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狩人は闇に潜む 3

Chapter 3


11


 「それで……、これから向かうプライネス領って遠いのですか?」


 ルピーダの後ろを歩きながら、メルルは尋ねた。ルピーダは首を振りながら振り返った。


 「今向かっているのは、プライネスとカーペンタル村の境を越えてすぐのところさ。だから、あと10分も歩けば着くよ」


 「領民の多くが住んでいる地域は、もっと先になるのですが」

 ゴーゴリーが付け加えた。


 「そうですか」メルルはかたわらを歩くゴーゴリーを見上げた。


 彼は誰よりも大きい体格の持ち主だが、繊細な感覚の持ち主らしい。

 メルルが知りたいことを補強するように話して、メルルの理解を深めるようにしてくれるからだ。


 レトはルピーダの隣を無言で歩く。アルキオネはレトの肩の上で、興味深そうにあちこちを静かに見回している。最後尾を歩くヒラリーも無言だった。



 要請を受けると、レトはすぐ隣の教会を訪れて、メルルも連れ出した。

 ルピーダとの再会をメルルは喜んだが、『厄獣』に襲われたらしい遺体の話を聞くと蒼ざめた。


 「現地には10人ほど領の若い衆が見張っているから大丈夫さ。『厄獣』はそこには現れないよ」

 ルピーダは自信たっぷりに胸を張った。


 「どうして大丈夫だと言い切れるんですか?」


 メルルの質問に、ルピーダは朗らかな笑顔のままメルルの肩を叩いた。


 「『厄獣』って聞くと、みんなビビッちまうけど、しょせん、熊をさらにデカくした程度さ。要は熊と同じ本質なんだ。

 熊ってのは、本当は臆病な性格なんだ。つまり、ひとが大勢集まっているところには姿を見せないってことなんだよ」


 ルピーダの説明に嘘はなかったようだ。

 現地に到着してみると、若い男たちが10人ほど、その場で立っていた。

 誰の顔にも緊張感が見られず、メルルたちが着いたとき、あくびをしている者が見えたほどだ。

 誰も『厄獣』に襲われる心配をしていないことがうかがえた。


 「ここさ」

 ルピーダは若者たちが立っているところまで歩いて、ある一か所を指さした。


 そこは若者たちが囲むように立っているところの中心で、彼らの足もとには何かを覆うようにかけられた布が広げられていた。

 その布は丸く盛り上がっており、その下に何かがあるのは間違いなかった。


 「こちらですね」


 レトは布がかけられているところへ歩いていった。囲んでいる若者たちは、道を開けるようにして左右に分かれた。


 メルルはこわごわとレトの後ろをついて歩く。

 その後ろをヒラリーが続いた。


 レトは布のかたわらに膝をつくと、両手を胸の前で交差させて黙とうした。被害者を悼み終えると、布のはしをつまんで、そっと持ち上げた。

 落ち着いた表情で布に隠されていたものを観察する。


 「なるほど、ですね」レトはうなずいた。


 メルルはそっとレトの背後からのぞきこんだが、そこにあるものを目にすると、慌ててレトの背中に顔を伏せた。


 「たしかに、獣に食べられた跡がありますね」

 メルルと同じようにのぞきこんでいたヒラリーが冷静な分析を口にした。さすがに、遺体は見慣れているようだ。


 「ヒラリーさん。検死をお願いできますか?」

 レトがヒラリーに振り返ると、彼女は真剣な表情でうなずいた。


 「もちろんです。私はこのためにここへ来たのです」


 ヒラリーもレトの隣で片膝をつくと、レトと同様に両手を胸の前に当てて黙とうした。

 彼女は目を開けると、真剣な表情で検死を始めた。


 「頭部に損傷……、顎の下、頸動脈部分に咬創こうそうあり。

 右上腕部に裂傷、左大腿部にも咬創……」


 ヒラリーは冷静に遺体の状況を検死していく。

 メルルは慌ててメモ帳を取り出すと、ヒラリーが口にした内容を記入していった。それがメルルの仕事なのだ。


 メルルはメモを取りながら、ちらりと遺体の様子を見た。

 ヒラリーに隠れてほとんど見えなかったが、血にまみれた衣服が見える。

 その服は血だけではなく、何かの植物の汁にまみれたような汚れ方をしていた。

 緑がかった色ではなく、かなり黒ずんだ色合いで、メルルは少し違和感を抱いた。


 レトはヒラリーの検死の言葉を聞きながら、遺体が横たわっている地面を調べていた。

 乾いた地面で、枯れ葉や干からびた小枝で覆われている。

 レトがそれらをそっと払うと、隠れていた小さな虫たちが右往左往して逃げ惑った。


 アルキオネはレトが地面を調べ始めるとレトの肩から飛び立って、近くの梢にとまってあたりを眺めていた。彼女には地上の様子に関心が持てないらしい。


……亡くなった人物は、獣に襲われて死んだわけではないらしい……。


 レトは地面の様子を調べながら考えた。

 獣の襲撃を受けたのであれば、争ったり、抵抗したりして、もっと地面は乱れているはずだ。


 獣はすでに遺体となった人物に齧りついたようだった。しかし、断定するのは早いだろう。


 「彼らが現場を目撃していて、証言してくれたら楽なのにな」

 レトは虫たちを見下ろしたまま小声でつぶやいた。


 そして、落ちていた紐状のものを持ち上げる。それは丈夫な皮でできたベルトのようだった。


 「おい、それは……」


 近くで様子を見ていた若者のひとりがベルトを目にして声をあげかけた。すると、すぐ隣の男が「よせ。口を出すな」と止める。


 レトは若者の反応を気にしない様子でベルトの観察を続けた。ベルトはもともと大きな鋲で留められていたようだ。

 ベルトには牙状の噛み跡がついており、ベルトが切れた原因もそれだと思われた。

 一部に小さな鎖がついていて、小さなプレートがぶら下がっている。


 レトはプレートをひっくり返してみた。そこには『チョプス』という刻印があった。


 「この方は……、ウルバッハ領の方ですね」


 レトが確信を持った声で言ったので、さきほどの若者が目を丸くした。

 「あんた……、それを知っているのか?」


 レトは若者にうなずいてみせた。「僕はもともと、カーペンタル村出身なんです」


 レトの答えに納得したらしい。若者はうなずくと後ろへ数歩下がった。


 「レトさん、そのベルトは何なのですか? レトさんはご存知なのですよね?」

 メルルはヒラリーが無言で何か作業をしている機会をつかまえて、レトに質問した。


 「これについてはあとで説明するよ。正直、気持ちのいい話じゃないんだ」

 レトの声には暗い調子が感じられた。メルルはこれ以上質問するのを諦めて、「わかりました」と口の中でつぶやいた。


 「ひととおり、検死をいたしました」


 ヒラリーが少し大きな声で言いながら立ち上がった。始めは冷静だったヒラリーの表情が、今は緊張でやや強張っている。


 レトは「お疲れ様です」と頭を下げると、「何か気になる点でも?」と尋ねた。

 ヒラリーは遺体を指さした。


 「この方の背中を見てください。いくつか出血の跡が見られますね?」

 「ええ」

 「おそらく、矢による刺創しそうと思われます」


 レトはヒラリーの指摘があった箇所を検めた。

 「たしかに……、これは刺創ですね……」


 レトは辺りを見渡した。

 「近くに矢らしいものは見当たりませんね。途中で脱落したか、それとも何者かに持ち去られたか……」


 「どういうことです?」

 メルルは不安な表情になって尋ねた。この検死は魔獣に襲われた遺体の検分ではないのですか?


