ミサとリオと「音楽の魔女」
今回は「文系三大魔女」に比べて、なんだかよく分からない「理系四大魔女」の解説です。算術と幾何が理系なのはわかる。天文も、まぁ理系なんだろうなと見当はつく。
どうして「音楽の魔女」も理系分類なのか、その謎に迫るよ!
「水晶の魔女」一門の新入り、高階海砂は理系寄りである。師匠の天知小夜は「天文の魔女」だし、国語よりは数学や理科が得意だ。古文はナクナッタッテ、イインジャナイカナー? と思う程度には苦手である。ありをりはべり、いまそかり。しかしだからって、じゃあ現代文なら何とかなるか、といえば、それも違うのである。
日本語が喋れたって、国語が解けるとは限らない。英会話ができたからって、英語論文が読めるとは限らないのだ。英語ネイティブに京大入試の英語を解かせてみたら、全然できなかったという話があるが、日本語ネイティブだからって東大入試の国語が解けるかと問われたら、日本国で中等教育課程までを修了した人々の多くは、できませんと即答することだろう。
しかしながら、理系といえども「文章力」を重視するのが「水晶の魔女」一門。
むしろ、理系であればあるほどに、文系を鍛えねばと言われるのだ。
現在、ミサはサヤの「図書喫茶」の一角で、原稿用紙を前に悶絶していた。机に突っ伏して頭を抱え、ウーンウーンと唸っている。
この世で最も滅びるべき忌まわしい夏休みの宿題、それは読書感想文だ。
「かぷかぷ笑うクラムボン……くらむぼん、って何やねん!」
読んだのは、宮沢賢治『やまなし』である。理由は教科書にも載っていたからだ。わざわざ「これを読んで感想文を書こう」という本を探すほど、ミサは読書感想文に熱心にはなれない。ただ、そこで敢えての宮沢賢治なのは、サヤが「賢治はおそらく『野生の魔女』で、彼の詩は、文系魔女が武器に使うこともある」と言っていたからである。
実際、サヤはこの「図書喫茶」で、賢治を特別の地位に置いているらしく、近代日本文学の席と、宇宙と天文学・地質学の席を隣り合わせに配置し、宮沢賢治全集で特設コーナーを作っている。
しかし『やまなし』は、明らかに選択を間違えたような気がする。
クラムボンって何だ。
笑うのに「かぷかぷ」とは何だ。
さっぱりちっともこれっぽっちも腑に落ちず、原稿用紙は驚きの白さを保っている。
「ハハハ! やってないね!」
朗らかに笑いかけてきたのは「律動の魔女」川辺理央である。世界を旅しながら、各種「水晶」の買い付けにいそしむ彼は、海の向こうを夢見るミサにとっては憧れの人だ。ただし、だからって夏休みの宿題に苦しむ後輩の姿を笑うことは、ぜったいにゆるさない。
「リオさんは、いいですよねぇ……宿題が、ないんですからぁあ……!」
泥火山の噴火の如く、ごぷりどぽりと怨念を噴き出すが、社会人にだって宿題は出されるんだぞ、とけろっと返されて、そんな馬鹿なと目が点になった。
フツーの社会人なら宿題はないのかもしれないけど、僕は「魔女」だからね。
そう言うとリオは、ここからここまで、と喫茶店の隅の本棚を示した。
「まさか、それ全部が……」
「宿題、の……一部なんだなぁ、まだこれで!」
ミサは、かわいそうに、と即座に華麗なる手のひら返しをした。
まったくね! と、リオはガチャンガチャン、金属製のポットを振った。
「ネウマ譜の解読ぐらいなら頑張るんだよ! 何なのさ! バロック期における平均律について、大バッハの作品の解析を基に所感を書けって! 大バッハの作品、いくつあると思ってるんだよ!」
「いくつなんです?」
「数え方にもよるけれども、1087だったかな、たしか」
「むごい」
締め切り次第では、殺意さえ感じざるを得ない分量の課題ではないか。
