第九部
正直なところ、ユミをこの肥溜め以下の町から守り抜くことに限界を感じていた。
市場までの道に転がっている娼婦や薬物中毒者、マフィア、更には段々とビルに近づいてくる発砲音、挙げれば限がないが、そんなものから純粋で普通な人間を守るなんて、最初から無茶だったんだ。
「………と、いうことで、ユミを日本に返そうと思う」
「なんですか、その『動物を自然に返そうと思う』みたいな切り出し方は」
「なんだよエイノ、こっちは真面目な話をしようとしているんだぞ」
「こんなところで真面目な話、ですか」
まあ場所はいつもの通り屋上なんだけどさ。
屋上の手すりのそばは誰にも話を聞かれないからここがピッタリなんだ。
そんな場所だからかな、そんな話を切り出したのにエイノは余裕そうな笑顔を浮かべていた。
「まあ、そういうわけなんだけどさ…エイノは、その、もう少し状況を見た方がいいとか、そういうのないのか?」
「特に異議はありません。それより、他に話したい事があるんじゃないですか?」
「えっ、何でそれを」
「先程、『真面目な話をしようとしているんだ』って言ったのは貴方ですよ。さあ、真面目な話とやらをどうぞ」
チェ、やっぱりエイノには勝てないんだ。
真面目な話というのは――
「真面目な話っていうのはね、これを機に町を出ようかと思ってるって話なんだけど」
ふぅー、と煙草の煙を吐くような溜息をついた後、エイノは諦めたように笑う。
「その話、ユミが来てから考え始めましたね。いつ切り出すのかと思ってましたよ」
「だから何でそういうのが分かるんだよ」
「だって、ユミといる時の顔、ギアさんの前でも見せないじゃないの」
「やっぱり君にはかなわないな」
しばらくの間、そこには静寂しかなかった。
その間はこの町のことを思い出すのに使われたよ。
いつの事だったか、遥々ロシアからやってきた方々に半殺しにされかけた時、エイノがいなかったら僕は死んでいた。
取引先に嵌められてどえらいことになった時もエイノが助けてくれた。
エイノは僕のことをどう思っているのだろうか、何故だかそんな事が急に気になってしょうがなかった。
いっそのことストレートに聞いてみよう、そう思って横を向き――いない?
「どこを向いているんですか、私はこっちです」
後ろを向けばエイノが車のキーを持っていた。
エイノはあろうことか僕に投げつけ、そこから立ち去ろうとしたんだ。
当然僕はそれを引き留めるんだ。
「おいエイノ、どこに行くんだ?」
「どこって…店の引き継ぎ作業です。貴方がここを立ち去るというなら誰が『武器商人』の役をやるんですか?」
「ちょっと待って、エイノは着いてきてくれないのか?」
僕がそう言ったらエイノの顔から今度こそ余裕が全て消えたね。
一瞬泣きそうな顔して、すぐに傭兵時代の仮面の顔を作り出したんだ。
「ホールデンはフィービーを意地でも置いていこうとして、自分も残ることを選びましたよ」
「もしかして僕の買ってきた本読んだの?」
「べ、別にそれは今関係ないでしょう」
「関係なくはないさ。むしろ読んでくれた方が話は早い。君は何故あれが、『ライ麦畑でつかまえて』でなければいけないのか分かるかい?」
その質問に彼女は勿論答えられない。そりゃそうだ、僕だってついさっき思いついたんだから。
「ホールデンはね、『Lie』と『Rye』を間違えていたんだ」
「そんなバカな、発音が少し似てはいますが、綴りも何もかもが違うじゃないですか。そんなの子供でも分かりますよ」
「そう、問題はそこなんだ。子供でも分かるミスだから、ホールデンはフィービーにそれを指摘されていたじゃないか」
そう言ってもエイノは中々納得はしてくれなかった。そんなことは気にしない。話したくなったら止まらないんだ。
「クソッタレな高校だって、そこら中に落書きされていた『オマンコシヨウ』だって、確かに子供には見せたくないものだ。
だけどそれはそれは純粋な子供が大人になるための糧、言うなれば堆肥だな。だけどホールデンはその純粋さ故、それに気づけない」
「で、それがどう話に関係するんですか?」
「どうって…その前にその鉄仮面見たいな顔はやめてくれよ。話しづらくてしょうがないだろ」
僕がそう言うとエイノは頬をペチペチやって、無理やり笑おうとしてくるんだ。
その姿がとてもかわいそうで、結局そのまま楽にしてもらったんだ。
「何が言いたいかっていうとさ、僕達はもう大人じゃないか。立派な大木に肥やしをまいたところで無意味だろ?