 「今は何も断定しないよ」

 レトは、メルルに釘を刺すように言った。

 何らかの確証か、確信を得られないかぎり、レトは物事に対し、断定的なことは口にしない。

 今回も、まだ、何か不確定要素があるのだろう。レトは詳しい話をするのを控えた。


 しかし、レトが拾い上げたベルトを目にした、プライネス領の若者たちは、何か察した様子だ。それはルピーダやゴーゴリーも同様の様子だ。

 さきほどの固い表情を見るかぎり、ヒラリーでさえ気づいているようである。

 何も気づいていないのはメルルひとりだけのようだった。


 「何か……、厄介になってきたようだね。キナ臭くなってきたよ……」


 豪胆なルピーダが不安そうにつぶやく。


 「皆さん、とりあえず、こちらの遺体をここから運び出しましょう。

 さらに詳しく調べる必要がありそうです」

 レトは周りの若者たちに声をかけた。


 若者たちは気が進まない様子だったが、

 「おい、荷車をこっちへ」と、ひとりが指示を出した。


 やがて、一台の荷車が運び込まれた。

 もともと、遺体を運び出すために用意されたものだ。

 この世界の人間は死ぬと、できるだけ早く火葬しなければならない。

 なぜなら、遺体が魔物と化して、人間たちを襲うようになるからだ。

 この現象を『屍霊化グールか』と呼ぶ。


 この世界では、魔族や魔物だけが脅威なのではない。

 死者もまた、脅威の対象なのだ。


 遺体の積み込みは少しだけ骨だった。

 遺体の損傷は思っていた以上に重く、荷車に載せようとすると、身体の一部が地面に落ちたりしたからだ。

 さすがに、この状況にはみんなの顔が蒼ざめた。


 どうにか遺体を積み終えると、誰もがここから立ち去りたい雰囲気だった。


 「ここからだと、近くの村はどこになりますか?」

 レトは誰ともなく話しかけた。

 すると、若者たちは目をそらすように顔を伏せる。


 「どうしました?」


 「あ、あのよう……」


 ひとりの若者が進み出た。


 「たしかに、遺体をそのままにはしておけない。それはわかるんだが……」


 「この遺体をこっちで荼毘にするのはまずいんじゃねぇかって話だ」

 別の若者が助け舟を出すように口をはさんだ。

 それを聞くと、周りの者たちもいっせいにうなずく。


 「あ、あんたが言ったんじゃないか」


 さらに別の若者がレトに話しかけた。「あの遺体はウルバッハの者だってさ……」


 「ウルバッハの方とすぐ連絡をつけられますか? 危険な『厄獣』が徘徊する危険な森を抜けて……」

 レトは説得するように答えた。

 「時間をおけば、この方は屍霊化するのですよ。

 そうなる前に対応しなければなりません。

 これは領の自治や権利がどうのという問題じゃありません。皆さんの安全に関わる、放置できない緊急事態なんです」


 領にはそれぞれ、国に近い自治権が認められ、国の法律のほかに、領独自の法律などが存在した。

 隣接する領同士においては、外交的なやり取りが行われる場合もある。

 本来、王国内でひとの出入りは自由にできるが、内外的にそれを制限する領も存在した。

 ウルバッハ領はそのひとつで、領主カイン・ウルバッハは、領民の移動を厳しく制限していた。同時に、隣接するプライネス領やカーペンタル村の人びとが自由に出入りすることも禁じていたのだ。


 プライネス領の若者たちの態度には、それが影響している。

 遺体が見つかったのはプライネス領である。すなわち、遺体をどう扱うかの権利はプライネス領側にあるが、遺体の身元はウルバッハ領の者なのだ。


 勝手に遺体を荼毘にすれば、外交的な問題になるのではないか。

 彼らはそうなることを恐れているのだ。


 「俺たちはある程度、こちらの判断で対処するよう任されているが……、さすがに、こればっかりは領主様にうかがいを立てなければ勝手にやれねぇよ。なぁ?」

 ある若者はそう言うと、仲間に同意を求めた。


 「そうだよな」


 「俺たちで決められる話じゃないよな」


 彼らは互いにうなずき合っている。


 「ああ、もう! これだからプライネスの男たちは頼りにならないんだよ!」


 ルピーダが苛立った声をあげた。

 荷車を囲んで臆した表情の若者たちに詰め寄ってくる。


 「いい?

 問題は、屍霊化の危険があるってことなの。

 そうなったら、プライネス領の被害は、『厄獣』の比じゃなくなるかもしれないのよ?

 些細なことで時間を取るわけにいかないってわかるでしょ!」


 ルピーダは形のいい指先をひとりの若者の胸もとに突きつける。

 若者はたじろいで後ずさった。


 しかし、ルピーダの強い言葉を受けても、はっきりとした発言をする者はいなかった。

 誰もが弱々しくうつむくだけだ。


 「仕方ないわね……」

 ルピーダは自分の頭をくしゃくしゃとかきながらつぶやいた。


 「ゴーゴリー。あたしの判断でこの遺体を運ぶよ。いいね?」


 「了解です、お嬢」


 ゴーゴリーはすばやく返事した。すぐ荷車にとりついて動かそうとする。


 「いいのですか、ルピーダさんが判断して?」

 さすがに心配になって、レトは口をはさんだ。

 しかし、ゴーゴリーは自信たっぷりに胸を張った。


 「問題ございません。

 実は、お嬢の本名はルピードネラ・プライネス。

 領主カルロス・プライネス様のひとり娘ですから!」


12


 「実のところ、あたしはほとんど家出状態なんだ」


 ルピードネラ・プライネス――現在はルピーダを名乗る――は山道を歩きながら説明を始めた。


 「父とは、1、2年会っていないし、手紙のやり取りもしていないしね」


 「どうして、そんなことに?」


 メルルは不思議そうに尋ねた。好奇心からではない。ただ理解できなくて尋ねるのだ。

 メルルも家族と離れて、まったく顔を合わせていない生活をしている。

 しかし、手紙は頻繁にやり取りしているし、両親との関係も良好だ。それがメルルにとっての当たり前である。

 家族とは、深くつながっているものなのだ。


 しかし、わずかな間に立て続けで、その例外らしきものに出くわしている。


 レトとその父親レオとの関係。

 そして、ルピーダと父である領主との関係。


 親子の絆とは、それほど希薄になりやすいものなのだろうか?