「いくつかは奥さんの作曲らしいけどね……ちなみに僕がメインで取り組むのは『平均律クラヴィーア曲集』だから、全2巻48曲で済む。でも分かる? たとえ1曲しかなかったとしてもね、その音が何故そこに配置されたのか、和音は調子は主題は、って考えていったら、キリがないんだよ! 言葉の深読みとは違って、音は『音』でしかないの! それを心底まで考え抜いた果てに『感じろ』ってね、それを48曲だよ!!」
「うわぁお……」
今、もし自分が読書感想文を48作品分書けと言われたら、たとえ師匠のサヤであっても、ぶん殴れる自信がある。むしろ蹴る。魔女にはなりたいから、塾には残るけれど、一発は確実に蹴る。
「そりゃあさぁ……『音楽の魔女』の称号に、挑戦してみようかな、って言ってみちゃったけどさぁ……思ってた以上に道が険しすぎて、もう今から心が折れそうだよ」
学術系魔女の最高峰「七大魔女」は、文系三学をなす「文法」「修辞」「論理」と、理系四科と分類される「算術」「幾何」「天文」「音楽」で構成される。つまりリオが「頑張ってみちゃおう」と思った「音楽の魔女」は、一門のトップ7なのだ。
「上級称号って本当に上級だったんだな、って今更ながらに実感しまくりだよ。ていうかサヤ姉が悪い!」
がっしゃんがっしゃん、リオはポットを振りまくる。
「サヤ先生が悪い?」
「20代で『天文の魔女』襲名してんだよ? あと、アヤ姉も20代で『修辞の魔女』になってるし。七大魔女とか九術魔女とか、なんか仰々しいけど、名前だけだよね~、って思っちゃうじゃん?!」
それは、そうかもしれない。
「ひどいよ。なんで僕の姉弟子たちは、揃いも揃って化け物ばっかりなんだ。アヤ姉の上なんかエリカ姉だぞ? 何でも出来過ぎて専門称号の授与が断念された挙句に『未知の魔女』とか名乗らされてる、正真正銘の超大物だぞ?! 僕が不出来なんじゃない! 姉さんたちがおかしいんだよ!!」
散々振りまくった金属製ポットを、だん、とカウンターに叩きつける。
リオの言い分には、二百パーセント同意しかない。
サヤは急死した先代「天文の魔女」の指名があった、という事情があるが、どう考えても仲間彩はおかしい。文系三大魔女の他の二人が、大学で教鞭を執るレベルだと聞いて、むしろ彼女は何者なのだと心底から疑問しか湧いてこなかった。
そういうわけだから、二日前にこの図書喫茶に姿を現した「医療の魔女」アユミに対し、そうですよね、上級魔女ってそういうものですよね、と逆に安心感を抱いてしまったほどだ。国公立大学医学部卒。ですよね! ですよね!!
学歴で人を判断してはいけないだろうが、上級称号をものする方には、それなりに仰々しい肩書があって欲しい。完全なる個人の偏見だ。脳内学歴フィルターである。だが仕方ないのかもしれない。ミサはまだ大学受験すら遠いような、高校一年生である。大学を卒業しているというだけで、否、大学受験をしたというだけで、なんだかすごいと思ってしまう程度の人生経験しかないのだ。
グラスを取り出して、リオは振り回していたポットから、アイスティーをとぷとぷ注ぐ。振っていた理由はストレス発散だけではない。お茶の温度を下げるために、氷を入れてなじませていたのだ。
「……青ッ」
注がれた液体の色を見て、ミサは思わず声を上げた。
「ブルーマロウですか?」
青いハーブティーと言えば、ミサが連想するのはまずそれだ。
いや違うよ、とリオは首を左右に振った。
「タイのハーブ、バタフライピーだ。蝶豆ともいうね。ブルーベリーの4倍ともいわれるアントシアニンが、この青色の理由さ。目の疲れに効くと言われるよ。ソーマに教えてもらったんだ」
リオが連れてきたインドの術師ソーマは、薬草も研究対象である。
