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ローズ姫は立ち上がり、ほかの部屋をもっと見たいと言って歩き出した。
「すてき……こんな家に一度は住んでみたかった」
彼女は何度目かの感嘆のため息をもらした。
それから、しばらくためらったのち「住んでいた人たちはどこに行ったの?」とビーストにたずねた。
ちょうどそのとき、彼らは階段下にいた。明るい色模様の織り込まれた絨毯の一部分に、奇妙なほど黒ずんだ染みが広がっている。
それは前の住人たちの身体から流れ出た血の跡だった。ローズ姫は不吉な染みをじっと見下ろしながら、ふたたびたずねた。
「おまえが殺したの?」
とんでもない。彼らは勝手に階段から転げ落ちて死んだのだ。
ひとりは階段の角に頭を打ちつけて、ひたいが割れたのが原因だった。もうひとりは落ちたはずみで、手にしていた短剣を自分の腹に突き立てたのが原因だった。いずれも不幸な偶然だ。
とはいえ、ビーストがそれを嘆き悲しんだかと言えば、そんなことはない。その老夫婦のことがとりたてて好きなわけではなかったからだ。
うなるほどの金を持てあましていた老夫婦は、ある日、見世物小屋にいた魔物の仔──彼だ──を気晴らしの道具にするために買い取った。嘘のようだが、そのときの彼は仔猫のように小さく力も弱かった。
見世物小屋の主は、そんな仔猫を的当ての標的にしたが、それくらいしか利用する価値がなかったのだろう。
老夫婦がやってきて天井の高い豪勢な館に連れ帰り、彼に首輪をつけた日から、彼は今度は老夫婦のための標的になった。
そのあたりのことは昔すぎてよく覚えていない。ただ、餌も寝床の檻も以前よりははるかに質がよかったから、たぶんそれほど文句はなかったにちがいない。
ところが。ある日を境に、ビーストの身体がぐんぐん大きくなり始めた。首輪は簡単にちぎれて落ちた。朝方目覚めてみると、寝ていた檻は彼のまわりでばらばらに分解されて散らばっていた。
そういう時期がきたのだ。ある時期を境に突然成長する種類の魔物だったのである。
入ってきた老夫婦は、栓が抜けたように悲鳴をあげ続けた。騒々しく逃げまどう夫婦を彼は追いかけた。
空腹で頭がどうにかなりそうだった。成長した日の朝には無論、ふだんよりたくさんの栄養分が必要だ。餌がほしい。餌をくれ。早くよこせ。
老夫婦は、追いかけてくる魔物の目に溢れかえるような食欲を見たにちがいない。逃げるには自分たちの足腰が弱すぎると悟ると、かたわらの戸棚から武器を探し、みつけた短剣で威嚇しながら階段をおりて玄関に向かおうとした。
だが彼らはわかっていなかった、魔物が草食だということを。ほかでもない彼ら自身が、そのようにしたのだ。
それなのに忘れっぽい夫婦は勝手に階段を駆け下り、たちまち事故にあってしまった。
その後、彼は折り重なったふたつの死体を引きずって庭に行き、残飯の処理をそうするように土に埋めた。その場に放っておいても歩行の邪魔になるだけだが、土の中なら邪魔どころかきっとよい肥料に変わるだろう。
それから、大量の血で汚れた絨毯をできる限り掃除した。清潔さは、この屋敷に引き取られてから彼が気に入ったもののひとつであった。
そういうわけで、殺したのかと問いかけたローズ姫に対する答えは「否」だった。それが伝わったのかどうか、姫さまは今度は「死体をどうしたの? 食べたの?」とたずねた。
ビーストは窓辺に近づきガラス戸をあけると、そこから見えているローゼットの茂みの根元を指差した。
姫は黙ってそれを見ていたが、やがて振り向くと静かに言った。
「つまり、あたしがここに住んでも元の住人から苦情は出ないということね。いいわ、好都合よ。今日からこの館の主はあたし」
そして、彼をうっとりさせるあの微笑みをうかべてみせた。
「ビースト。おまえは今日から、このあたしに仕えるのよ」