 「ま、わかりやすい話さ。

 あたしは、プライネス領主にとってひとりきりの娘。要は跡取り娘ってことさ。

 父は、跡を継がせるために、どっかの貴族で、そこでは後継になれない次男や三男坊を婿に迎えたいと考えているのさ。

 あんたにはわかるんじゃないか?

 そんな基準だけで自分の結婚相手なんか選ばれちゃたまんないってね」


……結婚か……。


 メルルは小さくうなずいた。

 自分も村を出るきっかけになったのは、ルピーダと似た考えだったのだ。


 「それに、あたしは派手に暴れまわる人生をしたかった。

 だだっ広いだけの屋敷に押し込められて、領主夫人のお勤めをするなんか、まったく性に合わないしね」


 ルピーダはメルルにニッと笑ってみせた。

 メルルの顔にも思わず笑みがこぼれる。


 「それで『魔獣狩り』に?」


 「このプライネス領は森に覆われているせいか、魔獣の類がしばしば出てくるのさ。魔犬ライラプスとか、鰐魔がくまとか、ね。

 領主ってのは、領民を守るのも仕事だから、父は若い衆を引き連れて、よく魔獣討伐に出かけていた。

 あたしも跡取りってことで、そのたびに連れ出されたものさ。

 跡取り扱いは嫌だったけど、魔獣狩りには心惹かれたんだ」


 「面白かったんですか? 魔獣狩り」


 「結局、そうなるんだろうね。

 魔獣を追い詰めたときは、心がドキドキしたからね。

 たぶん、あたしは魔獣狩りに『恋』していたんだ」


 ルピーダの表現は女性らしいものだと思った。

 そして、それはメルルにも理解できるものだった。


 「跡は継がない、『魔獣狩り』になるって言ったら、親父様と大ゲンカさ。

 ま、予想通りの反応だったから、あたしはかまうことなく屋敷を出たわけなんだけどね。

 誤算だったのは、こいつが……」


 そこで、ルピーダは後ろで荷車を引くゴーゴリーに視線を向けた。


 「こいつが無理やりついてきちまったことかね。

 こいつは、お互いが子どもだったころから、あたしに仕えていたんだ。

 『魔獣狩り』になった以上、あたしを『お嬢』と呼ぶなって言ってあるんだけど、昔のクセが抜けないっていうか、ついつい『お嬢』って呼びやがるんだ。

 困ったやつだろ?」


 ゴーゴリーは黙々と荷車を引いている。

 ふたりの会話は聞こえていないようだ。


 メルルはクスっと笑った。「そうですね」


 「ここでの経験のおかげで、『魔獣狩り』としての評判は良かったんだ。

 あちこちに呼ばれて、いろんな魔獣退治を請け負った。

 危ない目に遭ったこともあるけど、それでもあたしたちはやり遂げた。

 もっと名を上げて、未だにあたしを認めない親父様に思い知らせてやろう思っていた。

 そのときさ。

 あのリザードマン退治の現場に出くわしたのは」


 ルピーダは空を見上げた。


 「あれは失敗だったね。

 大ケガして入院して。

 退院してからも体力がなかなか回復しない。

 女の身体って、不自由だとつくづく思ったものさ。

 だからって、実家に戻るつもりはさらさらないんだけどさ。

 ケガの療養と、なまった腕を磨き直すために、プライネス領に戻ったところなのさ。

 自分の原点から出直しってこと。

 もちろん、ルピードネラ・プライネスではなく、あくまで『魔獣狩り』のルピーダとしてね」


 メルルはまぶしそうな瞳でルピーダの横顔を見つめていた。

 メルルにとって、ルピーダの生き方は何もかもが小気味よいものだった。

 自分もそうありたいと思うものが、ルピーダの中にはある。そう思えた。


 「しっかしさ。

 なまった腕を磨き直すにしちゃ、今回の獲物は大物すぎるよ。『厄獣』だとさ。

 こちらはライラプスからやり直すつもりだったのに、いきなりすぎるよ、まったく」

 ルピーダは自分の髪に手を突っ込んでくしゃくしゃとかき回した。


 「『厄獣』って、どんな魔獣なんですか?」


 「そういや、あんたたちは直接、目にしなかったんだよね。

 ま、そういう意味ではこっちも同じだから、それほど詳しいわけじゃないんだ。

 ただ、同じ『魔獣狩り』を稼業にしている者たちから、いくつか話は聞いている。


 『厄獣』は、最近騒がれているギガントベアさ。

 ギガントベアは普通の熊よりも大きいものだが、さらに巨体だって話だ。

 ギガントベアは頭から背中にかけて毛の色が白く、一本の帯状の柄になっているけど、『厄獣』は三本筋の模様になっているそうだ。

 見た目以外で特徴的なのは、ギガントベアにしては慎重だということ。

 ギガントベアって、獲物を見れば後先考えずに襲いかかるものだけど、こいつはいきなり襲いかかることをしない。

 獲物と周囲の状況を見極めて、狩れるときに狩る。

 その点では一般的な熊に近いのかもしれないね。

 人間が大勢いるところでは自分から姿を見せることもしない。このあたりも普通のギガントベアと異なるところかな」


 「知りませんでした。そんな熊さんが暴れていること」


 「人間の多いところに姿を見せないってことは、王都には近づかないってことだからね。王都暮らしのあんたたちには無縁の話さ。知らなくて当然だよ。

 ただ、たまにギガントベアが現れる南部の地域でも、今回のは別格なんだ。

 できれば、出くわしたくない『敵』だね」


 「ルピーダさんでも、苦手な魔獣はいるのですね」


 「別にギガントベアを怖がっているわけじゃないさ」


 ルピーダは笑顔で答えた。しかし、その笑顔に自虐的なものが含まれているのを、メルルは見逃さなかった。


 「ただ、人間と魔獣は、お互いが『狩るもの』であり、『狩られるもの』でもあるのさ。今回のあたしたちは、果たして『狩るもの』なのかどうか……」


13


 一行が向かったのはカンタ村という小さな村だった。


 小さいと言っても、死者を神の御許へ送る火葬場を備えた教会があり、医師が常駐している医院もあるなど、村としてはかなり整ったところだった。

 王都では初等部にあたる、幼児から低年齢層向けの学校もあるので、カーペンタル村よりも開明的といえる。


 「まず、遺体を医院まで届けます。

 細かいところの確認は、ここの医者と共同で進めましょう。

 きちんとした報告書ができましたら、この方をすみやかに神のもとへお送りいたしましょう」

 ヒラリーは村に着くなり、ルピーダとレトに話しかけた。

 彼女の頭の中では、次にどう行動すべきか段取りができあがっているようだ。


 「お願いいたします」

 レトは頭を下げた。ルピーダは小さくうなずいただけだ。

 それは上の空というほどでもないが、別のところに意識が向けられているせいだった。


 村の中央には集会を開くための大きな小屋が建てられているが、その正面に何名かの男たちが集まっていたのだ。彼女はそちらを凝視していた。


 「旦那様……」


 ゴーゴリーからうめくような声が漏れた。


……旦那様? それじゃあ、あちらにいるひとって……。


 メルルは小屋の正面に視線を向けた。「ルピーダさんのお父さん?」


 カルロス・プライネスは50代あたりに見える。

 よく日に焼けた、壮健そうな顔つきで、意志の強そうな目は、さすがルピーダの父親と思わせるものだった。


 カルロスはその場にいる何人かの男たちと話しているところだったが、ルピーダたちの姿をすばやく認めた。

 カルロスは表情を変えずに、眉だけを少し上げた。


 「お、お久しぶりでございます、旦那様」


 ゴーゴリーはカルロスの前に駆け出すと、その場で膝をついた。

 カルロスは相変わらずの表情でゴーゴリーを見下ろす。


 「ふん。娘を連れ戻すはずが、そのまま出奔した馬鹿者か。

 そして、馬鹿娘。帰っていたのか」


 「馬鹿は余計よ。馬鹿親父」


 ルピーダは両手を腰に当てて応じた。


 カルロスは何とも言えない迫力を感じさせたが、ルピーダはまるで臆する様子が見られなかった。


 ちょうどふたりの間に立っているメルルは左右に目をやりながらハラハラしている。

 いつ、ふたりが爆発して乱闘になりはしないか、そんな不安が頭をよぎった。


 しかし、カルロスは頭を左右に振ると、「まぁいい」とつぶやき、両腕を組んだ。

 メルルは、ひとまず胸をなでおろした。


 「ところで、お前は屋敷に戻らず、ここで何をしているのだ?」


 「別に帰ってきたわけじゃないわよ。

 あたしは『魔獣狩り』。ここら一帯の魔獣退治を請け負っていたのよ。

 ザンベ森に魔獣にやられたらしい遺体があると聞いて、遺体の確認と回収をしてきたの。

 遺体なら、あそこにあるわよ。確認する?」

 

 父親の言い方は挑発的だったが、ルピーダはさらに挑発的だった。

 新たな戦いの予感でメルルは再び気をもみ始める。


 メルルの不安は杞憂だった。

 カルロスは不機嫌そうに「ふん、不要だ」と応じただけだ。


 「ちなみに、その遺体はどなたのものですかな?」


 不意に、ひとりの男がふたりの話に割って入った。ルピーダは不審そうな目を男に向ける。

 「誰だい、あんた? 見かけない顔だね」


 「申し遅れました。わたくし、ジドーと申します。

 ウルバッハ領より参りました。

 ウルバッハ家に仕える執事でございます」

 男はうやうやしくお辞儀をした。

 老年に達しているようだが、背筋の伸びた、背の高い男だ。

 しわだらけの右目の眼窩には片眼鏡がはめられていた。

 周囲の者と異なり、執事のような背広を身にまとっている。


 「ウルバッハ家だって?」


 ルピーダは驚いた表情を浮かべると、父親に顔を向けた。

 「どういうこと?

