番外 来栖由美の日常
久しぶりに夢を見ていた。
薄明の教室にポツリと置かれた一組の机のみ。
後ろを振り向けば出口はある。だがその向こうには教室よりもっと暗い世界が広がっている。
結局そっちに逃げることはせず、そこに座って何かをじっと待ち続ける。
だが一向に誰も来ない、そう分かっているのに動くことができないのだ。
そしていつもそこで目覚めるのだ――
ベトナムのとある町の一角に立つビル、その一階で食堂「豊輪工業」を一人で切り盛りする日本人がいた。
彼女の名は来栖由美。本来なら都内の名門校に通っている現役女子高生だ。
彼女が何故ベトナムで働いているのかというのはさておいて、問題は働いているその町だ。
曰く、その町はベトナム戦争の残滓である。
曰く、その町での公用語は英語である。
曰く、その町は複数のマフィアが巣食っている。
そんな肥溜め以下の町で送る日々は由美にとって面白いものであった。
由美が読んできた数々の小説、その向こう側に広がっていたはずの金と暴力の支配する世界。そこでは出身も学歴も関係ない。そこでは皆が平等。それ故に格差が広がり、弱者にのみ死が訪れる。
そんな世界に今まさに自身がそこに立っている、生きているのだ。面白くないわけがない。
ただ彼女には気になる事が一つだけあった。
彼女を拾ってくれたケビンという人物だ。
なんとなくだが、彼はこの町に向いていないような感じがする。
それは彼の相棒であるエイノという女性も同じ。
彼らはこの町の住人のように望んでここに来たのではなく、各々が各々の抱える何かから逃れるようにここに流れ込んできた、そんな感じがするのだ。
「………こんなこと考えてないで、明日のメニューの仕込みやらないと」
重い重い身体をベッドからやっとのことで引き剥がし、カーテンを開く。
そこからは日本と全く変わらない空が伺えた。浮かんでいるのは白い雲と鬱陶しい太陽のみ。
しかし彼女にはどうもそれが同じ空に見えなかった。
それは見る場所が変わったからか、それとも部屋が変わったからか…?
そう思って振り返るととてつもなく広い部屋が広がっていた。
ビルのワンフロアがそのまま彼女の部屋となっているのだからそう思うのも無理はない。
なにせ風呂トイレ付きだ。とてもじゃないが誘拐されたとは思えない待遇に喜びより戸惑いを覚えるというのが正直なところだ。
そんなことを考えているとノック音が聞こえてきた。
おそらくケビンさんかエイノさんが飯を作れとお越しに来たのだろう。
それは由美にとってありがたいことだ。忙しさは日本にいた頃の記憶をしばし忘れさせてくれる。
バッサリと切られた髪を手櫛で急いで整え、彼女の忙しい日がようやく幕を開けた。