インド人ならタイのハーブのことだって詳しいのかもしれない、と、中国人なら日本のことに詳しいだろう並みの暴論を、ミサは脳内で組み上げた。海の向こうには憧れているが、理系のミサは社会科が不得意寄りである。地理と民俗学の席を愛好していても、インドとタイが、間に日本を挟んだぐらい離れているとは、あんまり実感していない。
はい、どうぞ、と差し出されたグラスを、有難く受け取る。
「へぇ……なんか、レモングラスっぽい? スッキリした味わいですね」
「いや、それレモングラスの味」
「えっ?」
「バタフライピーって味がないんだよねぇ。まったく無味ってわけじゃないんだけど、ハーブティーの癖に慣れた人にとっては、味気なさすぎるぐらい味がないんだ。だから、ブレンドしてある。残念ながら、これはソーマじゃなくて僕のブレンドだけど」
ソーマがやってくれてたら、きっともっと美味しいんだろうけど、まぁサヤ姉のよりは僕のブレンドの方がきっと美味しいと思うぞ。
サヤが聞いていたら、脳天に一撃ぐらいお見舞いしてくれそうなことを言いながら、ハハハ、とリオは陽気に笑った。
ただいまサヤは外出中であり、喫茶店は本日休業である。
リオが「正真正銘の超大物」と称した、かの「未知の魔女」エリカに、ちょっと用があるらしい。エリカは某県の山中にある「工芸の魔女の村」から、あんまり外に出てこないので、出てきた時にはここぞとばかりに、各方面から「ツラ貸せや」と言われるのだそうだ。ちなみに「ツラ貸せ」と形容したのはリオである。ミサが言ったわけではない。
「ちなみにブレンドは?」
「レモンバームとレモングラスとレモンバーベナの、レモンくさいトリオを『1:1:1』さ。安心安全飲みやすい。心を穏やかにしてくれるはずのブレンドだ……そう、だからこれを飲んでも、まだ僕の心が穏やかになってくれないというなら、それはサヤ姉の宿題が苛酷すぎるということなんだ」
顔が半分死んでいる。リオは基本的に陽気で朗らかなので、こういう表情は珍しい気がする。
もっとも、マリ門下に拾われるまでは、むしろリオは内気で対人恐怖の傾向まであったのだという。それが、魔女としての修行により心身を磨いた結果、陽気で社交的で、少々はっちゃけた人間に生まれ変わった。
「飲みやすいです、けど……もうちょっとレモンみが欲しいような……」
「あー、ちょっと待ってて」
リオは、レモンを半分に切って果汁を絞ると、小さなガラスピッチャーに入れて、はいと差し出してくれた。にひひ、と笑いながらである。
「面白いものが見られるよ」
「……ほほう?」
「ゆっくり、一滴ずつがおすすめ」
受け取った搾りたてホヤホヤのレモン果汁を、てん、てん、とバタフライピーに滴らせてみる。すると、青い中にピンク色がほわっと現れる。
「これは……」
レモン果汁を足しては、グラスを覗き込んで観察する。その動作を繰り返し、しばし考え込んで、そしてミサはぽんと手を打った。
「レモンに含まれるクエン酸が、アントシアニンと反応するんですね!」
「そのとおりさ!」
理系寄りのミサの感想に、ロマンティックな要素は欠片もなかった。
リオも、そんなミサの言葉を、満面の笑顔で肯定した。
「『夜明け色のティー』とも言うらしいけど」
ちょっとばかり詩的な表現をされ、ミサはしげしげと、色変わりをするアイスティーを改めて観察してみる。
「ははぁ……そう言われれば、夜明けの空に見えなくもないですね」
真っ暗だった空が、東の方から美しい青になって、地平線は白く染まり、太陽が顔を出すか出さないか、という頃には、空はピンクに変じていく。「枕草子」で冒頭に語られる「紫だちたる雲」が見え、やがて日の昇るにつれて、金色の光線が空を貫き、覆い尽くしていく。その、ぎりぎりの空だ。
記憶の中の夜明けを思い起こすミサの姿に、えー、っと、とリオがやけに口ごもりながら、遠慮しつつ質問をしてきた。
