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それから幾日かすぎたある日の午後に、固く錠をおろした鉄格子の門の前で、誰かがわめく声がした。
ビーストが何事なのかと玄関から出てみると、粗末な作業着を着た中年の男が、門を両手でつかんで揺さぶっていた。
「開けろ! 娘が中にいるはずだ。ここを開けろ!」
ビーストの背後で、大きく息を呑む気配がした。振り向くとローズ姫が真っ青な顔で立っていた。
姫の姿をみつけるや否や、男の声はいちだんと大きく、動きはいちだんと激しくなった。
「ローズ。やっぱりローズだ。町の人たちから若い娘が化け物に囚われているという話を聞いた。娘の容貌を聞いて、きっとおまえにちがいないと思った」
「父さん……」
と、ローズ姫が呟いた。
「ずっとさがしていたんだ。いろんな噂も聞いた。かわいそうに、悪い男たちにだまされていたんだろう。さあ、こっちにおいで」
ローズ姫は首を横に振った。ビーストはほっとした。
あの男も姫の侍従のひとりにちがいない。それにしても、あんなぼろをまとった姿で姫をお迎えしようなんて、身分違いもはなはだしいことだ。
「ローズ。罪は償える。父さんといっしょに帰ろう」
ローズ姫はくるりと向きを変えると、ちょうど目の前にあったビーストの腹に、白い顔を伏せた。そして小さく命じた。
「あたしを連れていって、早く!」
ビーストはたちまち姫を抱え上げ、館の中に戻るべく走り始めた。
その様子は傍目から見れば、恐怖で抵抗できない娘を強引に連れ去っていく魔物の姿そのものだった。
門の向こうでは、身分違いの男がわめき続けている。
「この化け物。娘を返せ。ローズ、ローズ!」
「遅すぎた」
ビーストの剛毛に顔をうずめながら、ローズ姫が呟いた。そして、さらに小さい声でつけ加えた。
「遅すぎたわ。でも……さがしてくれてありがとう、父さん」
その晩、夕食が終わったあともローズ姫は寝ようとしなかった。長い時間衣裳部屋にこもり、ようやく出てきたときには、いつにもまして美しく着飾った姿で彼を驚かせた。
光沢のあるドレスの胸にはローゼットの花模様が縫いとられ、そでや裾にもたくさんの花びらが散っている。
腰には銀の帯、耳には金の耳飾り。栗色の髪の一部を頭の後ろでまとめ上げ、きらめく宝石のピンで飾って、残りは長く背中に垂らしている。
「今夜は特別」
みとれるビーストに、ローズ姫は優雅に告げた。
「舞踏会をしましょう。おまえを招待するわ、ビースト」
館で一番大きな広間におもむくと、ふたりはありったけの燭台にろうそくの火を灯してまわった。すっかり灯しおえて用意がととのうと、ゆらめく炎の輪の中に、ふたりで立って向き合った。
ローズ姫がいたずらっぽく笑いながら、きどったお辞儀をしてみせる。
「お相手をお願いできますか、王子さま?」
ビーストはうなずいた。胸が高鳴り、お姫さまのエスコートをする手がふるえた。
お姫さまは安心させるようにほほえんだ。それから姫みずから、甘く陽気な旋律を口ずさみはじめた。
楽団がいなかったからだが、そんなものは必要ない。ビーストの足は、ローズ姫の声にみちびかれながら自然に動く。踊るための旋律を、彼の耳は覚えていた。
ローズ姫が驚きの声をあげた。
「まあ、おまえステップを知っているの? あきれた、ちゃんと踊れるじゃないの」
ビーストは恥じらった。きちんと知っているわけではない。飼い主だった老夫婦が時おり踊っているのを、何度か見る機会があったのだ。
きれいだし楽しそうだったからなんとなく覚えてしまったが、姫のお相手がはたしてつとまるかどうか。
「十分よ。あたしだって本当のステップを知っているわけじゃないんだから」
踊りながら姫が言った。