 どうして、ウルバッハの人間がここに来ているの?」


 「単純な話でございます。

 我が領から逃亡を企てた罪人を追って、ここまで参った次第。

 その罪人は領内で盗みをしていたことが発覚し、領外へ逃亡を図ったのであります。

 逃亡した道筋から、この村へ立ち寄る可能性があったので、領主様と村長に、罪人確保の協力と、身柄の引き渡しについてお願い申し上げていたところなのです」


 「罪人が逃亡? この村に立ち寄る、ですって?」


 ルピーダはつかつかと年老いた執事に近づいた。


 「プライネス領とウルバッハ領の間に、罪人引き渡しの協定があるのは知っているわ。

 でも、領民もそんなことを知っているから、領外への逃亡を図るのであれば、真逆の方角へ逃げるわね。

 あたしだったら、ウルバッハ領からミルコ山地を抜けて、スファクスを目指すわ。

 あそこなら罪人引き渡しの協定なんてないから、ウルバッハへ簡単に連れ戻される心配はないからね。

 本当に罪人であれば、協定のあるプライネスに逃げるなんて、そんな馬鹿はしないわ」


 メルルはルピーダの言葉に感心していた。

 彼女は頭がいい。執事の発言につじつまの合わない部分があることをたちどころに指摘してしまったのだ。


 「さぁて。逃亡を図った男が協定のことを知っていたか、わかりませんな。

 それに、我々もミルコ地方への道を真っ先に封鎖しましたからな。

 逃げ場を失った者がプライネス領へ逃げ込んだのは、結果的に必然ではなかったかと」


 ルピーダの追及に対し、執事は動揺を見せることはまったくなかった。

 穏やかな口調で、もっともらしく反論する。

 のらりくらりとかわす様は、『老獪ろうかい』という言葉を連想させた。


 「もういい、ルピードネラ。

 私はすでに承知した旨を告げている。

 お前が出る幕ではない」


 ルピーダが再び口を開こうとすると、カルロスが厳しい口調でさえぎった。

 ルピーダは父親を睨みつけたが、無言で数歩引き下がった。


 「ありがとうございます、領主様。

 ところで、話を戻しますが、あちらのご遺体はどちらの方のもので?」


 ジドーは微笑を浮かべたまま、荷車に手を指し伸ばした。


 すると、ゴーゴリーとともに遺体を運んでいた若者のひとりが荷車に手を突っ込むと、何かをつかんで執事の前へ進み出た。

 若者の手には、レトが見つけたベルトが握られていた。


 「遺体のそばに落ちていたものだ」


 若者は、短く告げるとベルトを手渡した。


 執事は片眼鏡の位置を調節しながら、ベルトのプレートの文字を読んだ。


 「……チョプス。たしかにこれはチョプスのプレート。

 では、その遺体はチョプスなのですね?」


 「あんたたちが探しているチョプスかどうか確認させてもらうよ。

 チョプスの身体的な特徴とか説明できる?」


 ルピーダは厳しい声で尋ねた。

 執事は不敵な笑みを浮かべると、かたわらに立つ男に話しかけた。


 「ケドル。説明してもらえるかね?」


 ケドルと呼ばれた男は執事の前まで進み出た。

 この場にいる者の中で一番大柄の男だ。ゴーゴリーよりもがっしりした体格である。

 対して、丸い輪郭の顔は子どもっぽいものを感じさせ、男の年齢をわかりにくいものにしている。30代にも見えるが、50代にも見える。

 このギスギスした雰囲気のなかで屈託のない笑顔を見せており、無邪気な性格か、あるいはその正反対か、まるでうかがうことができない。


 「チョプスは年齢30歳。

 痩せ型で身長は1メルテ60フィル弱。

 左頬にこぶし大のあざがある。

 あと、右手の甲に何本かの切り傷跡が残っていたかな」


 ケドルはメモもない状態ですらすらと特徴を説明している。

 ルピーダが背後に立つヒラリーへ視線を向けると、彼女はゆっくりとうなずいた。

 「すべて一致しています」


 「間違いないようですな」

 執事は満面の笑みを浮かべた。

 メルルはその笑みを気味が悪いと思った。


 「おい、そこの」

 カルロスは執事にベルトを渡した若者に声をかけた。


 「協定に従い、その遺体を引き渡す。

 荷車をこちらへ」


……でも、それは、これからさらに詳しい検死をするところで……。


 メルルはそう言いかけたが、自分の服のすそをレトが強く引っ張ったので口をつぐんだ。

 レトはこれまでのやり取りをずっと無言で見つめていた。


 その理由をメルルはわかっていた。


……そうだ。私たちは王国側の人間なんだ。

 一定の自治を認められた領については、領主の合意のもとでないと行動できないんだ。

 そうでないと、内政干渉とか、政治的な問題になってしまうから。

 私たちはあくまで捜査権で部分的な特例を認められているだけ。

 合意もないのに、この状況に口をはさんじゃいけないんだ……。


 遺体には不審な点があった。


 本来であれば詳しく調べなければならない。


 この村でじっくり調べるためだったので、遺体の衣服に何か持ち物がないかなど、確かめていなかった。

 細かいことを含めれば、調査はまだまだこれからだったのだ。


