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山のふもとにある小さな街、その片隅の豪奢な館で、一匹の魔物が暮らしていた。
毛むくじゃらの魔物は草食で大変おとなしく、人間よりもはるかにおだやか、かつやさしい心映えの持ち主だった。
かつて館の主であった住人たちの姿はすでになく、石造りの館はいまや彼──その魔物は雄だった──ただ一匹のために存在していた。
館の前面には広い庭園があり、住人がいたころには無論、幾人もの庭師たちが丹念に雑草を取ったり不格好な枝を剪定したりして、その秩序を守っていた。
いまの庭に人の手による秩序はない──いたるところで草が生い茂り、灌木が刈り込まれることなく伸び放題に枝を広げ、花々は自由気ままに咲き乱れて香りを競いあっている。
草についてはいささか邪魔だが、花についてはいまの姿のほうが、彼にはずっと好ましく感じられる。花は花の咲きたいまま、香り立ちたいまま、好きなように生きていくべきだ。
こんな場所には猫やねずみが自由に入り込んできそうなものだが、彼の庭にそうした小動物の姿は見当たらない。魔物の棲み家に立ち寄る動物などいない。
だが小動物は誤解しているかもしれない。彼はたとえもぐらをみつけたとしても、取って食おうなどとは思わない、草食なのだから。
長い間人に飼われ、果物や穀類を与えられていたせいで、生きた動物には見向きもしない身体に仕上がった。
あるとき、彼が咲き乱れる花を愛でようと庭園に出ると、花ざかりの茂みの前にひとりの人間が立っているのが見えた。
そういえば、ゆうべ食べ物を得るための外出から帰ってきたあと、門の錠をかけ忘れたような気がする。
無断で庭に立ち入った侵入者は、背中を向けていた。ほっそりした後姿。つややかな栗色の髪が、豊かに波打ちながら、腰まで流れ落ちている。
振り向いた若い娘の面差しは、思わず魅入られてしまうほどの美しさだった。
魔物は動くことができずに立ち尽くした。娘のほうも、驚愕に大きく瞳を見開きながら立ちすくんでいる。
だがやがて、娘の瞳から驚愕の色が消えた。彼女は鈴を振るように澄んだ声でたずねた。
「おまえの庭なの?」
彼はうなずいた。たしかにいまは彼の庭だ、ほかに愛でる人もいないのだから。
それにしてもなんてきれいで輝かしい娘だろう。汚れきった衣装で身をやつしてはいるものの、彼女はきっとこの国のお姫さまであるにちがいない。
お姫さまはおっしゃった。
「あまりにも花がきれいだったから、思わずみとれてしまったわ」
魔物はふたたびうなずいた。無表情にしか見えない容貌の魔物だったが、その心中は、まるで自分自身がほめられたかのような喜びでいっぱいだった。
「でも残念ながら、手入れが良いとは言えないわね。このままでは全部枯れてしまうわよ」
お姫さまはそう続けた。そして手近にある花の一枝をつまんで持ち上げた。
手元の花をよく見ると、たしかに花弁が半分茶色く変色し、小さな黒い毛虫が這いずっている。
払いのけるために姫が手を振ると虫は落ちたが、同時に白い指先から、ぱっと赤い色が散った。茎についている棘で切ったのだ。
魔物はあわてふためいた。花と同じ赤い色。自分の手入れが不十分だったせいで、お姫さまに怪我を負わせてしまった。
彼はおずおずと近づくと、館のほうを指し示してみせた。以前、住人が同じように指を切ったとき、何かの薬で手当てしているのを見たことがある。
彼自身が手当てしてもらったことはなかったが、きっと部屋のどこかに人間用の薬箱がしまってあるはずだ。
姫は怪訝そうな顔で彼の様子をみつめていたが、館の中にいざなおうとする意図をどうやら察したようだった。
