐ気づかれるに決まっている」
アラドは呆れた口調で言った。
「そこだよ、アラド。
まずは簡単な罠を仕掛ける。
『厄獣』はそれに気づいて、それをよける。
だが、よけた先に本命の罠を仕掛けておくのさ」
「二重の罠か……」
バット・ダガーは自分の顎に手をかけた。
「いくら知恵があるって言っても、やつにやられたのはどれも単純な罠だ。
最初は、やつの行動を想像できなかったから一杯食わされた形になっているがな。
こっちも本気で知恵比べするとなったら、やつが俺たちに敵うはずがねぇ。
二重三重の罠でやつをがんじがらめにして、やつを狩り殺してやる。
そうだろ? アラド」
不安と焦りで曇っていたアラドの表情が晴れてきた。
「……そ、そうだな。
魔獣狩りでさんざん罠を仕掛けてきたんだ。
罠についちゃ、本来、俺たちのほうが上なんだ」
「決まりだな」
バット・ダガーは自分の両手でパンっと打ち鳴らした。
「まずは、どっから仕掛ける?」
* * * * * * * * * *
「現在地がつかめました。
僕たちがいるのは、このあたりです」
レトは地図を広げて、カップとペイピールに示していた。
ふたつの頭が地図に寄ってくる。
「……けっこう飛んだな。
もう、ほとんどウルバッハ領じゃねぇか」
ペイピールは、ぼやくように言った。
「どうして、プライネス領に向かわなかったんだ?
ややこしいことになっちまったぞ」
カップの表情も冴えない。
「申し訳ありません。
本当に緊急用の魔法で、普段からこの鎧に……」
レトは左腕の鎧を示した。
「これに術式を仕込んでいたのです。
つまり、あの状況にしっかりと対応した魔法ではありません。
そのため、細かい地点や方角の設定は、身体の向きで調節するしかなかったのです。
崩落し始めた橋から離脱するには、細かい調整まではできなかったんです」
「せっかく、橋の崩落からは助かったものの、これじゃ、一難去ってまた一難、だぜ」
ペイピールはため息をついた。
「しかし、お前はよく、橋が落ちかかっていることに気づいたな」
カップはレトの肩をばんばんと叩いた。
カップは、もう気にしていない様子だ。
「それは……、
彼女が……、鳴いて知らせてくれたんです」
レトは視線を上にあげた。
その先にはアルキオネが一本の木の枝にとまって羽繕いをしている。
「あのカラスか……」
カップはつぶやいた。
「少し気になっていたが、あのカラスはお前が飼っているのか?」
ペイピールが尋ねた。
「飼ってなどいません」
レトは首を振った。
「彼女は、ただ、勝手に僕のそばにいるだけです。
もし、気に入らなくなったり、飽きたりすれば、彼女は僕の前から姿を消すでしょう」
「じゃあよ。
そいつの脚に手紙をくくりつけて伝書鳩の真似事をさせるってのは無理か?
カンタ村まで、俺たちの位置を報せて救援を呼ぶんだ」
「なるほど、それはいい考えですね」
レトはアルキオネに顔を向けた。
「アルキオネ、頼めるだろうか?」
アルキオネはぷいと顔をそむけた。
レトのそばに寄ろうともしない。
「……無理みたいですね……」
レトは少し落胆の表情を見せた。
「しょせん、カラスはカラスさ。気にするな」
カップはレトの肩を叩きながら言った。
「伝書カラスで救援を頼む手は使えねぇ。
じゃあ、どうやって村まで戻る?