だったらそんな臭いのキツイもののそばに寄らないで、いっそのこと『ライ麦畑の番人』になればいいじゃないか」
そう言うと、彼女は急に俯いて、こう呟いたんだな。
「この町を離れて、ライ麦畑の番人になって…それでどうするんですか?」
「どうするって…それは、その後考えればいいじゃないか」
そう言い返した時、何故かイラクの孤児が頭をよぎったんだ。
彼を銃撃戦から救おうとしたあの時と何処と無く被るんだよ。
エイノをこの町から救い出して、それであの時の後悔を断ち切ろうと思っていたんだな。
それを感じ取ったのか、エイノが顔を真っ赤にして言い返してきたんだ。
「貴方っていつもそうですよね。私をここに引き摺り込んだ時だってそうでした。とりあえずここに来て、やることはそれから考えればいいって。
でも考えたってやることなんて一つもなかった、せいぜい人を殺しながら人を殺すための機材を運ぶだけ! もうそんな生活は嫌なんですよ!」
「だからその生活からおさらばしようって…」
「おさらばして、辿り着くところが何処か分かってるんですか? こんな町にいる私達が行ける場所なんて紛争地帯だけ、つまり逆戻りなんです。それだったらこの町で今まで通り安定した生活を送ればいいじゃないですか!」
僕はそこで一瞬言葉に詰まった。
それもそうだ、彼女は弁が立つ。怒り狂っていたとしてもそれは変わらないのだ。
思いつきの言葉で何とかなるはずもないことくらい分かっているはずなのに、なぜか僕もムキになってしまったんだ。
「君はただ、姉を連れ去った『普通』の世界が怖いだけじゃないか! やることがないはずがない、『普通』の生活を送ることが僕達のやることだろ!」
「そんなの無理よ。私は今まで何人殺してきたと思ってるの? そんなの許されるはずがない!」
「だったら、落ちこぼれだったホールデンがそう考えたように、米帝の片田舎で啞でつんぼになればいいじゃないか。それで…」
それで、僕はとんでもないことを言ってしまったことに気づいた。
ここで言うのもやめようかと思ったけど彼女もそれに気づいて、泣きそうな顔を桜色に染めていく。
もうやるしかないんだな、一拍おいて、深呼吸をする。
「それで…それで、その…あれだ………」
やっぱりそんなころ急には言えないんだ。
よっぽどその姿が哀れだったのかエイノが助け舟を出してくれるんだ。
「それで、どうしたんですか?」
ああ、もう後には引けないんだな、そう覚悟を決めたんだ。
「それで…それで、同じように啞でつんぼの奴と結婚すればいいじゃないか」
そう言った時、僕の体が沸騰しだしたんだ。今すぐにでもプールに飛び込もうかと思ったその時――エイノが先に飛び込んだんだ。
「おいエイノ、何処に行ったんだ? エイノったら!」
実に馬鹿げた叫びだ。エイノはもちろんプールの中、だけど叫ばずにはいられなかった。
彼女が水面に上がってくるまで一瞬だったけど、すごい長く感じたんだ。
「ケビン、エイノは私の名前ではないですよ。私の名前はエイラです。エイラなんですよ」
「そうか、じゃあ、エイラは何処にいるんだ?」
「私は、私はここにいます、確かにここにいます」
伏線回収完了