けれど、あとについて館に向かうその前に、彼女はもう一度花の茂みに目を向けて名残惜しそうに花を眺めた。そうしながら呟いた。
「ローゼット」
それからこちらに向き直り、咲き乱れる紅の花を背景に、紅の唇を持ち上げて微笑んだ。
「あたしの名前。みんなにはローズと呼ばれているわ」
魔物は正しく聞きとったが、姫は多少の疑問を感じたようだ。愛らしく小首をかしげながら、
「あら。おまえはしゃべれないようだけど、言葉はちゃんとわかるのかしら。あたしの言っている意味がわかる?」
彼は大きくうなずいた。もちろんわかる。
花の名前はローゼット。お姫さまの名前はローズ。ちゃんと覚えた。
雑草だらけで歩きにくい庭だったため、魔物は姫の前を歩いて道を作り、ときにはエスコートするため控え目に手を差し出した。
ローズ姫さまは、嫌がることもなくその手をとった。そして、ふたりで館の中に入っていった。
薬箱の場所を覚えていなかったため、ふたりはしばらくの間、館の中のあちらこちらを歩き回らなければならなかった。
ローズ姫を長々と歩かせることが申しわけなくて、彼はいたたまれない気分におちいったが、姫はむしろ館内の散歩を楽しんでいるようだった。
玄関を入ると広い間口、高い天井、高価なガラスの嵌まった廊下。贅沢に作られた数々の部屋。
壁を飾る手の込んだタペストリー、大理石で囲った暖炉、銀食器がふんだんに並ぶ食器棚。そのどれもが、彼女の目をひきつけて離さないようだ。
とくに衣装部屋をみつけたとき、姫は歓声をあげて中に入っていったきり、長い間出てこなかった。
閉め出された彼は、扉の前で辛抱強く待ちながらも困惑した。傷の具合は大丈夫なのだろうか。
だが出てきたローズ姫の姿をひとめ見るなり、心配事は吹き飛んだ。
みちがえるように清潔で豪華なドレスに身を包み、金色の帯を締め、ていねいに梳かれた髪にはきらめく髪飾りがとまっている。
優雅に微笑むその姿は、まさにお姫さまの名にふさわしかった。
彼はうやうやしく姫の手をとり歩き出したが、次の広間に入ったとき、壁一面に据え付けられた鏡が、彼の視線を釘付けにした。鏡には、ふたりの立ち姿があますところなく映し出されている。
姫さまの背丈は、かたわらに控える魔物の腹あたりまでしかない。彼はそれだけ背が高い。
姫さまの肩幅は彼のそれの半分そのまた半分。頭の大きさも掌の大きさも半分そのまた半分。彼の身体はそれだけ巨大だ。
何よりもちがうのは皮膚だった。彼の皮膚は掌以外のすべてが汚ならしい茶色の剛毛で覆われている。雪のように白くやわらかなローズ姫の肌とくらべて、なんと見苦しいことか。同じ茶色でも、彼女の波打つ栗色の髪とくらべて、なんとくすんでいることか。
彼は二足歩行できる魔物だったが、容貌は以前の住人によれば獰猛なライオン──彼はライオンを見たことがない──にそっくりだという話であった。いずれにしても、お姫さまにひきかえ自分はなんとまあ醜い生きものだろう……。
ようやく薬箱のある部屋にたどりつくと、魔物は手当をしようと薬瓶をつまんだが、瓶が小さすぎて指が中まで入らなかった。
困惑しているとお姫さまが言った。
「もういいわよ、ビースト。血はとっくに止まっているわ」
ビースト、と彼女は呼んだ。この呼び方でいいわね? ほんとの名前はわからないけど、おまえはどうせしゃべれないんだから、あたしがいま名前を決めたわ。
それから考えあぐねるように少し睫毛を伏せてから、つけ加えた。
「……変ね、あたし、おまえのことが全然恐ろしくない。そんなはずないのに。あたしはやっぱり……」
ビーストは彼女の呟きを聞いてはいなかった。嬉しさと誇らしさでいまにも舞い上がりそうだったからだ。
名前。いままでは「魔物」あるいは「化け物」と呼ばれていた。
ビースト。今日からそれが彼の名前だ。