お前の、ギューンって飛ぶ魔法で村までは戻れないか?」
ペイピールの質問に、レトは申し訳なさそうに首を振った。
「離脱魔法は、本当にその場から離脱するだけの魔法なんです。カンタ村までの距離まで飛ぶことはできません。
それに、飛んでいった先が安全とは限らないのです。
もし、間違って『太古の裂け目』に飛び込むことになったら、最悪で激突死、良くて深い谷底に閉じ込められてしまいます。
ですから、この緩衝地帯で離脱魔法は何度も使うべきでありません。
あのときは、本当に一か八かの賭けで魔法を使ったんです」
「おいおい、そんな危険な魔法で俺たちを飛ばしたのか?」
ペイピールは少し怒った様子で突っ込んだ。
「おい、若いの。あまりレトをいじめてくれるな。
正直、俺は助かったと思っている。
橋の綱が切れたとき、俺たちには死ぬしかなかった。
レトの魔法にどれだけの危険があったにせよ、あれが唯一の助かる可能性だったんだからな」
カップがレトをかばった。レトはカップに感謝の笑みを浮かべた。
「カップさん、ありがとうございます」
「馬鹿はよせ。
礼を言わなきゃならんのはこっちだろ?」
カップはちらりとペイピールに視線を送る。
ペイピールは人差し指で自分の頬をかきながら横を向いた。
「ま、まぁ、助かったのは事実だ。礼を言う……」
「いいんです、もう。
それより、話の続きをしませんか?
この森をどうやって抜けるか考えるとしましょう」
レトは手にしている地図を揺らしながら言った。
37
メルルはルピーダたちと別れて、カンタ村を歩いていた。
正確には置いてきぼりにされたと言うべきだろう。
ルピーダはジドーたちを追って村長の家へ向かった。
ジドーの話したことに抗議して、王国からの救援を認めさせようというのだ。
もちろん、それはうわべだけのことで、実際は少しでも時間を稼ぐ考えのつもりらしかった。
ゴーゴリーは、「あなたはここにいてください」と言い残して、ルピーダのあとを追ってしまった。
ひとり残されたメルルは、自分はどうすればいいのだろうと途方にくれて立ち尽くしていた。
これまでは誰かが何か教えてくれた。
ヒルディー所長、ヴィクトリア、コーデリアに、そして、レト。
彼らは必ずメルルの前を歩いて先を指し示してくれた。
しかし、今回はメルルの周りに誰もいない。
この事態にどう動けばいいのか、すべて自分の判断に委ねられているのだ。
こんな状況は、探偵事務所に入って初めてではないか?
それで、メルルは村の中を歩き回ることにしたのだ。
頭の中では、レトの言葉がよみがえっている。
――何をどうすればいいか迷ったとき、一番にするべきは、自分が置かれている状況を正確に把握することだ。
一に確認、二に分析。三に理解して判断する。
単純なことを言っているみたいだけど、焦る状況下ではこうしたことが抜けてしまう。
この考え方は、つねに頭に叩き込んでおくんだ……。
だから、メルルは村の状況――正確には、ウルバッハの連中の様子――を探っているのだ。
ウルバッハの用心棒たちは、槍や弓を手に、村のあちこちに立っていた。
一見すると、彼らが村を守っているように見える。
しかし、カンタ村はプライネス領の村で、彼らがそうする義理はない。
実際は、彼らは村人を見張っているのだった。
そのことを、村人たちも肌で感じているようだ。
彼らは決してウルバッハの連中に近づくことも話しかけることもしなかった。
ただ遠巻きに避けて歩く程度である。
村の子どもたちは、村の外で遊ぶことを禁じられて、村の中で走り回っている。
はしゃいでいるようだが、それでも、ウルバッハの連中に近づくことはなかった。
……村の空気が悪い。みんな緊張しているみたいだ……。
メルルは無表情を装いながら歩いた。
本当は、この緊張感にメルルも気が滅入り始めていた。
正直なところ、どこかで弱音を吐き出したい気分だ。
「おい、こら!」
突然、背後から怒鳴り声が聞こえて、メルルは思わず首をすくめた。
振り返ると、ひとりの男が馬車の前で槍を高く持ち上げている。
「この馬車はかくれんぼするところじゃねぇんだ。
さっさと離れろ!」
すると、馬車の下からわらわらと小さな子どもたちが逃げ出した。
馬車の下で遊んでいたらしい。
ひとりは馬車の底板にゴツンと頭をぶつけて、痛そうに頭をさすりながら駆け出した。
「まったく……」
この男はウルバッハの用心棒のひとりなのだろう。
呆れたように頭をかいて逃げる子どもたちに目をやっていたが、やがて、男も馬車から離れて姿を消した。
メルルはその様子をじっと見つめていた。
今見た光景に、何か違和感を抱いたのだ。
……何だろう。何かおかしいものを感じた……。
メルルはあたりを気にしながら馬車に近づいた。
さっきの様子から、この馬車はウルバッハのものだろう。
少し大型の幌馬車だ。一見すると、ありきたりのもののように思える。
誰にも見とがめられないよう、そろりそろりと近づいて、そっと馬車の下をのぞく。
メルルはそこで気がついた。
……底が低すぎる。だから、さっきの子どもは底に頭をぶつけたんだ……。
幌馬車の下には車軸を支える台や木組みがあるのだが、それらはすべて馬車の底板に覆われて姿が見えない。
構造上、そうすることの利点は見られないと思うのだが……。
……でも、そうする理由がウルバッハの人たちにはあった?