 しかし、ウルバッハ領の人間の遺体を調べる場合、本当はウルバッハ領側からの了解を得なければならなかった。

 ただ、始めは遺体が見つかったのがプライネス領であり、身元も不明だったので調べることができた。

 遺体の身元がウルバッハ領の領民であるとわかった時点で、ウルバッハ領に連絡を取り、調査の協力を取り付けなければならなかったのだ。それは、遺体を引き上げる段階でプライネス領の若者たちが懸念していたことであり、彼らの反応が正しかったことを意味する。


 ただ、ルピーダやレトの対応は、ウルバッハ領に何らかの疑いを持ったからだ。

 ウルバッハ領から妨害される前に、不審な点を洗い出そうとしたのは理解できる。

 それだけに、ルピーダはもちろん、レトも悔しい思いをしているはずだ。


 自分のすそを力いっぱい握りしめるレトの手を見つめながら、メルルはそう思った。


14


 「たしかに、我が領民を受け取りました」


 ジドーは朗らかな調子で言った。

 ケドルが直接遺体を検め、チョプス本人であることを確認した。

 つまり、ウルバッハ側からも遺体の身元確認ができたのだ。

 ここから先は、ウルバッハ領とプライネス領の協定内での話になる。

 レトたちの出番は完全になくなったのだ。


 「おい、遺体をあっちの馬車に移し替えろ」

 ケドルは集会小屋のそばで控えるように立っていた男たちに声をかけた。

 彼らはウルバッハ家に直接仕えている者たちだった。

 ケドルの部下たちなのだろう。

 ひとりひとりが用心棒を兼ねているようで、誰もが屈強な身体つきをしている。


 しかし、ケドルはそんな彼らを圧するほどの迫力なので、メルルはそれほど彼らに圧迫感を抱かなかった。

 ケドルの指示に対して従順に行動している様子からも、そう感じてしまうのかもしれない。


 ケドルの部下たちは、数台の馬車でこの村までやってきていた。

 そのうちの1台だけ、黒塗りの窓なしの馬車だった。

 チョプスの遺体はその黒塗りの馬車に運び込まれた。


 「それでは、我々はこれで」


 用事が片付き、そのほかすべての準備を終え、ジドーはカルロスたちに深々とお辞儀した。そして、短く指示を出すと、ウルバッハ領の者たちとともに村から去っていった。


 レトもメルルも、ただ黙って見送るだけだった。


 * * * * * * * * * *


 ウルバッハ領へ向かう馬車の中――。


 「ジドーさん。

 こいつの服から手紙が出てきましたぜ」


 チョプスの遺体をまさぐっていた用心棒のひとりが封筒を持ち上げてみせた。


 「ここへ持って来い」

 ケドルは部下に命じた。


 部下が封筒を渡そうとすると、ケドルの隣からジドーが奪い取った。

 ケドルはジドーと並んで腰かけていたのだ。


 「ふむ。

 この手紙に開封された形跡はない。

 やつらは、この手紙を見つけられなかったようだな」

 ジドーは封筒を何度かひっくり返しながらつぶやいた。


 「あいつら、まずは遺体を引き揚げることだけを考えていたようですね」

 ケドルは封筒を奪われたことに怒る様子も見せず、ジドーの手もとを見つめていた。


 ジドーはおもむろに封筒を破り、中から手紙を取り出した。


 誰に断るわけでもなく手紙に目を通す。


 しばらくして、ジドーは手紙をケドルに突き出した。


 「チョプスが家族にあてた手紙だ。

 しばらく留守にするが心配するなと書いてある。

 やつは、この手紙を渡しそびれたようだな」


 ケドルは手紙を受け取ると、ざっと目を通した。

 「そのようですね。

 まぁ、あいつが手紙を届ける前に、こっちに見つかって逃げ出したようですからね。

 そういうことでしょう」


 「ほかに残しているものはないのか?」


 ジドーは部下に尋ねた。さっきまで遺体を調べていた男は首を振る。

 「それだけです、ジドーさん」


 「どうやら、王国にチクる手紙を用意していなかったようですね」

 ケドルはおどけた様子でジドーに話しかけた。


 「チョプスが王国側にこちらのことを密告しようとしていると言ったのはお前だぞ、ケドル。お前の早とちりか?」


 ジドーはじろりとケドルを睨む。ケドルは軽く首をすくめた。


 「そんなことはないんですけどね。

 あいつは、自分の娘が死んでからずっと、俺たちを告発するつもりだったのは間違いないんです。

 ただ、こっちの対応が早すぎたってことなんでしょうね、きっと」


 ケドルは悪びれる様子も見せなかった。

 ジドーは不快そうに眉をひそめたが、それ以上詰問する気も失せたらしい。


 ジドーは「まぁいい」とため息をつきながらつぶやくと、声の調子を改めた。


 「ケドル。

 念のため、もう一度遺体を検めたあと、奥地の村で焼却するのだ」


 ジドーの突然の命令に、ケドルは不思議そうな顔を向ける。


 「ジドーさん。どういうことだい?

 ちょっと理由がわからねぇが」


 「今回、協定を盾に、こちらが先手を打てた。

 しかし、協定はこちらだけに都合のいいようにできているわけではない。

 お前もさきほどの集会場で聞いただろう?」


 「さっきの協定確認の件ですかい?

