第278話 『夜の声』
約1カ月半ぶりの更新です。
相変わらず1万字越えですので、お時間ある時によろしくお願いいたします。
元来た道を引き返し、二つ目の橋に来たところを川に沿って右に曲がる。
教えてもらったポイントによると、この川沿いに礼拝堂があることになっている。
今更ながらに気づいたが、この北側の地区の家並みや石畳は、当初来た時の南門側に比べて庶民的というか古い家が多い。どうやら旧市街のようだ。
仄暗くなっていく水面を右に見ながらそっと奴にテレパシーで訊いてみた。
『(ヴァリアス、その礼拝堂にシスターはいるかな? もちろん今現在という意味だけど)』
自分の目で確かめろと言われるか、あまり期待はしなかったが、すんなり返事が返って来た。
『(ああ、1人いるぞ)』
そうか、良かった。これでなんとか無駄足にならずに済みそうだ。
そうしてどんな女性なんだろ。
プレイボーイな父さんが女として見ている、俺の母親以外の女性――ちょっと複雑な気持ちと同時に興味も湧いて来る。
今度は違う意味でドキドキしながら礼拝堂を目指すことになった。
「そうだ、もしかして礼拝堂に泊まれるってことないですか」
ふと思いついた。
同じ教派の信徒を教会に泊めるのは珍しくないし、先生は司祭なのだから向こうも無下にしないのじゃないか。
「う~ん、まず礼拝堂自体に泊まることは不敬だが、他に部屋があればだなあ。
ただ、シスターのみだとしたら、男3人が女人のとこに泊まるわけにもいくまい」
先生が硬そうな赤鬚を摩りながら答えた。
「お前は口を開くと今夜寝るところの心配ばかりだな」
ヴァリアスが少し呆れるように言った。
「当たり前だろ。寝るところの確保って大事じゃないか。本当は一度アグロスに帰りたいとこだけど、いつあんたが気紛れにいなくなるか分からないし」
悔しいがこいつがいないとアグロスまですぐに帰れない。
それに対して奴はニヤリと笑うだけで返事はしなかった。
おい、やっぱりいなくなるつもりか?
「兄ちゃんはどうか分からんが、おれは別にどこでも寝れるよ。兄ちゃんなら寒さぐらい防げるんだろ? なんならあそこなんかいいんじゃないのか」
冗談か本気か先生は、先の十字路の真ん中にぽつんと立っている小さな六角形の建物を指さした。
屋根はあるがドアも窓も壁すらない、公園の休息所のような東屋だ。
そんなホームレスみたいな真似はさせたくない。
「いやいや、もしそんなことになったら、俺が責任を持って隣り町まで先生を運びますよ。
この町以外なら夜でも宿付きの居酒屋ぐらいやってるでしょうから。
もしこいつがいなくても何回か何十回かに分けて転移するか、それともスカイバットのタンデム飛行で連れてけますから任せてください」
先生の眉が一気に八の字になった。
「いや、どっちも吐きそうな気がするから、おれは橋の下でいいよ」
隣りで奴がカッカッカッと大声で笑う。
……頼りになるよう本当に強くなりたい……。
右手に短い橋を3つ通り過ぎ、そろそろ礼拝堂が見えて来てもいいだろうと思った頃、水の流れる音の中に定期的なリズムを作る音が微かに混じって来た。
どうも船着き小屋のように、川に張り出た2階建ての建物の方から聞こえてくるようだ。
近づいていくと、その川側の壁にはゆっくりと回転する大きな車輪があった。水車だ。
そうして屋根の上から、屋根付きの煙突みたいな小さな鐘楼が突き出ている。
どうやらここがその礼拝堂のようだ。
こういう設備と兼用した儀礼施設を少なくない。
ある地方では大きな風車をつけた『風』の教会や、遠くに光を届ける灯台が海辺の村の『光』の教会になったりしていたところもあった。
また水自体を浄化するために設置された水車もあった。
ドアの横に垂れた紐をゆっくり3回引くと、少し間を置いて中から閂を外す音がした。
「遅くにすいません、こちらは合同礼拝堂ですか?」
ドアが少しだけ開いて中年男の顔が半分覗いた。
「どちらさんで? 見かけん顔ですが、中央区の人? それとも観光で?」
「わたし達はマルゴー地方から来ました。こちらに同派のシスターがいると聞いて参ったのですが、おられますか?」
横から先生が首から下げた水のシンボルを見せながら尋ねる。
「ああ、そりゃまた遠いところからお疲れさんです。ちょっとお待ちを――あ、シスター、お客さんっす!」
男が後ろに振り返ると同時に、左手奥の通路から白いモブキャプを被った小柄な人物が姿を見せた。
え――?