「ちょっと質問なんだけど、キミ、そんなに早起きをするのかい?」
「え~、と……早起きというか、遅寝というか……まぁいわゆる徹夜明け、みたいな?」
「徹夜は、儀式の時以外はしない方が良いよ? 魔女は規則正しい生活が推奨されてるって、サヤ姉に教わらなかったのかい?」
「えっへっへ……受験前って平常心が壊れるんですかね……」
「ああ、なるほど……受験前なら仕方ないね」
学会前でもいつもの生活リズムが崩れない、アヤの方がおかしいのだ。ちなみにサヤは多少は崩れる。根が真面目なアヤとは異なり、サヤは適当でズボラな傾向が強い。まぁいっか、という美徳かつ悪徳を、門下でもっとも体現している一人である。
もちろんアヤだって、生活リズムを崩したことがないわけではない。七年前、リオがちょうどマリ先生に弟子入りしたぐらいの時期、アヤは出産から育児の真っただ中であった。しかも、子ども一人でもハードだというのに、アヤが産んだのは双子だった。
なのであの頃はよく、マリの門下生や「水晶の魔女」一門の者たちが、入れ代わり立ち代わり、ヘルプに入っていた。入門したばかりのリオも、双子が一歳を過ぎたぐらいには、面倒を見にしばしば駆り出されたものである。
正直に言おう。可愛かった。
受信能力が上がりすぎて疲れ荒んでいたリオは、仲間家の双子にベビーセラピーされた。子どもは子どもであるというだけで可愛い。
双子、すなわち姉の倫と弟の練は、古代呪術回路を持つ魔術師と、新興呪術回路を持つ魔女の子というので、あんまり嬉しくはないが「魔導連盟」からも、大事に育てろ的な通達が来た。贈られた護符をエリカが鼻で嗤って焼いていたのは、見なかったことにしたい。
そんな子どもたちも、ついにランドセルを背負う年齢になったのだなぁ、と思考が飛べば、自分もオジサンになったなぁ、とつい思う。バレた瞬間に、姉弟子たちから制裁をくらわされそうだが。
川辺理央、入門は19歳。今度で27歳の、まだまだ若手である。
だが眼前にいるのは、今年に入門したばかりの、正真正銘の若手なのだ。ちょっとばかり先輩風を吹かせても、バチは当たるまいと思う。少なくとも心の中では良いだろう。
「ところで気になってたんですけども『理系四大魔女』って、今どうなってるんですかね? サヤ先生が『天文』で、あと『幾何』と『算術』と『音楽』ですよね……『音楽の魔女』は、リオさんが狙ってるんだから、空席なのかもしれませんけど」
うん、そうだね、とリオは頷いた。
「『音楽の魔女』は、大師匠である『歴史の魔女』マヤも現役だった頃に、一人だけ就いたことがあるぐらいの上級称号だ。ちなみに故人。それ以降はずっと空席だよ」
なお、その故「音楽の魔女」の最後の弟子こそ、マリ門下の双璧の片割れ、アヤである。アヤは門下でも屈指に数多くの先達に師事しており、「音楽の魔女」はなんと第八師匠となる。
「サヤ先生が同列に挙げられて良いレベルなんですか?」
ミサがさらりと自分の師匠をdisっていることについて、リオはこれまたさらりと聞き流した。一番弟子というのは、師匠が師匠として最も未熟な姿、を見ている存在なのだ。
「『天文』の魔法は、古今東西でも研究が進んでいる分野の一つだから、比較的継承しやすいんだよ。観察対象は外側にあるし。けど音楽って、最終的には個人が『聴く』ものだからねぇ。客観的判断がしづらいのさ……誰かさんのおかげでハードルが爆上がりしたのもあるけど」
リオは、ここではないどこかを、じっとりと睨みながら呻いた。
それでミサも「未知の魔女」のことだな、と察した。
「なんで! 歌うだけで! 霧が発生するんだ! 虹が! 出るんだ!!」
そんな御伽噺みたいな「いかにも魔法」を使えるなんて、この門下に何人いると思ってるんだよ! ていうか一門の誰も、エリカ姉のレベルには到達しないよ!
