【三題噺】雨戸 山羊 姫
習作
ランダムに検索したみっつのお題より
「肉の中で、なにが好き?」
姫の質問はいつも唐突で、俺はメニューに落としていた目を上げる。
「食べる肉?」
「そうそう。順列をつけるなら」
「そうね。牛…、鶏、豚かな」
「その順?」
「やっぱり牛かなあ。姫は?」
目の前にはごちそうが並んでいる。横浜中華街の、かろうじて夜景が見える外れのホテルの料理店の一室で、これはとてもいい話題のように思えた。
「私は羊。一番は羊ね。次はカエル、その次は犬」
姫はご機嫌だ。「あ」思い出したように続ける。
「馬もあった。馬だわ、馬だ。馬が二番。羊、馬、カエルの肉の順」
「うん」
「馬は美味しいのよ。知ってる? さくらにくっていうの」
「そうだね」
「よく走り込んでる馬も美味しいし、ああ、そうそう、山羊の肉もあった」
「山羊? あれはミルクじゃないの?」
「肉も美味しいのよ。知らないの?」
山羊の肉なんて食べたことがない。少なくとも、この店では。もしかしたら知らずに食べていたかもしれないけど、これは山羊ですなんて店から出された記憶はない。
「そうか、美味しいんだ。食べてみたいな」
「きっとこの店でも出してくれるんじゃない?」
俺が何か応える前に、姫はテーブルの上の呼び鈴を手に取って勢いよく横に振った。キンキンキンと耳障りな音が響く。姫はいつもそうだ。右手に持つものをとてもよく動かす。そんなに振らなくてもいいんじゃないかなと言いたいけれど、姫が楽しそうなので俺はそれを制止しない。
「はい」
個室に顔をのぞかせた従業員の女性に、姫は浮かれた声で「ねえ、山羊の肉なんてできる?」という。従業員の、おそらく中国人の女性は「はい、できますよ」と微笑む。
「ただ、今ちょっと店が混んでて少し時間をいただきますけど」
「全然大丈夫。ゆっくりでかまわないわ。ありがとうね、メニューにないものをお願いしちゃって」
「いいえ。ではお酒をもう少し、お持ちします」
姫と二人で頼んだ赤ワインのボトルは底を尽きそうになっていた。昔から私たち、酒だけには意地汚いわねとまた姫が笑う。「ねえ」俺は見ていたメニューを端に置き、今日姫を呼んだ目的を切りだそうとした。
「ねえ、姫。僕たち、知り合ってどれだけになるかね」
「どうしたのよ、あらたまって。高校のときに考古学の部活で逢ってから…、そうね、もう数えてみたこともないわね」
うすいレモンイエローのワンピースを着て笑う姫は、欲目抜きで出逢った頃より若く、美しく見える。結局俺はこの齢まで、独身を貫いた。学生時代の友達も定年までともに働いた戦友たちも、今では誰もこうして飲んだり、出歩いたりできなくなった。姫を除いては。
「井沢が死んだよ」
目の前で微笑んでいた姫が、はっと息をのんだ。俺の目を見る。
「先週、バッテリーが突然切れてね。奥さんに逢ってきたけど、あと50年は保証期間があるはずだったのにって、機関に訴訟を起こすって言ってた」
話の途中に、中国人の従業員が銀のトレイに赤ワインのボトルを乗せてうやうやしく入ってきた。片手で持ってくる方が安定しているだろうに。しばし、会話が途切れる。従業員が出て行ったタイミングで、待ちきれないように姫が口を開いた。
「それはそうよ、訴えるべきよ。200歳こえて頼れるものは機関しかないのに。だいたい、どうして私に教えてくれなかったの!? 井沢くんは私たちの大事な友達だったのに」
「だって姫、井沢と何年逢ってなかった?」
「………」
姫の目は宙をさ迷った。やがて、
「150年…くらいは逢ってない…かも」
「そうだろ? 俺もだよ」
「でも、だからって」
「密葬にしたらしいよ。俺も葬儀は行ってない。宇宙葬だったって。宇宙にロケットツアーで出て遺骨をばらまくやつ」
「あら………」
手酌で赤ワインを自分のグラスにドボドボ注ぐ姫の右手が一瞬止まった。
「それはいいわねえ。井沢くん、いい奥さんを持ったのね。宇宙葬は予約もとれないし大変なのよ。羨ましいわ」
つぶやいて、一気に飲む。乾杯しなおそうとグラスを持って待っていた俺には気づかなかったようだ。少し笑って、俺もグラスのワインをのどに滑り込ませた。
俺と井沢が、高校の考古学クラブで相川さんを取り合ったのははるか190年前のことだ。
まだ、昭和生まれが日本の中心にいたころだ。
あの頃の相川さん、通称姫は本当に気が強くて、私は絶対に結婚しないというのが口癖で、
だけどそのぽっきり折れそうな儚さがたまらなく魅力的で、よく三人でつるんで俺の家で深夜まで激論をたたかわせた。
今にして思えば俺の家は育児放棄家庭のはしりで、家に誰もいなかったから格好のたまり場だったんだけど。でも、姫が来るときは井沢以外誰も呼ばなかった。
それは聖なる時間だったからだ。俺にとって、井沢にとって、そして姫にとって
「お待たせしました」
思い出の空想風景がほんの一瞬であったと思い知らされる無慈悲な声が、空間を割った。姫は「あっ、来た!」と無邪気に喜んでいる。
「山羊の肉を再現しました。もし思い出と違うところがあれば、また調合しなおしてみますので遠慮なくおっしゃってください」
やけに流暢な日本語で話す中国人の従業員が運んできたのは、皿いっぱいのカプセル。ご丁寧に皿と白いカプセルの間にはレタスが一枚だけ敷いてある。そうか、これが値段を釣り上げるものなのか。
「やだ、おいしそう。楽しみ」
姫はカプセルを華奢な右手の指でつまみ、ぽいと口に放り入れた。すぐに嚥下し、赤ワインを流し込みながら言う。
「ああ、山羊の味がするわ! これ、クラブのみんなでキャンプに行ったとき食べた味よ」
姫はもう右手しか動かない。脳から声帯に直結させたスピーカーが、まだ声が出たころの姫の声に似せた発声でがなりたてる。ただオブジェとなった車いすに乗った姫の顔は、190年前のあの、クラブのアイドルだった相川姫子さんのままだ。
「井沢くんまで死んじゃうなんて。あなただけはずっとわたしのそばにいてね」
山羊の味付けをほどこした成分の入ったカプセルを次々飲みながら、姫が悲しそうな表情で言う。広い円卓に並べられた皿という皿の上には、同じいろんな味を模したカプセルが食べきれずずらり。約束したじゃないか、井沢。姫を残しては死なないぞ俺たち、って。
だけどなあ、周りがどんどん死んでいくのに慣れすぎちゃったな。
「すみません、お勘定」
「えっ、もう帰るの?」
呼び鈴を鳴らして言った俺に不満げな姫を横目に、べらぼうな金額の伝票を突き付けてきた中国人の従業員が「すごいですよ、30年ぶりの自然の雨だって。人工でふらしてないんだって! こんなすごいんですね、自然の雨って。店に入ってきちゃうから、一度も使ったことなかった雨戸閉めました」と、聞いてもいないことをやや興奮気味でまくし立ててきた。