俺の思考は一瞬停止した。
こちらにやって来たのは小柄なステラおばさんだったからだ。
えっ、この人が父さんが美人だってニヤニヤしてた人??
いや、このおばちゃんが別に不美人だとは言わない。きっと若い頃は可愛らしい顔をしていたのだと思う。今は怪訝そうな顔をしているが。
でももう少し、お若い人かと……、いや、父さんの歳を考えたら若すぎるのか。
そんなふうに独り混乱した俺の横で先生があらためて挨拶をする。
「それはそれは遥々ようこそお出で下さいました。わたしがここの主任司祭を務めます、ヒルダと申します。
主任と言ってもわたしとこの下男のヤンニの2人だけなのですけどね」
ステラおばちゃんが決定的な事をサラッと言った。
もしかして父さんに揶揄われてたのか、俺?
いや、やはり神様だから、多様性というか柔軟というか、きっと許容範囲が広いんだ。
容姿や年齢だけでなく、おそらく魂レベルで見ているのかもしれない。多分……。
「まあ外は寒いですし、中にお入りください。」
その時カンテラの明かりが闇から後ろにいた奴の姿を浮かび上がらせた。
一瞬、シスターと下男の顔が引き攣る。
「すいません、こいつは見かけ通りな奴ですが、神様の前では大人しくしてますから安心してください」
ちょっとバグっていた頭のせいで、俺はまた変なフォローをしてしまった。
本当に冗談のつもりではなかったのだが。
「なんでいつも素直に仲間だって言えねえんだよっ!?」
いつものごとく奴も吠える。
「はひっ、やっ、こりゃ確かに人間さまだ。良かった、悪霊じゃねえや!」
下男がおっかなびっくりしながらも、どこかホッとした顔をした。
「こら、失礼だよ! 当たりまえじゃないか。街中なんだから入って来れるわけないだろ」
シスターが慌てて男を叱った。
「すいません、ちょっとこの男は臆病なもので……。ささっ、ともかく中にどうぞ」
今まで凶賊に見られることはあったが、とうとう悪霊やグールになったか。まあ確かにそっち寄りなのだが。
ヴァリアスは面白くなさそうにしかめっ面をしていたが、俺と先生は笑いそうになるのを見られないようにお辞儀をする振りをして下を向いた。
中に入ると空気が変わったように感じた。
天井はマンションで言うと3階建て弱くらいの高さか。
簡素だが味わいのある、車輪型のシャンデリアがぶら下がっている。
今は灯っていないので、下男がカンテラから壁の蝋燭に火を点けようとしたので、俺が代わりに光玉を打ち上げた。
狭いながら厳かな礼拝堂の内部が照らし出された。
両側に三人掛けの木製の長椅子が6脚ずつ並び、右の壁に窓が3つ、左の壁にはステンドガラス窓のようにタイルアートの神画が飾られている。
突き当りの祭壇の上部には、天井すれすれに水の女神像がこちらを見下ろしていた。
祭壇には蝋燭立てと花瓶、陶器製の杯があり、そのまわりに数々の他の神様達の像が所狭しと置かれている。
それらの像は大きさや素材もバラバラで統一性がなかった。
あとで聞いたところによると、本来は『水』の教会なのだが、この町では少数派のそれぞれの信徒たちが像を持ち込んで、今や合同礼拝所としての親しまれるようになったのだとか。
ラーケル村の教会と同じだな。
先程の豪奢で立派な教会は観光するにはいいけど、気楽にお詣りするなら俺はこんな庶民的な施設の方がいいなあと思った。
「これ使っていいか」
女神像の前で先生と一礼しようとすると、ヴァリアスがボトルを片手に手前に置いてあった杯を取った。
中にはミントのような葉と水が入っている。
「あ、はいっ、空けてきまっす」
杯を受け取ると下男ヤンニはすぐに横のドアから奥に引っ込んでいった。
「本当に御神酒だったんだ」
俺はてっきり奴が飲むために買ったと思っていた。ちょっと感心したというか、意外だった。
「だからそう言ったろ。何だと思ってたんだ?」
奴がまた不満そうに眉をしかめた。
ふと、男が開け放していったドアの隙間から数人の話声が洩れ聞こえてきた。
失礼ながらちょっとだけ探知で覗いてみると、それほど広くない食堂らしき部屋にぎっしりと、10人以上の老若男女が暖炉やテーブルを囲んでいた。
テーブルにはちょうど夕餉が終わった後らしく、まだ片付けていない皿や鍋が残っている。
さっきシスターはここは下男と2人だけだと言っていたし、みな見かけからして一般市民のようだ。この時間に何かの集会なのだろうか。
そこにヤンニが空になった杯を持って戻って来た。その杯にヴァリアスが注いだのはダークラムだった。