だん、だん、とカウンターを叩きながら、声も高く主張する。
「あの人のせいで、歌で虹ぐらい出せなけりゃ『音楽の魔女』の称号は荷が勝ちすぎる、と思われるようになったんだよ。出・る・か! 普通は出ないよ!」
「むしろ、何故エリカさんは出せるんです?」
「あの人は魔術師の家系の出身で、魔女としての『受信』能力も突出してるんだけど、同時に魔術師の『送信』能力もずば抜けているんだよ。魔術の基礎が催眠にあるって話は知ってるよね。つまり、エリカ姉の歌は強力な催眠術でもある。現実としか思えないぐらいリアルな幻覚を、脳内に引き起こすなんて、あの人には通常運転なんだよ」
それが通常運転になる人材なんて、世界でも数えるほどだろうけど。
「えーっと、それってつまり、本当は虹なんか出てない、ってことですか?」
「いや、実際出てると思うよ。ただ、現実よりも鮮烈に、僕らは『受信』するから」
つまり、魔女と魔術師の直接対決になれば、「囁く」魔術師と「聴く」魔女とでは、魔術師の方が有利ということになる。ミサにはそう思われる。
待てよ、と記憶を探る。
そういえば「魔導連盟」には、魔術師と魔女以外に、呪術師という存在がいたのでは?
「……魔法と魔術は違うわけですけども、呪術ってどうなんです?」
「どっちの要素も含んでるけど、古代からの経験則を多分に含んでるもの、だね。だから、魔法に区分できる呪術もあれば、魔術に区分すべき呪術もある。近代以降に科学的知識を取り入れて成立したものを、特に示す時は『新式』ってつける。アヤ姉は『魔道』って言ってるけど」
「へぇ」
そもそもアヤは、稀なる新規型の呪術回路の持ち主なので、彼女は「新式」以外には、基礎の基礎以外、ろくすっぽ行使できないわけだが。
「それで、話を戻しますけど、『幾何の魔女』と『算術の魔女』は?」
「『幾何の魔女』は高校の数学教師で、『算術の魔女』は大学で数学を教えてる」
「……高校教師なんですか?」
「そこまで珍しくはないだろ? アヤ姉も世界史の教師だ。学歴で魔女になれるわけじゃないけど、上級称号持ちは高学歴が増える。ていうか『七大魔女』は、空席を除く六人中五人が、大学院卒」
いんそつ。
ミサがオウム返しに繰り返すと、そう、とリオがまた「いんそつ」と言う。
「……リオさんの最終学歴って」
「学部卒」
「ちなみに『音楽の魔女』のハードルを爆上げした方のは?」
「某有名国立大の院卒」
ぼうゆうめいこくりつだいのいんそつ。
「そんな世界で勝負する、ってことですか? すっご!!」
「壁の高さを見誤ってた自覚はある……自覚はある、というか自覚した」
だからそんな尊敬のまなざしを向けないで欲しい、いたたまれない、とリオは言外で付け加えたのだが、受信能力に比べて送信能力が低いのが「魔女」なのである。
「『音楽の魔女』って、いまいちイメージわかなかったんですけど、そんなクラスと張り合うレベルの上級称号だったんですね!」
「魔女の階級は学歴で決まるものじゃない、って、もう一度言っておくよ?」
能力に応じた学究意欲を満たそうとしたら、院卒になったのだ。多分。
魔術師には修士以上の学位が求められるけれども、魔女には学歴は関係ないのだ。もっとも「水晶の魔女」一門は、各分野の学問的解説を成立させるために、できれば高卒を推奨する。基礎教養的な意味で、高卒ぐらいの学力は欲しい。少なくとも高校在学。
なお、六人いる「七大魔女」の中で、唯一の学部卒がサヤである。天文の魔女という称号を「大それた」ものと言い、日頃は「まだ『九術』だから」と言うのは、ひょっとすると学歴が関係しているのかもしれない。もっとも、学歴は関係なくとも、色々と異例の襲名であったことは事実である。
「ところで、前から疑問だったんですけど、ついでに」