メルルは馬車の背後に回って、幌を少しめくってみた。
中はがらんどうで、黒々とした床板が敷かれているだけだ。
考えすぎかと思ったが、メルルはすぐに考えを変えた。
「今度は床板が高すぎる……」
この馬車は、ひとや荷物を乗せる床板と底板との間が広いのだ。
少なくとも、人間ひとりが横になって入れるほどの空間があるようだ。
……まさか、床下収納のある馬車なのかな?
メルルはあたりに人目がないことを確認して馬車に乗り込んだ。
* * * * * * * * * *
「……どうしても、王国に救援は求めないって言うんだね?」
ルピーダは腕を組んだ姿勢でジドーを睨みつけた。
「誤解のないようにしたいのですが、現時点では、という意味でございます。
もちろん、こちらとて、自領に多大な被害が出ることは避けたいところです。
ですから、状況を見極めて、適切な時期に適切な判断を下す考えでございます」
ジドーは冷静で物腰は柔らかいが、こちらの考えを頑として受け入れようとしない。
わかってはいたが、らちが明かない状態だった。
……これ以上、こいつらを引き止めるのは無理みたいだね。
あまり引っ張りすぎると怪しまれてしまう……。
ルピーダは苦々しい表情だが、冷静に頭を働かせていた。
大した時間稼ぎにはならなかったが、粘っただけ情報も手に入れられた。
まず、ウルバッハの連中は、父カルロス・プライネスの所在がわからないらしい。
やつらが次に向かうのは屋敷とのことだが、不意打ちの機会はすでに失われている。
おそらく、所在確認だけを行ない、ひとまずは自領へ引き返す見込みだということだ。
――それに……。
「しかし、一度はプライネス領側の討伐隊を受け入れたのに、急にその態度を変えるなんて。
そちらに何かあったのかい?」
ルピーダは白々しいカマをかけてみた。
こちらがチョプスの遺体を簡単だが検死をしていたことはわかっているはずだ。
ジドーはそれを察して、態度を硬化させた。
つまり、こちらがウルバッハ側に都合の悪い真実に触れていたということだ。
「さて? 何か勘違いされていませんかな。
こちらは特に変わりはしません。変わったのは、むしろ、そちらの事情なのでは?」
さすがに見え透いた挑発には乗らないが、しっぺ返しのつもりか、嫌味で返してきた。
「ふん」
ルピーダはくるりと背を向けると、
「村長。あたしは集会所に寄らせてもらう。
そちらの用事が終わったら、こっちに顔を出してくれないか?」
短く用件だけを伝えて村長の家から出て行った。
「どうにか抑えてくれましたね」
ルピーダに続きながら、ゴーゴリーがささやいた。
彼は、ルピーダが暴発したら何としてでも止めるつもりでルピーダの後ろに控えていたのだ。
「まったく……。ケドルひとりだけだったら、挑発やカマかけもうまくいったかもしれないが……。
あの執事だけは手を焼かされる」
ルピーダは小声でぼやいた。
「お嬢、気をつけてくださいよ。
お嬢に腹芸なんて似合いませんし、相手は百戦錬磨の化け物ですから」
「『魔獣狩り』が化け物じじいに裏をかかれっぱなしで終われるか!