「え、てっきり女神様には蜂蜜酒かと」
「女神がみな甘ったるい酒が好きとは限らないだろ」
そう言いながらテレパシーで別に伝えてきた。
『(最近のアネシアス様の好みはダークラムだ)』
アルコール度数40をそのままストレートか。なかなかイケる口だな女神様。
いや、これも勝手な印象なのかな。
杯を捧げてあらためて俺たちは祭壇に向かって頭を下げた。
すると急に頭の中にある映像が現れた。
それは明るい陽射しの中、キラキラした水面の光が川辺の建物に反射して、掬いあげる水ごと水車を輝かせている情景だった。
街路樹も青々と豊かな枝葉を伸ばし、木漏れ日を揺らしている。
道を往く人達の服装も厚着ではなく、おそらく春から初夏にかけての頃なのだろう。
その水車小屋の前で一台の馬車が止まった。
降りてきたのは1人の若い娘で、御者に手伝ってもらいながら荷台から大きなトランクを降ろす。
白いベールからもれる柔らかそうな亜麻色の髪、黒目がちな深い緑色の大きな瞳は希望に輝いていて、きりっと結んだ小さな口元には意欲に満ちているようだった。
彼女はそのまま重そうなトランクをしっかり持ちながら、教会の扉を開けた。
ああ、これは過去の映像か。
シスター・ヒルダがここに着任して来た時の記憶なんだろう。
何十年か前のシスターは小柄で華奢ながら凛として、どこかオードリー・ヘップバーンを思わせる可憐さがあった。
なるほど綺麗な人だ。
……アレ、もしかして父さんの記憶か、今のは。
もしかしてその、過去の記憶のまま、父さんの中では更新されてないとか……??
……う~ん……、神様の感覚は俺には分からない。もうこの事を考えるの止めておこう。
長椅子を勧められ腰を落ち着けたところで、先生が話を切り出した。
「ところで早速で恐縮ですが、聖水を少しでも分けて頂けないでしょうか? 実は先程、墓地にて使ってしまったばかりで心許ないのです」
ざっと簡単にだが、俺たちが例の悪霊退治の件でやって来た旨を話した。
それを聞いたシスターは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「申し訳ありません。お譲りしたいのですが、今この教会には一滴もないのです。
ちょうど納てしまったばかりですので……」
今更だが、ここで言われている聖水は、よく日曜礼拝などで手軽に手や口を清める簡易なものではない。
宗派や宗旨(ここでは同じ多神教の中のそれぞれ崇める神の違いを指す)により多少の違いはあるが、どれも手間と祈りが重要となる。
例えばまず成聖するための水は、決まった時間に汲んだ清らかな湧き水を使う。そして聖具やハーブなどを定められた手法によってひたしながら、聖職者が何時間または何日間かけて祈りを捧げ、聖なる力を込めるのである。
逆にそれぐらいしないと悪魔や本当の穢れは祓えないのだ。
その量産することが難しい聖水はこの非常時、かの『光』の大教会へ提供されていた。
何しろ毎日湯水のごとく、市壁まわりの浄化に使っているのだから自分たちが作り出すだけでは間に合わないのだろう。
そういえば悪霊退治の際に命を落としたのも、かの大聖堂の司祭や助祭だったはず。
搾取するだけで何もしてくれない名ばかりの領主や貴族とは違うようだ。
あの人を見下すような雰囲気は気に入らなかったが、町の為にまさに命を張って頑張っているのは称賛出来ると思った。
「なるほど、それは当然ですな。こちらこそ不躾なことを言ってすみませんでした」
先生はさほど残念そうでなく、少なくとも相手に罪悪感を与えないように顔には出さなかった。
それから例の慰霊碑の歴史などをシスターに尋ねた。
申し訳ないがそこらへんのとこは、何をポイントに探ればいいのか分からないので先生にお任せだ。
やはりまたあの慰霊碑の贄にされた人達の事を詳しく訊いている。
俺にはよく分からないが、悪霊を祓うにはその悪霊自身の名前とかが必要なのか。
そういえば悪魔を祓う為にその名を見破らなければならない、そんな映画を見た事がある。
冥府まで有無を言わせず力尽くでぶっ飛ばしてしまう、ヴァリアスのようなパワーでもない限り、確実に追い払うには真名が必要という事なのか。
けれどシスターの口からも今まで知った通りの情報しか得られなかった。
シスター自身が元々ここの生まれではないらしく、記録に残っている歴史しか知らないようだった。
ただ下男ヤンニが、シスターの横で手持ち無沙汰に立っていたのだが、先生が『罪人』という言葉を出した時にふっと口を開きかけた。
何か言いかけた?