 聞きましたが、あれが何か?」


 「カルロス・プライネスは、『厄獣』を討伐するため、各地の『魔獣狩り』を呼び集めているそうだ。

 明後日には山狩りを始めるそうだ。

 緩衝地帯で『厄獣』を討ち取れればそれでよい。

 しかし、『厄獣』を追って、我が領内に踏み込むことになるかもしれんのだ」


 「ああ、『特別通行協定』のことですね。

 特殊な事情があれば、緩衝地帯を抜けて互いの領内に踏み込むことができるっていう……」


 「カルロスはその点を念入りに確認してきた。

 無理もない。

 こちらに協定違反だと責められたくないからな。

 事情が事情だけに、こちらとしても拒否するわけにいかなかった。

 だが、おかげで、やつらが『厄獣』を追って、あの『谷』にまで足を踏み入れる恐れが生まれたのだ」


 「ああ、そういうことですか。わかりましたよ。

 なるほど、それでチョプスの野郎は奥地の村で……ってことですか。

 たしかに、やつらにあの『谷』の存在を知られるのはまずいですね」


 「あの『谷』の秘密は、誰にも知られてはならん。

 今はもちろん、これからもだ」


 「でも、領内に入っても、あの谷だけは近づいてはいけねぇって言うわけにいかないでしょ?」


 「当然だ。わざわざこちらから疑念を招く発言をするものではない。

 藪をつついて蛇を出すこともない。


 そこでだ。お前にはもうひとつ指令を出す。

 明日にはプライネス領に向かい、お前も『厄獣』討伐隊に参加するのだ」


 「ええ? 俺がですかい?」


 「お前の任務は、やつらを谷に近づけさせないことだ。

 『厄獣』を追い詰める罠を仕掛ける場合、決して谷を使わせないようにし、別の場所で罠を張らせるのだ」


 「谷には行くなと言わないで、それをするんですかい?」


 「それが、お前の任務だ」


 ケドルは「はあああ」と深いため息をついた。


 * * * * * * * * * *


 ウルバッハの者たちを乗せた馬車が見えなくなると、レトはヒラリーのそばへ歩み寄った。


 「申し訳ありません。ヒラリーさんが検死した内容について、改めて詳細を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」


 ヒラリーはレトに顔を向けたが、その表情は冴えなかった。


 「かまいませんが……。でも、簡易的な検死ですので、断定できるものではありません。それでもよいのですか?」


 「たしかな部分だけをお教えいただくだけで十分です」


 「わかりました。では、医院に寄ってみましょう。あちらの先生にお願いすれば、落ち着いてお話しできる部屋をお貸しいただけます」


 「お手数をおかけします」

 レトが礼を言って頭を下げた。メルルは、レトが急に話を進めるので、混乱してしまった。


 「れ、レトさん! 急にどうしたんです? チョプスさんの件は終わってしまったのではないのですか?」


 「終わったさ」

 レトは馬車が去った方角を見つめていた。「あいつらにとってはね」


15


 「私の見解では、あの遺体の死因は矢傷による出血死です」


 ヒラリーはレトとメルルを前に説明を始めていた。


 カンタ村にある、小さな医院の中の一室。

 3人は小さなテーブルを囲んで座っていた。

 アルキオネは医院に入らなかった。その屋根の上で羽を休めているはずだ。


 「首などに咬創が見られましたが、出血の量が極端に少なく、あの傷は死後、なんらかの獣、おそらく野犬あたりに食いちぎられたものと推察しています」


 「熊さんのしわざではないのですか?」


 メルルが手を挙げて尋ねた。ヒラリーは首を横に振る。


 「たしかに、熊類は体格の割に顎が小さく、噛み傷はあまり大きなものになりません。ですが、その分、噛み傷の形状は特徴的なので、熊類であるか、それ以外かの区別はそれほど難しくもないのです」