「何かな?」
「どうして『音楽の魔女』が、理系分類なんです?」
音楽学は、文学部に分類されることもある。
「そりゃ元々は、音階と和音が『比』の計算から生まれたからさ」
きょろきょろと店内を見渡したリオは、手近に適当な道具がないと知って、ウーム、とひとつ唸った。それから、えへんと咳払いをして、アー、と声を伸ばす。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド
「これが、僕らが日常で馴染んでいる『オクターヴ』だね」
「はい。ってか、音すっごい正確ですね」
「これが覚束ない身に『音楽の魔女』をそそのかすほど、サヤ姉もアヤ姉もばかじゃないさ」
そう言いながら、リオはミサの筆箱からボールペンを取り出し、手際よく五本の線を描いた。見慣れたオタマジャクシを泳がせる。ドレミファソラシド。
「きわめて簡単に言うと、これが『平均律』なんだよ。もうちょっと真面目に言うと『十二平均律』だね。1オクターヴを12等分して定めた。一つ一つの音の差を『平均』した、と思えば分かりやすいかな」
ほうほう、と頷いたミサは、リオに出された課題が「バッハ」の作品だったことを思い出す。
「……バッハ以前にはなかった、んですか?」
いやいや、とリオは首を左右に振った。
「平均律の考案者はバッハじゃないよ。というか、そもそもオクターヴを等分するという発想自体は、世界中の音楽に存在する。僕にバッハの『平均律クラヴィーア』が課されてるのは、すべての長調と短調を揃えている点が、便利だと判断されたからだろうね」
「へへえ……ところで、今更なんですけど、オクターヴって何なんでしょうかね。なんで『一つ上の同じ音』とか『一つ下の同じ音』とか感じるんでしょう?」
「周波数の関係だね」
アー、アー。
低いラの音と、高いラの音。
「『ラ』の音を440hzってことにして、計算してみよう。現実にはズレもあるけど、わかりやすい数値で」
アー、と、綺麗な声で、ブレのない音を響かせる。
「1オクターヴ上の『ラ』は880Hzで、逆に1オクターヴ下の『ラ』は、220Hz……2オクターヴ上の『ラ』は1760Hzになる」
「あっ、倍々になってる……」
「こういうふうに、周波数が2:1になる音程を『オクターヴ』と呼ぶ」
で、ピアノの鍵盤ってこうなってるよね。
そう言いながら、リオは紙に今度は鍵盤の絵を描く。
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ……音が7つで、8つめで『一つ上』に行くから『オクト』つまり『8』って意味を含んで『オクターヴ』なのさ」
「7じゃないんですね」
「インドでは『サプタカ』つまり『7』って言うそうだ。ソーマに聞いた」
「へぇ」
なんとなく『7』を意味する『セプト』に似ているな、とミサは思った。それは大正解で、インドの古来の言語であるサンスクリット語は、ヨーロッパ系諸語と遠い親戚関係である「印欧語族」を形成する。
リオは描いた鍵盤の数を、順番に数える。
「これに黒鍵の音を合わせると……ドのシャープ、レのシャープ、ファ、ソ、ラ。あわせて12だ。つまり1オクターヴ12分割で『十二平均律』になる」
なんて美しいんだろう、とミサは感動した。
ピアノって、ただの白黒じゃなかったんだ。周波数の叡智が可視化されていたのか!
「ちなみに十二平均律を理論化したのは、フランスの神学者で数学者でもあった、マラン・メルセンヌって人だ。デカルトの先輩でガリレオの応援者で、敬虔なカトリック」
「待って、情報過多です!」
ガリレオって「それでも地球は回っている」の人では?
敬虔なカトリックだというメルセンヌが、ガリレオを応援する??