先生はシスターと向き合っているので気がつかなかったようだが、俺にはそんな風に見えた。
「アネシアス様に使えるわたしがこのような事を言うのは、とても心苦しいのですが、今は大雨が降らないで欲しいと願っている状況です」
シスターが本当に申し訳なさそうに目を伏せた。
悪霊が這い出て来てから2ヶ月後、またこの土地に大雨が3日間降り注いだ。
通常『水』の教えによると、雨は天からの聖水、地上の穢れを洗い落とす清めの水とされている。
もちろん自然のこと、川の氾濫などいつも恵みを与えてくれるだけとは限らず、今回もその宜しくない方のパターンとなった。
豪雨は穢れた墓地の土を混ぜ返し、墓地の外まで押し流した。
それに乗って本体ではないが、悪霊たちの一部のような残穢が町の近くまで流れてきてしまった。
それを浄化するのに、またギルドや教会が粉骨砕身した。
あの墓地のまわりの土質が変わってしまったのは、この穢れのせいらしい。
市壁のまわりを毎日浄化するようになったのもこの頃からだそうだ。
話が一段落したところで、俺はヤンニに話しかけようとした。
ところが隣りにいたはずのウチの怒涛の退魔師が、いつの間にか祭壇の前で何事か始めていた。
こちらに背を向けてチェスの駒のように、しきりに神様たちの像を動かしている。
シスターと傍に立っている下男、奴の奇行を知っている先生もさすがに目をしばつかせた。
「こらぁっ! ヴァリアス、何やってんだよ」
「なにって見りゃわかるだろ? バラバラになってるから整えてるんだよ」
全く悪びれることもなく、奴が当たり前のように答える。
あれか、あの神々の相関図とかいう ―― って、他所でやるなっ!
「ダメだろ、勝手にやっちゃ! ここは俺達の村じゃないんだぞ。
とにかく大人しくしててくれよ」
不満げな奴を引っ張って祭壇から離した。
その時チラッと、さっきまで無かったはずの小袋が像の間にあるのが見えた。さりげなく献金していく気か。
しかしそれを差し引いてもヤバさが勝つ。
俺がシスター達にペコペコ謝っているのに、奴はまるで他人事のようにしれっと話題を変えた。
「お前、イケる口だろ? 御神酒の残りでよければこれやるよ」
そう言って空中からダークラムと蜂蜜酒の瓶を計4本出すと、立っているヤンニに押し付けた。
「へっ、こりゃまた豪勢な。いいんすかい? ありがとうっす!」
下男はシスターにまたはしたないと怒られながらも、いそいそと奥へ引っ込んでいった。
続いて廊下の奥から「おぉ~」という歓喜の声が上がる。
「失礼ですが、他に誰かいるんですか?」
今のは結構大きい声だったので、尋ねるのは自然だろう。シスターも頷いた。
「ええ、実は最近夜だけご近所の人達が泊まりに来るのです。例の声がするようになって、みんな不安なもので」
「声とは?」
「ええ……、ギルドから聞いてませんでしたか?