 「じゃあ、チョプスさんは誰かに矢で射殺された、ということなのですか?」


 ヒラリーはうなずいた。

 「少なくとも、魔獣ではありません」


 「ウルバッハの執事さんが、おっしゃっていましたね。

 チョプスさんは盗みをやって、領外から逃げ出そうとしていたと。

 それって、追手の方がたに矢で撃たれて、致命傷を負ったという話ではないのですか?」


 メルルが考え込むようにつぶやいた。ヒラリーは沈黙してうつむき、レトは首を横に振って答えた。


 「チョプスさんが盗みを働いて逃亡したという話は、本当かどうか疑ってかかるほうがいい。

 理由はルピーダさんが追及したとおりさ。

 チョプスさんが犯罪者であるなら、プライネス領を目指して逃げるはずがないんだ。

 ルピーダさんが言うようにミルコ山地を抜けてスファクスを目指すのも一案だけど、平易な道を選ぶのであればカーペンタル村へ逃げ込むのもいい。


 プライネス領を目指すのは、犯罪者であれば『愚策』のひとことさ」


 「でも、逆にです。

 チョプスさんが犯罪者でなければ、プライネス領に逃げ込む理由があるのですか?」


 メルルは疑問を払拭できずにいた。わからないことが次から次へと思い浮かぶ。


 「ふたつの領で結ばれた協定だよ。

 協定では、ふたつの領は互いに内政不干渉の立場をとり、領民の行き来を基本的に認めない。

 犯罪者をかくまわず、互いの領に引き渡しする。

 ただし……、亡命者は例外とする」


 「亡命者?」


 「もともと、内政不干渉とか、ひとの移動制限とかは、ウルバッハ領側からの協定なんだ。

 すべてウルバッハ側に都合の良い協定など受け入れられないから、プライネス側がその条項をねじこんだ。

 ウルバッハ領は閉鎖的で、領民は領主から完全に支配されている。

 この状況に不満を持つ者は跡を絶たず、そこから逃げ出す者がいるんだ。

 プライネス領では、そういう人びとを政治難民として受け入れるために、そんな協定を結んだんだ。


 つまり、亡命が目的であれば、チョプスさんがプライネス領を目指す理由がある」


 「なるほどですね……。

 あ、でも、それじゃ……。

ルピーダさんのお父さんって、すっごくいいひとじゃないですか!」


 「ルピーダさんも、別にカルロス氏のことを悪人なんて言ってないじゃないか。

 ただ、『馬鹿親父』と呼んでいたけど」


 「そうさ、馬鹿親父さ」


 いきなり扉が開くと、そこから疲れた表情のルピーダが入ってきた。すぐ後ろからゴーゴリーも現れる。


 メルルは驚いて思わず立ち上がった。


 「むざむざ、遺体を奪われる真似しやがったんだから」


 ルピーダはつかつかとテーブルに近づいた。

 テーブルの上には紅茶の入ったカップが置かれている。


 ルピーダはレトの前に置かれたカップに手を伸ばすと、それをいきなり飲み干してしまった。


 「ああー、ノド乾いた。馬鹿親父と言い争いになって、口の中がカラカラだったんだ」


 「僕の紅茶を飲み干してから、ノド乾いたって言わないでください」


 レトは真顔で抗議した。


 「ごめんよ」


 ルピーダはあまり反省の色を見せずに詫びると、テーブルに両手をついた。


 「で、どこまで話しているの?」


 「どこまでって?」再び腰を下ろしたメルルは、ルピーダのペースに合わせられずに問い返した。


 「当然、事件の話よ。

 レト。あんた、ある程度見えていることがあるんじゃないの?」


 レトは苦い表情を浮かべた。


 「チョプスさんは、おそらく矢傷で亡くなったこと。

 プライネス領に遺体があったのは、チョプスさんが亡命を図って逃げ込んだからだろうということ。そのあたりまでです」


 「ふうん、あたしが考えていることと同じだねぇ」


 ルピーダは辺りを見渡して、ひとつ残っている椅子に腰かけた。「ま、あんたはカーペンタル村出身だって話だから、もともと知っていることもあるしね」


 メルルはルピーダ、そしてレトの順に視線を向けた。「もともと知っている?」


 レトは小さくため息をつくと、ヒラリーに顔を向けた。

 「ヒラリーさんは、ウルバッハ領の『うわさ』についてご存知ですか?」


 ヒラリーはゆっくりとうなずいた。「大体は」


 「だったら、ここで話してもいいかな」


 レトはメルルに顔を向けた。


 「代々のウルバッハ領主は領民を力で支配してきた。圧政を敷いてきたと言ってもいい。

 領民が土地から逃げ出さぬよう、各人で互いを見張らせる制度をいたり、その監視が行き届きやすくするため、領民には名前入りのプレートをつけた首輪の着用を義務付けたりした」


 メルルは「あっ」と思った。


 レトが拾い上げたベルトは、もともとチョプスの首につけられていたものだったのだ。

 何らかの獣に食いちぎられて外れたということなのか。


 レトが「気持ちのいい話じゃないんだ」と言った理由がわかった。


 ウルバッハの領主は、領民をまるで獣を飼うかのように扱っているのだ。


 「そ、それって、違法なことじゃないのですか?」


 メルルは慌てて口をはさんだ。

 ルチウス王太子が摂政となったとき、『王国人権宣言』が発表された。

 王国はこれまでも人権重視の姿勢を見せていたが、それを憲法上だけでなく、法令にも反映するよう布告されたはずだ。


 「一応、人権侵害に対する法令はいくつか議論されている。

 でも、反対勢力が多いので、なかなか進んでいないのが現実だよ」


 「反対? どこが反対するのですか?」


 「主に貴族。ほかに各地の領主」


 メルルは言葉を失って沈黙した。


 ここギデオンフェル王国は、憲政である一方、各地を貴族が支配する封建制の国でもある。


 王国全体の意思統一、あるいは権力の暴走を抑えるものとして憲法が存在するわけだが、貴族や領主が治めるところについては、彼らの意向を優先されるのが常識であった。


 王太子は、この『現実』を看過できずに、『王国人権宣言』を発表したわけだが、特権意識の強い貴族や領主たちにとって、自分の権限が弱められるのは許されないことだった。


 国会では貴族連合なる団体が組織され、王太子の政治に対抗する動きを見せている。


 メルルも貴族連合の存在は知っている。

 レトに指摘されなくても、この『現実』は想定できるはずだった。

 メルルが絶句したのは、当然わかっているはずのことをわかっていない、自分自身の『呑気さ』に衝撃を受けたのだ。


 「すみません……。さっきから馬鹿な質問ばっかりでしたね、私……」


 「そうでもないさ」


 レトは首を振った。


 「自分に直接降りかかってこなければ、こうした『現実』に意識は向きにくいものだよ。

 僕だって、知っておきながら、ここの厳しい状況をどうするべきか考えてこなかった。

 君のことを僕は批判なんてできないよ」


 「でも、今のあんたは、それをどうにかしたいと考えている」


 ルピーダの声は挑戦的な感じがした。レトは苦笑を浮かべる。「難しい問題ですけどね」


 「あの……、どうにかしたいって、どうする考えですか?」


 「チョプスさんは明らかに人間の手で命を奪われた。

 その事実をウルバッハ領の人間が隠蔽しようとしている。

 それを証明して、ウルバッハ領に王国からの査察が入るようにする。

 この件は犯罪であると、正当な事案として告発するんだ」


16


 「でも、すでに手遅れの感じはするけどね」


 ルピーダは力の抜けた声をあげた。メルルがルピーダに顔を向けると、彼女には諦めの表情が浮かんでいた。椅子の背に片腕を載せて、そこに頭をけだるそうに預けている。


 「詳しい検死をするための遺体は持ち去られました。

 おそらく、すぐにでも火葬されることでしょう。

 この場合、屍霊化を防ぐというより、証拠隠滅の意味合いのほうが強いのでしょうが」


 ヒラリーも諦めの表情だ。加えて、疲労感も見える。


 「でも、レトさんは諦めていないんですよね?」

 メルルはレトを見つめた。

 レトが犯罪を簡単に見過ごすことなどしない。メルルはそう信じていた。


 「どうだろう。

 ただ、できる手をすべて打ったうえでないと、簡単に諦められないってのはあるけどね」


 「できる手って何だい?」


 ルピーダは預けていた頭を上げて尋ねた。


 「今回は協定にしてやられた形ですが、今度はこちらが協定を利用するのです。

 近いうちに『厄獣』討伐隊が組織され、山狩りが始まります。

 もともと、僕も参加するつもりでしたが、山狩りを通じて、ウルバッハ領のことを調べるんです」


 「協定……。ああ、そうか。

 非常時の領内移動の自由ってやつか」


 ルピーダはすぐに理解して声をあげた。


 「そうです。『厄獣』の行動から考えて、今回の山狩りは、おそらくプライネス領とウルバッハ領の間にある緩衝地帯で行なわれます。

 『厄獣』を追い詰めるために、ウルバッハ領に足を踏み入れることもありうることです。

 その際、ウルバッハ領で何が起きているか調べる機会ができるかもしれない」


 「あまり期待できそうな策じゃないね。でも、打てる手がそれぐらいしかないのも事実だね」

 ルピーダは批判的なことを口にしつつも、最終的にはレトの考えを肯定した。


 「まぁいいわ。そういう話だったら、さっそく、『その件』についても話そうかね」


 ルピーダは立ち上がると、レトたちが座るテーブルに歩み寄った。


 「あんたが見込んだとおり、緩衝地帯で『厄獣』討伐の山狩りが行われるわ。

 魔獣も獣も、あまり人間の手が加わっていない土地を好む。

 その意味では、緩衝地帯は理想のところだからね。

 明日には呼び集めた『魔獣狩り』たちをまとめて、討伐隊を編成する。

 あんたはそれに加わって、熊狩りと『事件狩り』をすればいいわ」


 「わ、私も同行します!」


 メルルは片手を高くあげた。


 「お嬢ちゃんはよしたほうがいいんじゃないか?