毛むくじゃらのビーストの腕に、すべすべした白い手をからませ、足取りも軽やかにいざなった。
姫のお相手をするには身体が大きすぎたため、彼は背中を丸めてなんとか釣り合いをとろうとした。
足を踏まないためには最大限の注意が必要だった。もし少しでも踏もうものなら、姫のおみ足は簡単に砕けてしまうだろう。
姫のほうでも最初は背伸びしたり腕の位置を変えたりして、調整に時間をかけているようだった。
だがついに、ふたりともこつをつかんだ瞬間が訪れた。姫と魔物はみつめあい、うなずきあい、笑いながらくるくると広間をまわった。
「すてき!」
ローズ姫が叫んだ。
「もっと早くまわってよ、ビースト、もっと早く!」
ビーストはまわる。姫の細い身体が、彼の手を支えにしながらくるくると踊る。
いつしか旋律を口ずさむのはやめていたが、音楽は彼らを包み、長く波打つ髪は楽の音に合わせてなびき、ドレスの裾があざやかにひるがえる。
まわるごとに広間の空気があたたまり、ろうそくの灯が祝福の拍手のように明るくゆらめく。
「もっとよ、ビースト」
灯りに頬を染めながら姫が笑う。
「まわって、もっと早く!」
やがて──。
踊り疲れたふたりは、窓を開いてバルコニーに出ると、火照った身体を夜風でさましながら寄り添った。
バルコニーの下では、咲き乱れるローゼットの茂みが月明かりに照らされて、浮かびあがって見えた。
「きれい……」
それを見下ろしほほえみながら、ローズ姫が呟いた。
「すばらしい夜だったわ、ビースト」
ビーストが誇らしさで胸をいっぱいにしてうなずくと、姫は上気して明るくなった顔を彼のほうに振り向けた。
「あこがれだったの。豪華な大広間での舞踏会。最高のドレスに身を包み、髪にも肌にも宝石を散りばめて……一度でいいからそういう思いを味わいたくて、ひとりで山を下りてきた。望みがかなって満足よ。でも……」
姫はドレスの裾をつまみ、いくつもの宝石に縁取られた髪飾りに手をやった。それからローゼットの茂みのほうにふたたび視線を戻した。
「どんなに高価な衣装よりも宝石よりも……咲き誇っているあの花のほうが美しい。やっと……やっとそれがわかるようになった。ビースト、おまえのおかげよ。おまえがいっしょに踊ってくれたから。いっしょに暮してくれたから。やさしくしてくれたから」
ビーストはいつものように黙っていた。生涯ではじめてにして最大の賛辞を与えられている気がしたが、思い違いをしているかもしれない。
「本当に美しいものというのは、お金では買えないものなのね……。知らなかったわ。馬鹿だった。愚かで傲慢な娘だった」
ローズ姫はビーストの腕に身体を寄せると、もたれかかった。
「だけどいまは……以前ほど愚かな娘ではないはずね、きっと」
それから、眠たげにささやいた。
──あたしを殺してね、ビースト。そしてあの花の根元にきっと埋めてね。
姫はそれ以上語らなかった。ふたりは無言で寄り添いあい、いつまでも月明かりの庭を眺めていた。
たっぷりと踊ったあとに眠ったため、その晩、ローズ姫が途中でビーストを呼びつけることはなかった。
だが翌朝、目をさました彼が姫のベッドをのぞいたとき、彼女はそこにいなかった。なぜかどこにも見当たらない。
かわりに部屋の片隅に、見慣れない青灰色の繭のようなものがあった。
ビーストは多少不審に思ったが、気に留めはしなかった。姫がいないことのほうが気がかりだったからである。
朝の散歩に出かけたのだろうか。そんなことはいままで一度もなかったが、散歩したとしても別におかしなことではない。
散歩は長く、昼になってもローズ姫は帰ってこなかった。夜になってもまだ帰ってこなかった。
もしかして──と彼は思った──ぼろをまとったうるさい侍従のところに行ったのだろうか?