実は特に風の強い夜に声が聞こえてくるのですよ。バンシーの声が」
バンシーか。
シスターの話によると、ここ3週間ほど前から時折、夜半に声が聞こえてくるようになったという。
それはこの世の者ならざる恐ろしい声で、大体終刻(9時)頃から夜明けまで続くらしい。最近は始まるのが段々と早くなり、日没後から聞こえ始めて来たりするそうだ。
確かにこの北のエリアは、町の中で最も墓地寄りだ。
そうしてここよりも市壁近くの家で、窓を閉めても漏れ聞こえてくるその声に悩まされた住民が、夜だけ教会に避難して来るらしい。特に独り者や老人夫婦などが。
奥の人達は集会なんかじゃなかった。そうか、だから店も早仕舞いしていたのか。
「なるほど、じゃあ今夜もその声が聞こえそうなんですな」と先生が興味深そうに頷く。
「だけどそんな話、オットー所長から聞いてないなあ……」
俺はちょっと納得いかなかった。
後半はビビッてあまり聞きたくなかったけど、一応内容は覚えてるぞ。
「それはお前が話を中断させたからだろ。作戦会議するとか言って最後まで聞かなかったじゃねえか」と奴が片眉を上げた。
あ、あの時2度目のタイムをした時か。
俺のせいじゃん!
だが自己嫌悪に陥っている暇もなく、先生がすくっと立ち上がった。
「よし、兄ちゃん、旦那、確かめに行こう」
「え、これから?! もう夜ですよ、危険ですよ、先生。聖水も無いのに」
なんで相手が一番有利になる時間帯にわざわざ出向くのか。俺はそういった行動がどんな事態を招くのか、これまでに幾つもの例を知っている。もちろん映画やドラマでの話だが。
「だって夜しか聞こえんのだろ。それじゃ今行くしかないだろう。
もちろん墓地まで行こうなんて言わんよ。町の中で聞こえるようだからな」
「そうだ、オヤジの言う通りだぞ。今しかねえだろ」
いつでもGOな奴が横で嬉しそうにけしかける。
……今日はもう終わりにしたかったが、直接請け負った俺より先生の方がやる気になってる。
これじゃ立つ瀬がない。俺も頑張らねば……。
*
教会を出ると外はすっかり闇に沈んでいた。遠くの街灯が墨のような水面に揺れる光を流している。あとはポツンポツンと、家々のドアに付いている蛍火のような微かな光があるだけだ。
よくよく見ると、それは『光』のシンボルを模った小さな光石だった。
熱心な信者の家なのか、ドアどころかそれぞれの窓の上にも付けている家もあった。本当に光派が多いところなんだな。
「アレは魔除けだ」
俺の視線から考えを読んだらしいヴァリアスが言った。
「ドアや、特に窓は侵入されやすい場所だからだ。お前んとこでも窓にガーリックを置いたりするだろ」
「いやそれ日本の習慣じゃないけどな。でもそうか、魔除けの意味で付けているのか」
しかし街中なら悪霊は入って来れないはずなのに、ドアどころかこんなに付けておくなんて、よっぽど恐れているんだな。
光石で出来ているから、決して安いものじゃないのに。
まあ近くにあんな怖い場所があったら、俺も手に入るだけの御守りや御札を家中に貼りまくる自信はあるけどな。
そこでふと、風が音を立てているのにあらためて気がついた。
それは枝や吊り看板を揺らし、各家と家の狭い隙間を甲高い音を鳴らしながら通り抜けていく。
地球での泣き女の正体は、樹々を揺らす強風のせいだという説があるが、ここではそのまんま、ド直球だ。
そういえば以前、絵里子さんの危機を予知夢で見た事があるが、あれも泣き女だった。(第91話『新しい恋の予感 と 死の気配 その1』参照)
俺はふとあの夢のように、血だらけの女が嗚咽を漏らしながらグルグルと市壁のまわりを走り回っている姿を想像して寒気を感じた。
あの時はナジャ様がコントロールしたとかで不思議と怖さを感じなかったが、今なら俺が泣きそうだ。
しかしかのバンシーは墓地からは出てこれないだろうから、少なくとも壁一枚向こう側にいるわけではない。
それにここで言うバンシーは、おそらく俺が夢で見た泣き女とは違う種類だろうと考えられた。
ここに来てから、バンシーというのは2種類いるというのを知った。
1つは先に言った、俺が夢で遭遇した、近いうちに人が亡くなることを泣き声で知らせる妖精。
こちらは死を知らせるという陰なイメージがあるが、バンシー自身が死神なのではなく、逆にまわりの人達にその時の心構えを促すという、優しい意味合いもある気がする。
だがもう1つのバンシーは――
最後の橋を渡って、大通りに出たところで更に風音が強くなった。
北風なので北の方角から吹いて来るのは当たり前だが、明らかに音が激しくなって来ている。
「あ~、思ったより早く戻って来たな」
どこか状況を楽しんでいるみたいに奴が言った。
それは切れ切れに低く高く聞こえてきた。
ビュウゥゥゥ 【……、……! 】 ウゥゥゥゥゥ― ピュウルルルゥゥゥゥゥ 【 ッテ……!! …ッ ――セぇ! 】
ピュウゥ ビュウビュウゥゥゥゥ… 【 ュル・・ナィ ・・サナィィ……!! 】
【 ・ッテ ヤルゥ! ノ・ッテ・ルゥ! ウラァ・・ヤ・ゥゥ……!! 】 ピュウゥゥゥゥ――
俺は思わず立ち止まった。先生もフードを脱ぐと耳を澄ます。
するとわざと聞かせるかのように、一陣の強い風が声と共に俺達の間を吹き抜けた。
【 ――呪ッテヤル! 呪ッテヤルッ! 呪ッテヤルゥゥゥ~ッ! ゼッタイッ 絶対ニィ 許サァナイイィィィ!! 】
氷のブレスのように真底冷たく、そして鋭利な刃物が身体を貫いていくような悪寒が走っていく。
やっぱり悪霊だ。悪霊のバンシーだ!