 危険だし、足手まといになると迷惑だからね」


 「よしません!」

 メルルはルピーダにくってかかった。


 「多少ですが私は魔法が使えます! 魔法陣を駆使した術式魔法だって!」


 「魔獣の動きは速いです。呪文の詠唱が終わる前に食い殺されます」

 これまで無言だったゴーゴリーが口をはさんだ。


 「な……」味方になってくれると思ってはいないが、それでも、ゴーゴリーにまで否定されたのはメルルにとってショックだった。


 「ゴーゴリーさんの言うとおりだ。君に魔法が使える機会はあまりないと思う」


 レトは決定的なことを言った。

 メルルは悔しい気持ちでうつむく。


 「だから、君は絶対に前面に出てはいけない。

 必ず、『厄獣』とは距離をとるように心がけるんだ」


 「え?」

 メルルは思わず顔を上げた。ルピーダも目を丸くしている。

 「おい、あんた……、まさか……」


 「彼女が言い出したら決して退きません。

 これまで何度も見て思い知っています。

 討伐隊に加われないからと、陰で勝手に動かれるほうが危ないんです。

 そういうわけで彼女にも来てもらいます」


 メルルの顔は一気に明るくなった。


 「さっすがレトさん! わかってるぅ!」


 その場で跳びはねてはしゃぎだす。


 「いや、これ、本当にいいの?」


 ルピーダはあきれ顔でメルルを見つめながらつぶやいた。


 「良い悪いで言っていません。最悪事態を想定して、もっともましな判断を選んだだけです」


 「さすが、王太子肝いり組織の一員ね。

 どちらも考え方が違うわ」


 それを聞くと、メルルは嬉しそうに自分の両頬に手をあてて身体を左右に動かした。

 「よしてください、ルピーダさん! 照れるじゃないですか!」


 「褒めてないわよ!」ルピーダは顔を紅潮させて突っ込んだ。


 「いいかげん、話を戻しませんか?」

 レトが落ち着いた声をはさむと、ルピーダは気を取り直したように咳ばらいをした。

 「そ、そうね……。じゃあ、話を戻して、討伐隊参加について説明するわ。


 あなたたちは、あたしの古いなじみということで、今回の山狩りを手伝いに来たことにするわ。

 王立探偵事務所の者だと知られたら警戒されて面倒だからね」


 「ウルバッハの方がたの前で僕はあえて名乗りませんでしたが、彼らは僕たちのことを聞いていませんよね?」


 ルピーダは片手をひらひら振った。


 「こっちからは何も言ってないわよ。

 向こうも何も聞かなかった。

 良くも悪くも、あんたたちって華がないし目立たないからね」


 『良くも悪くも』と言うが、『良くも』は絶対ないだろう。

 メルルは少しムッとしながら思った。


 「具体的な人物は教えられていないけど、ウルバッハからもひとり参加するみたいよ。

 要は監視役を送り込むってわけね。

 予想では、ケドルを寄越すんじゃないかって思っているわ」


 「ケドルとはどんな人物ですか?」


 「あんたは覚えているだろ?

 さっき、チョプスって人物の身体的特徴を説明していた男さ。

 あのときもそうだったが、いつもへらへら笑っている。

 ひとによっては明るい野郎だと考えるだろうな」


 「本当は明るくないのですか?」メルルが疑問をはさんだ。


 「もし、ひとが苦しみもがいている様子を笑って見ていられるのが『明るい』って言うのなら、あいつはたしかに明るい性格だろうね」


 ルピーダの説明にメルルはぞっとした。


 「嗜虐しぎゃく趣味の持ち主ということですか」

 レトは面白くなさそうな表情でつぶやいた。


 「領主カイン・ウルバッハは、大勢の用心棒を雇っているけど、ケドルはそいつらを束ねるリーダーでもある。

 誰であろうと、もちろん部下であろうと、残虐だと聞いているよ。

 あるとき、仲間を半殺しにしたことがあったそうだけど、そのときも嬉しそうに笑っていたってさ」


 「……そんなのがリーダーじゃ、たまらないですね……」

 メルルは自分の両肩を抱えて言った。ケドルの残忍さを想像して身体が本当に震えてきたのだ。


 「領主の下で、もう30年は働いている。古参のひとりだよ。

 何か事件が起これば、必ず名前を聞くのがあいつだ。

 耳にするのは、あいつが力づくで状況を収めたっていう話さ。どこまで本当かは知らない。

 ただ……、そういうわけで領内の誰もがケドルを恐れている。

 だからこそ、領主はあいつを重用するわけさ。

 あそこでは、暴力こそが絶対なんだ」


 そんなところで生きることを余儀なくされる領民が、どんな思いでいるのか。


 『気の毒だ』と思うのでさえ失礼で、思慮が足りないと感じる。


 しかし、どのように感じることが適切なのか。メルルには見当がつかなかった。

 ただ、胸の奥から、ふつふつと湧き上がるものがある。それは、『怒り』だ。


 「王国は、そんな用心棒を抱える領主をこれまで見過ごしてきたのですか?」


 レトに言っても仕方がないのだが、それでもメルルはレトに抗議の声をぶつけた。


 「もちろん、自治を認めていると言っても、何にでも目をつぶっているわけじゃない。

 領民への虐待は同時に、王国にとっての国民に対する虐待にもなる。

 証拠をつかめば、王国は必ず干渉する。

 ただ、これまで王国に訴える領民が現れなかったし、確証を得る機会もなかったんだ」


 「それは、ウルバッハの用心棒たちが、領外へ逃げようとする領民を捕まえてきたから……」

 そして、捕らえられた領民はすべて……。


 メルルは立ち上がった。

 「チョプスさんは、盗みではなく、領主を告発するためにプライネス領まで逃げたのですか?」


 「告発するつもりがあったかはわからないね。

 単純に逃げ出しただけかもしれない。

 ただ、やつらにとって領内の現実が外に漏れることは決して許されない。

 だからこそ、本気で殺しにかかってきた。

 チョプスさんは矢で致命傷を負わされたけど、どうにかやつらを振り切ってプライネス領まで逃げ込んだ。そして、そこで力尽きたんだと思う」


 レトの説明に、メルルはやり切れない思いが募った。


 チョプスがもし、ただ逃げたいという想いだけなら、殺されなくていいはずだ。

 しかし、ウルバッハの支配者たちは、そんな想いを気にかけることなく殺したのだ。


 「今回は、どこからも依頼はない。

 でも、この件は僕たちで捜査する。いいね?」


 「もちろんです!」

 メルルは力強くうなずいた。


 「まぁ、こちらは魔獣狩りが本業だから、熊退治に専念させてもらうけど、何か協力できることがあれば、手を貸さないでもないよ」


 ルピーダが張りのある声で言う。さきほどまでのけだるそうな表情が消え、気の強いものに変わっている。

 レトとメルルのやる気ある態度に感化されたようだ。


 そんなときに扉を強く叩く音が響いた。


 ゴーゴリーが扉を開けると、遺体を一緒に運んできたプライネスの若者が入ってきた。

 彼の額からは大量の汗が流れ、わずかに震える唇が蒼ざめている。


 「どうした?」ゴーゴリーが短く尋ねた。


 「どうしたもこうしたもねぇ。また、『厄獣』がやりやがった!

 今度やられたのは……、『魔獣狩り』だ!」

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