「……どういうことなんです?」
「科学と宗教は、数学によって統合される、という発想の人だった……とでもまとめておこうか。まず疑いの余地なく神は存在して、世界は美しい秩序に満ちていて、それは数学で解析される、ということだ。美しい音楽もまた、何故美しいと感じるのか、数学的に解析できる、とな」
ていうか異端審問の話が有名過ぎるだけで、ガリレオ自身も敬虔なカトリックだよ。
「彼が地動説を唱えたのは、教会を批判するためじゃなくて、神の創造した天地は、もっと美しい式で分析されるはずだ、という発想からだからね」
「意外です」
「科学と宗教を対立事項として認識するのは、近代思想のつまずきさ……そもそも、偉大な宗教者はすぐれた科学者でもあったんだよ、昔は。君の嫌いな古典で『物忌』とか『方違え』ってのが出てくるよね」
うん、読んだ。読んだ瞬間に「意味ワカンネ」と思った。
「あれだって、実は高度な天文学と数学がないと、実施できないんだよ」
「えっ? マジですか?」
「だって『この時間はこの星がこの方角に出ていて』不吉とか、ちゃんと観測して、ちゃんと計算していないと言えないことだろ?」
言われてみれば。
「計算結果を吉凶とかと結びつける……サヤ姉の『占星術』と同じさ。ただ複雑で分かりにくい。並の人間が本当かどうかを計算するのが難しかったから、光源氏とかが『方違えで……』とか言って女の家に上がり込む口実とかにしちゃえたんだろ。そのせいで胡散臭さが増すわけだ」
「あっ、なるほど」
胡散臭ぇ! と思ったのは、むしろそこだったのか。
「ちなみにメルセンヌは『魔術』とかは大嫌いで、思想的テロリズムだと思ってた」
「その『魔術』の定義にもよりますが……」
「僕らが現在使っている分類からすれば『呪術』だけど、まぁかなり『魔術』寄りだと思って良いよ。つまり『囁く』と考えれば、思想的テロリズムというのは、あながち間違ってないかもね……ところで、僕らの『魔女』の定義、思い出してみて?」
ミサは少し首を傾げ、しかしもう月単位で弟子をしているので、さらさらと答えた。
「世界の『声』を『受信』する存在、ですよね?」
「実は『音楽の魔女』の襲名が難しい理由は、もう一つあるんだ」
アー、アアーアー、アアー、アー
伸びやかなテノールで、美しいメロディが歌われる。
「……質問だけど、この『歌う』とか、あるいは音楽にはつきものの『奏でる』っていうのは、『受信』だと思う?」
おお、と拍手をする間もなく、投げられた問いに「アッ」と気づく。
「『送信』ですね……」
「そう。『音楽の魔女』は、魔法だけじゃなくて、魔術の要素も含んじゃうんだよ。そんでねぇ、魔法って難しいんだけど、コツを掴むと魔術って簡単でねぇ……『向こう側』に行っちゃうんだよね」
なんということだ。
「まさか、リオさんも『向こう側』に……」
「いや僕に限ってそれはない。僕はたしかに『鉱脈探知術』で『送信』もするけど、大地からの『返信』を『受信』することで成立する術だからね。僕は『魔女』ってことに誇りを持ってる」
だから姉さんたちも、僕に「音楽の魔女」をそそのかしたんだろうさ。
「ところで、音階の話に戻るんだけど、実に魔術しいことに、西洋で音階を最初に発見したとされるのは、かのピタゴラスなんだよ」
「三平方の定理の?」
「うん。彼は『世界は数でできている』という宗教を作るんだけど、つまり、数学を使って世界を解析しようとしたわけだね」
「あれ? それじゃ、メルセンヌやガリレオと、基本は変わらない?」
カトリックではないけれども。
うん、とリオは頷いた。
「見方によってはそうかもね。んで、伝説ではあるけど、鍛冶屋が振り下ろすハンマーの音が、ときどき美しく調和していることから、音階と整数比を研究してみたそうだ。これで出来た音律が『ピタゴラス音律』で、ルネサンス期までは標準の音律だったみたいだね」
ルネサンス期に、ピタゴラス音律ではうまく和音が作れない音が多用されるようになり、中全音律という音律が使われるようになる。
「ちなみにピタゴラスは、1オクターヴを2:1の比率だと定めている」
「あっ、現代と一緒……ということは、やっぱりこれを『上の音』とか『下の音』って、昔の人も感じたんですね。それにしても、なんで2:1?」
「『倍音』ってやつの一種だね。理論の発見者はメルセンヌだけど、感覚的にはみんな分かってた感じだね。基本となる音の周期に整数倍で一致する」
リオは、始点と終点が一致する、長さの違う波の図を描く。
「これとこれが、1オクターヴ差になる。ここで一致するというのが、なんかツボなんだろう。人類の聴覚的に」
「おおお……なるほど……」
しかし、倍々算ということは、かなり複雑な計算になるのでは?