あのじじいには吠え面をかかせないと、こっちの気が済まないよ」
「さっきのやり取りでも大した情報は得られませんでしたよ。
ジドーから情報を引き出すのは難しいです。
今の私たちに探偵がいないのですから」
ゴーゴリーの言葉に、怒りの表情だったルピーダの顔つきが変わった。
考え込むような、悩んでいる表情だ。
「……探偵、か……。
あいつも無事だといいのだが……」
ルピーダはつぶやくと、あたりを見渡した。
「ところで……。
あのおチビちゃんはどこだい?
姿が見えないが……」
ゴーゴリーは集会所に顔を向けた。
「メルルさんなら、集会所の前で……、あれ?」
ゴーゴリーは集会所へ駆け寄ると、木製の扉を少し開いて室内をのぞきこんだ。
やがて、顔を引っ張り出すと、「……いなくなりました」と困惑顔で告げた。
* * * * * * * * * *
「こんな村に長居は無用だ。
さっさと出るぞ」
ケドルは部下たちに声をかけると馬車に乗り込んだ。
ウルバッハ領からやって来た馬車は3台。
そのすべての荷台いっぱいに用心棒たちが乗り込んだ。
総勢は40人を超えていた。
「プライネスの屋敷へ。
おそらく、留守だろうが、手掛かりがあるかもしれん。
行かぬわけにもいくまい」
ジドーは荷台の奥に据えられた長椅子に座ると、馭者台に声をかけた。
馭者は無言でうなずくと馬車を走らせた。
3台の馬車はすぐにカンタ村の門を通り抜けて、村の外へ出る。
馬車の進路は北――、カルロス・プライネスの屋敷に向かっていた。
馬車の中では、ケドルが自然な様子でジドーの隣に座る。
ほかの者たちは床に直座りだ。
この違いはケドルの地位が高いことを示している。
筆頭執事のジドーは当たり前のように受け入れていることからも、それがうかがえた。
「ジドーさん。
プライネスには結局、カチコミはかけねぇってことかい?」
ケドルはジドーに話しかけた。
「不意を突いて、カルロスどもを皆殺しにできれば、あとはどうとでもできた。
しかし、それが叶わなかった今となれば、下手な行動は慎むべきなのだ。
もし、我らのしわざであることを伏せるのであれば、さっきの村の連中は皆殺しにしなければならなかった。
我らを見ているのだからな。
だが、目撃者を片っ端から消していくほど効率の悪い方法はない。
たとえ皆殺しにできたとしても、疑惑を招くことになっては、王国の我が領への干渉を招きかねん。
それは本末転倒というのだよ。
カルロスを消すなら、やつの用心棒がもっとも少ないときを見計らって、ひそかにやらなければならん。
些細な疑惑を持たれる程度なら良い。
避けねばならんのは、些細な見落としやしくじりだ。
些細な疑いであれば、誤魔化しようもあるが、些細な見逃しや失敗は、こちらの致命傷になりかねん。そういうことだ」
「さすが年季の入った方の言うことは違うねぇ」
「茶化すな。
それより、お前は『魔獣狩り』の連中に下手なことを言ったりしていないな?」
「もちろんです。請け合いますよ」
「そうか……。
念のために聞くが、あの村を出るとき、何か変わったことや動きはなかったか?
大事なことを見落としてはいまいな?」
「大事なことねぇ……。
おい、何か変わったことでもあったか?」
ケドルは部下に声をかけた。
その場にいた者は首を振るだけで、何かあったと報告する者はいない。
「……まぁ、こんなところです。
何も見落としちゃいませんよ」
ケドルはおどけた調子で軽く答えた。
――しかし――。
ケドルの『見落とし』は、彼らのすぐ近く……、真下に潜んでいた。
ケドルたちが乗る馬車の『隠し床』にメルルが潜り込んで、必死の表情で床にしがみついていたのだ。
馬車の振動が、メルルの身体を遠慮なくはずませている。
メルルは床に何度も身体を打ち付けながら、歯を食いしばって必死に耐えていた。
しかし、すでに後悔の気持ちが心の内の大部分を占めているところだった。
……ふえええええ……。もう、馬車に乗るのはこりごりですぅううう……。