人の死を予告することはしないが、その声は泣き叫ぶだけでなく怒号の塊り。
ヒステリックに喚き散らす声のみの幽霊だが、声だけと侮ってはいけない。
それはただの怒鳴り声ではなく、恨みつらみにまみれた激しい絶叫なのだ。
ある地方では、恋の三角関係に破れ自シした女が、相手の結婚式会場に亡霊となって呪いの言葉を吐き続けたという話がある。
新郎新婦やその家族は祝いの門出を穢されたどころか、一生消えない怨嗟を掛けられ続けるという不安を背負う事になった。
迷惑系とかお騒がせどころの話でなく、まさに呪いの呪文なのだ。
俺も知識として知ってはいたがこれほどとは……。また胆が冷え上がった。
またヘタレだとか弱虫とか思われるだろうが、一度聴いてみるといい。
今まで映画やドラマで聞いた恨み声が、いかに作り物だったかがわかるだろう。
地の底から吐き出される重低音から喉が裂けんばかりの絶叫に変化する男女混合の呪怨の旋律。耳を塞いでも地面から骨伝導のごとく全身に響き渡って来る。
そうして絶対零度の氷のごとき触手で背骨を撫でていくのだ。
ゾッとするのでなく、ぞぉぞぉぞぉぉぉ……、途切れることない戦慄が走り続ける。
まさに声の瘴気だった。
もちろんヴァリアスは、相変わらずコートのポケットに両手を突っ込んだまま、のんびりと墓地の方角を眺めていた。
奴にとってこれくらい、小川のせせらぎにしか感じないのだろう。
そして先生は口をなかば開け眉をひそめていたが、それは慄ている顔ではなく、どこか憂いをおびたように目を細めていた。
なんだ、何か俺とは違う声でも聞こえているのか?
「蒼也、ビビってねえでもっとしっかり聞いてみろ。声だけなら害はねえ」
隣りの魔王が促してくる。
恐怖を感じること自体がもう無害とは言えないのだが、仕方ない……。
もう流氷の海で寒中水泳をする覚悟で、身体の芯から悪寒が止まらないのを無理やり無視して声に意識を集中した。
【 ―― よくも よくも・・・ ぶっ・・してやる! 呪ってやる! 】 【……う、ぅうぇっ・・ うぅぅ・・… 】
【 シねっ! シねっ! シんじまえぇぇ・・ 】 【… なんで なんでぇ・・… 】
【 …・・・ ひどい ひどい あんまりだ ・・・…】 【 皆殺しにしてやるぅ!! 】
【 やめて ぇ …… 】 【 たすけ・て・・・ 】
確かによくよく聞いていると、恐ろしい憤怒の嵐の中に呪い文句とは違った嗚咽や嘆きの声が混じっている。だからこういうのも泣き女と呼ぶのだろうか。
その中に一層、怨みとはまた違った悲愴な痛みをともなう声が混じっていた。
【 …・・・ えせ ・・・… かえせぇ 返せぇぇぇ 子ども 返せぇぇぇ~っ!! 】
ここまで読んで頂きありがとうございます。