ミサの疑問に、そのとおり、とリオは頷いた。
「弦の振動と周波数については、三角関数を使って解析される」
なんと! やって何の意味があるの、とよく言われる三角関数には、美しい音楽を導くための理論が含まれていたのか!
「倍音を算出するためのフーリエ級数を、オイラーの公式を使って表すと、こうなる」
Σを含む複雑な数式が書かれ、まだ高校一年生のミサの頭はオーバーヒートした。
なんということだ。これは数学ではないか。
「『音楽の魔女』が、間違いなく『理系魔女』に分類される理由が、ようやく納得できました」
こんな計算を理解できなければならないのなら、これは「文系」ではない。
「天文の魔女」は、惑星の運行とかの計算があるから「理系」分類なのだろうな、と思っていたが、まさか音楽にこんな数学が含まれていたなんて。
「私、リオさんが『音楽の魔女』襲名する日を、楽しみにしてます!」
「あんまり期待はしないでくれよ……だって歌でも、エリカ姉に匹敵はすることが求められちゃってるんだからね、今のご時世じゃ」
あの人「工芸の魔女」の村で「オバケ様」って呼ばれてるそうだけど、そりゃあオバケだろうさ。オバケって言われるしかないだろうさ!
「僕の取り得は音の送受信だけだってのに、僕が数式を書いてせっせと理論化しないとできないことを、あの人はヤマ勘でやっちゃうんだよ」
「いや、それは技術継承的に危険でしょう」
珍しく、ミサが首を振った。
「理論化されるからこそ、技術の継承が容易になるんですよ。そんな職人芸じゃ、後を継ぐ人が出ません。リオさんの理論化は、すごく大事だと私は思います」
「なるほど……ちょっと自分の努力の存在意義に、自信が出たよ」
一生懸命計算しても、サクッと答えを出されて、それなりに凹んでいたのだ。
フォン・ノイマンと計算勝負させられて負けたコンピュータぐらいに。
いや、コンピュータに心があるとすればの擬人化だが。
「大いに自信を持ってください!」
満面の笑顔で、ミサはそう言ってくれる。
ああ、よし、頑張ろう、とリオは改めて思った。
「そんじゃあ、ちょっと休憩で、一緒にバッハでも聴かないかい? 新しいお茶も淹れよう。飲みたいものがあるかな? あと、曲のリクエストはあるかい?」
「カモミールティーが飲みたいです。曲は……なんかバッハの偉大さを感じる感じで」
「お茶はいいけど、曲の方は無茶ぶりだね。まぁ、そういうチャレンジ、僕は結構好きだけど。でも思いついた『蟹のカノン』は、楽譜を確認しながらでないと、すごさがイマイチ分からないと思うから、単純に音の調和がすっごい綺麗、っていうので選ぼう」
よいせ、とカウンターの陰から、バッハのCD集を引っ張り出す。
「『2つのヴァイオリンのための協奏曲』だ。音で織物を編み上げる、と表現された調和を感じようじゃないか。いやぁ、初めて聴いた時には感動したよ。音っていうのは、こんなにも美しく絡み合うんだ、って」
「へへぇ!」
リオはCDをセットすると、プレーヤーの「再生」ボタンを押した。
ミサの原稿用紙は、もちろん、一文字も埋まっていないままである。
コロナウィルスが大変なことになって、大変なことになって、大変ですね(語彙力は消毒されました)
外からおうちに帰ったら、うがい手洗い気を付けて! って、インフル対策と同じやんけ。吾輩はガタガタ言わぬぞ。ただ、COVID-19には、タミフルもリレンザもゾフルーザもないんだが。
そんなこんなで全国が大混乱ですけれども、まぁ、やれることを粛々とやるだけなのです。そして、こういう時だからこそ、やれるやりたいことはやるのです。
音楽学、難しい……難しいよおぉぉ!
私は作曲もやりますが、だいたいにおいてヤマ勘で和音と旋律を組んでいくので、こういうガチ理論をかじると「すげぇ! 音楽とは叡智の結晶ではないか!!」という思いを新たにしますね。今回は平均律への批判とか、純正律とかの話、まったく盛り込めませんでした。まぁいいか。
マックス・ヴェーバーが平均律を批判してたと知って、ビックリ。