ビーストは動揺したが、行ったとしてもやはりおかしなことではないのだろうと思い直した。
必死で叫んでいた侍従を哀れに思い、少しだけつきあってあげようとしているのかもしれない。やさしいお姫さまの考えそうなことだ。
彼がいつになく落ち着いてそう思うことができたのは、やはり舞踏会をともに経験したことが大きかった。
あれだけ楽しい時間を過ごしたお姫さまが、自分をおいて黙って出て行くとは思えない。ここは気長に待つことにしよう。待つのは別に苦な作業ではないのだから。
部屋の隅にある繭玉はぴくりとも動かなかったので、ビーストの関心を引かなかった。だが数日後、習慣で姫の寝室をのぞいた彼は、繭玉だったものが割れて、中から何かがうごめき出てくる瞬間に出くわした。
青灰色の粘液にまみれながら、見たこともない生き物が這い出てきつつある。
これは良くないものであると彼は直感した。ただの動かない繭玉ならどうということもないが、こんなに動いているものが姫の寝室にいるのは問題だ。
彼は腕を振り上げ、生き物の頭部と思われる部分を迷わず刎ねた。まだ柔らかかった首はあっけなくちぎれ飛び、少しふるえてからすぐに動かなくなった。
彼はふたつに分かれたものを両手でつかみ、以前もそうしたように庭に下りると、ローゼットの茂みの根元にそれを埋めた。
そして寝室まで立ち戻り、きれいに床を掃除した。
それから、いつ姫が帰ってきてもいいようにほかの部屋も掃除することを思い立ったので、隣の部屋に移っていった。
ローズ姫はその夜も帰ってこなかった。次の日も、その次の日も。
彼は待った。待っているのは苦ではなかった。
☆
風が吹きすさぶ、ある晩に──。
最高級のあつらえを施された馬車が、全速力で都めがけて駆けていた。
全速力といっても向かい風は強く、足元は砂利だらけの道、万が一にも馬車が横倒しになったりしたら取り返しがつかない惨事となる。御者の緊張は並大抵のものではなかった。
というのも、馬車に乗っているのは王族だった。女王陛下と幼い三人の姫君たちだ。
いまは公務の途中ではないため、女王は慈愛に満ちた母親の眼差しで娘たちを励ましていた。
「もうすぐ大きな街道に出ますからね。こんなに揺れるのもあと少しの辛抱ですよ」
澄みきった青さを誇る山間の湖で休暇を過ごし、家族水入らずの時を楽しんだあとの帰り道だった。
はじめて訪れた湖畔の美しさは皆の心を満足させたが、帰路の長さは予定外だった。途中の道が崖崩れで通行できず、迂回してあちこち走り回ったあげく、ひなびた町中を突っ切るしかなくなってしまったのである。
馬車が町に走り込むと、あふれるように薔薇が咲き乱れた庭園を持つ大きな館が目に入った。
けれど花があるのはその庭だけで、あとに続く家々の庭はこのうえなく殺風景なものだった。
「お母さま、あの声は何?」
いちばん上の姫君が、恐ろしげに身をふるわせながらたずねた。先ほどから、風の唸る音に混じって獣が咆哮しているような音が聞こえている。
側近がひそかな声で女王に説明した。
「この町を徘徊している魔物です。最初は庭に薔薇が咲く家だけを襲っていたようですが、人々が恐れて花を刈り取ったところ、今度は見境いなしにあちこちをまわりはじめて……。しかし一匹だけですから、馬車がみつからないように走るのは簡単です。ご心配には及びません」
それを聞いた女王は「野犬の遠吠えですよ」と姫君に答えを返した。だが側近には、高貴な眉をひそめながら小さい声で、
「一匹だけ……それではなかなか討伐隊まで差し向けられませんね。しかし毎晩こんなにうるさいのでは、町の人々もおちおち眠れないでしょう。なんとか手を打ってあげなければ」
そのとき、女王の膝を枕に寝入っていたいちばん下の姫君が、小さく身動きして身体を起こした。
「……声が聞こえるわ、お母さま」
「ただの野犬ですよ。あなたは眠っていらっしゃい」
「誰かをさがしているみたい……」
「え?」
「泣いてるわ」
姫君の幼い顔を見下ろして、女王は驚いた。泣いていると呟いた、姫君自身が泣いていた。
「エセル」
女王は末娘の名を呼ぶと、小さな肩を抱き寄せた。
「こわがらなくていいのよ。こんな町、すぐに通り抜けてしまいますからね」
姫君が、母の胸に濡れた頬を押し当てる。
風が吹きすさぶ月光の道を、馬車はひたすらに都めがけて駆け抜けていった。
あとがき
読んで下さった皆さま、ありがとうございました。
童話と呼ぶには、ちょっと妖しすぎるお話でしたね……。
このお話は「出会いの窓は南の塔に」のヒロインであるエセルの子ども時代という設定になっています。「南の塔」は、恋あり活劇あり切ない要素あり、でもハッピーエンドのファンタジーですので、もしよければ、そちらものぞいてみてくださると嬉しいです。
私ごとを少し。
「小説家になろう」にはじめて作品を投稿したのはいつだっけと日付を見たら、去年の12月8日でした。
ちょうど1年経ったのだと、しみじみいたしました。
膨大な量の作品群、天文学的数字と私には思えるアクセス数があふれるサイト。そのすみっこのすみっこのすみっこで、本当にひっそり静かにやってきましたが……。
どんなに静かであれ、自分のつたないお話が人の目にふれる機会があるということは、やはり大きな喜びでした。
何より、こういう場がなければ、超スローペースな私が書き続けることは、とてもできませんでした。
読んで下さったかたがた、サイトを運営して下さっている皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
今年の投稿はこれで最後になりますが、来年もなんとか続けたいものだと思っています。
どうもありがとうございました。
こまの柚里