物語が「欠落」から始まるのだとすれば、なろうの王道は後日談だ
ピーン、ポーン、パーン、ポーン!
(注)本エッセイはクスノキと名乗る作者がふと思いついて、感情のままに書きなぐっただけのものです。よって作者の独断と偏見とごめんなさいが多分に含まれておりますので、「んなエッセイ読むかよ!」と思われる方はご注意ください。ごめんなさい。
冒頭に意味不明な冗談をかましましたが、本エッセイでは物語の型、もとい、流れについて書いてみたいと思います。
まず、物語には多くの型があると思います。ここにおける型とは、ラブコメディやハイファンタジーといったジャンルというよりも、物語の主題とか展開に近い所です。わかりにくくてごめんなさい。
物語の展開は星の数ほどあっても、パターン化すれば星の数は星座の数ほど減り、さらに根幹に焦点を当てれば惑星の数ほどに減らせるんじゃないかなと思ったのです。
格好つけて星で例えてみました。ごめんなさい。
閑話休題。作者は物語の型の多くは「欠落」から始まり、その「欠落」を「充実」させることで終わりを迎えるのではないかと思うのです。
じゃ、その「欠落」ってなんなん? という意見もあると思いますが、ここにおける「欠落」とは力や人間関係、願望といったものになります。
いくつか例を挙げてみます。
一つ目はありきたりな冒険譚。王道ファンタジー系RPGをイメージしてみてもいいかもしれません。冒険譚の主人公には前提として旅立つために必要な「勇者になりたい」や「魔王を倒したい」といった願望があります。
ですが願望を抱くということは、その願望が叶えられていない、自らにないという「欠落」があるということになります。
あるいは願望を叶えるための力が「欠落」しています。
主人公たちは自らの「欠落」を「充実」、埋めるために努力し、仲間を探し、願いを叶えます。例え叶えられなかったとしても、旅の中で自らの「欠落」を「充実」させるに足る何かを見つけて終わります。
「欠落」以上のものを手に入れられれば、それは立派なハッピーエンドです。
二つ目は復讐譚。主人公は最初に仲間に裏切られたり、大切な何かを失ったりと、人間関係や心の正気を「欠落」します。そして復讐を果たすことで、自らの心の「欠落」を「充実」させようとするのです。
「欠落」そのものを「充実」させることはできなくとも、主人公の中にある鬱憤や復讐心は「充実」させることができます。
他にも恋愛物語は孤独、独り身という「欠落」を恋愛で「充実」させるのでしょう。
物語の人物は自らの中にある「欠落」を自覚し、成長や他者との出会いを通して「欠落」を「充実」に変えていっているのです。
無論、多くの例外があることは認めます。世界が全滅するようなバッドエンドに「充実」も何もないでしょうし、「出会い」から始まる物語も数多くあります。ごめんなさい。
ですが、作者の語りたいことはこれからでして、物語の多くは「欠落」から始まるとするならば、なろうの王道はどこから始まるのかということでして。
ここでのなろうの王道とはいわゆるチートや転生、転移ものです。主人公が最初期から強力な力をもち、無双する類のお話です。
少なくとも、なろうの王道は欠落から始まっていません。死んで転生することは多くあっても、死とい欠落を充実させることは不可能で、まず最初の死は物語の起点であってなかなか主題足りえませんし。
なろうの王道では、主人公は最初から強大な力をもち、苦労も成長もなく冒険をします。
そこでふと、作者は思ったのです。あれ? これってほとんど後日談じゃね? と。
なんとなくごめんなさい。
物語が欠落を充実させるものだとすれば、なろうの物語はチート能力によって、すでに充実したところから始まります。言ってしまえば、数多の冒険や危機を乗り越えて欠落を充実させ、物語がエンディングを迎えた後の状態からなろうの王道はスタートしているのです。
力を与えられ、「勇者になってほしい」や「魔王を倒してほしい」という目的を与えられ、欠落なしに充実しています。
それってもう、後日談ではないでしょうか。充実した後の物語です。
だからこそ、なろう小説は薄っぺらいと言われるのかもしれません。後日談は本来、何万、何十万字もかけて主人公たちの冒険や成長を描いた後の物語ですから、主人公たちが苦労せずに敵を撃破したとしても、そこに至るまでの経緯がはっきりしているから、違和感はありません。主人公がヒロインといちゃこらしようが、納得させるだけのものがあります。
ですがなろうの王道は後日談の部分だけを切り取ったようなもの。積み重ねのない後日談であれば違和感や薄っぺらさを感じるのもしょうがないことではないかと。
無論これもまた異論はあることは認めます。ごめんなさい。あくまで一意見なので許してください。
物語において、欠落は物語の開始を告げる大切な要素の一つです。だからこそ、欠落なく、ストレスフリーに読めると言われているなろうの王道小説は、本編のない後日談のように、不自然さのあるものに見えるのではないでしょうか?
ところで本文の中で作者は何回ごめんなさいと言ったんでしょうごめんなさい。
感想、意見お待ちしております。