第八部
結論から言うと僕とユミでハノイのドンスアン市場周辺まで繰り出したんだな。
ことはギアさんがビーフを食べたいってところから始まったんだ。
たしかにうちの町にも市場はあるんだけど、あいにくとイスラムの人が生鮮食品の担当でね、肉類の品揃えが非常に悪いんだよ。
それを分かっているのにギアさんは肉を寄越せとうるさいから、仕方なくね。
それにしても久しぶりの市場は人で溢れかえっていた。
辺りを飛び交うバイクのエンジン音をかき消されまいと張られる売り子の大声、ここに来るとあの町のことをほんの少しだけ忘れられる。
「ケビンさん、あっちにお肉ありましたよ!」
ユミに腕を揺すられて、物思いに耽ていた頭がようやく覚めてね。
彼女の指している方を向いたら女性が肉を剥き出しでカゴの上に置いているんだな。
僕はベトナム語が殆ど分からないんだけど、その肉には見覚えがあった。
「あれは…たしか猫の肉じゃなかったか?」
「ね、猫の肉? ベトナムの人って猫を食べるんですか?」
「他にも犬とか蛇とかカエルとか…まあ大抵の肉は揃うんじゃないのか?」
僕は何の気もなしに言ったんだけどユミは相当なショックを受けていたよ。
ベトナムでは普通、とまではいかないけどそこまで驚くことでもないから戸惑ったけど、そういえば日本では猫は愛玩動物だったな。
「少し意外かもしれないけど美味しいっちゃ美味しいよ。あそこの屋台で売ってるみたいだけど、食べてみるかい?」
「じゃあ、お言葉に甘えて………うぅ、なんだか獣臭いですねこれ」
「まあ猫だからね。じゃあ蛇の方はどう?」
「うーん…何というか、蛇ですね。獣臭さは無いですけど、水っぽいし味が淡白過ぎるというか…」
さっきまであんなに気持ち悪がっていった割りには躊躇せず食べていくんだな。やっぱりユミは日本人だったよ。
そんなこんなで普通の豚肉や牛肉、少々の魚介類を買って車に向かおうとした時、少し珍しいお店を見つけて、僕とユミは店に引き寄せられていったんだ。
その店は本屋だった。
言語も種類もバラバラで、哲学書から一昔前に流行ったポルノ小説まで、とにかく幅広く揃っていたんだ。
どれも僕に縁のないようなものばかりだったんだけど、その中でたった一冊だけ、隅から隅まで読んだ本があったんだ。
「『The Catcher in the Rye』、J・D・サリンジャーか」
僕が不意に口にした言葉にユミが少し意外そうに反応してね、
「ケビンさんもこの本を知ってるんですか?」
「そりゃ米帝出身だからね。あれは最高にチョベリグな小説だよ」
僕がそんなしっくりくる表現を思い浮かべたというのに、彼女は何処か遠くの方を見ていたんだ。
結局原作と日本語訳の両方を買ってその場を後にした。
その帰りの道中、車の中での話なんだけど、
「僕は昔、ホールデンと同じように啞でつんぼになりたいなんて思ったことがあるんだ」
今でも何でこんな話を切り出したのか分からないんだけどさ、とにかくユミにこんなことを話したんだよ。
ユミもユミで背をピンと伸ばして、耳を澄まして聞いてくれるから調子に乗ってね、
「でも実際に啞でつんぼでは生きるのは結構難しいらしいね、僕はあの町に流れる前にイラクにいたんだけどさ、そこでは英語が全く通じなかったから、とてもじゃないけど生きていけなかったんだ」
「それはそうですよ。ホールデンだって必要な時には紙を通してコミュニケーションをとれるよう予防線を張っていたんですから。それにホールデンはそれを正気の沙汰じゃないって言ってました」
その時にはまだ気付いてなかったんだ、そう前置きを置いて僕は話を続けた。
「イラクではとにかく色々あってね、とにかくあそこでは人がよく死ぬんだ。そこでは男も女も、老人も子供も関係ない。皆が人の形をしたただの的で、皆がそこに鉛玉をぶち込んでいく」
隣にユミがいたんだが、そこでどうしようもなく煙草が吸いたくなってきたんだ。
僕が思い出を話す時はどうしても煙のスクリーンが必要になるんだ。だから一応窓を全開にして煙草に光を灯した。
「僕はそこである子供、多分孤児に出会ってね、言葉は通じないけど、持ってた食料を分けてあげると次第に仲良くなることはできたんだ」
そんなことを話していると煙草の煙がだんだんと車内に立ち込めてきた。
ユミの方をちらっと見てみたけど、相変わらずしっかりと聞いているからそのまま話を続けたんだ。
「その日も何時ものようにその子に会いに行こうとしたんだ。だけど運悪く銃撃戦が始まってね。物陰に隠れてやり過ごそうとしてたその時、向こう側の物陰で怯えている彼の姿が見えたんだ」
彼女はどうやらことの顛末をもう予想していたようだった。だけどエンジンがかかった僕の舌は止まらない。
「僕は、その子に『動くな、そこでじっとしていろ』と言ったんだ。彼はその声で僕に気づいて、どう勘違いしたのか、僕の方に走ってきて、そして――」
気が付けば煙草の煙はすっかりと晴れていた。これ以上昔のことを話すのはもうやめよう、そう告げられてるようだった。
それでも僕は話すことをやめられなかった、やめちゃいけない気がしたんだ。
ここで全部話して、普通の人間ならどう切り出すか、それを確かめなければ気が済まなかった。
「結局僕はライ麦畑の番人にはなれなかったんだ。あれなら言葉が通じなくてもできると思ってたけど、捕まえることがあんなにも難しいなんて夢にも思わなかった」
そこでようやくユミの口が動いた。
多分僕を慰めるような返事だろう。
でもね、僕は帰ってきた意見の粗探しをして、粗がなければいちゃもんをつけて、ケンカに持ち込んで、きっとユミをここで降ろす。
先日のこともあったし、彼女はもう日本に返した方がいい気がしたんだ。
自分でも卑怯なやり方だと思う。ただそのときはまだこうする以外に彼女を元の世界に帰す術を知らなかったんだよ。
「あの、その……」
さあこい、どんな言葉が来ようとも、僕は君をここで降ろす。
「その………もしかして、そこで出会った『同じように啞でつんぼのきれいな娘』がエイノさんですか?」
「へっ!? あ、ああ、たしかにそうだな。エイノと会ったのはイラクだった」
完全に虚を突かれた。
僕の中ではてっきり「子供を守ろうとはしたじゃないですか」とか、そんな感じの言葉が帰ってきて、「でも守れなかっただろ」と言い返してケンカに持ち込むというプランが出来上がっていたというのに。
いつもの町はやっぱり普通ではなかった。
路上で人が寝ている横をスーツ姿のガイジンが通り過ぎていく。
だけど何処か懐かしい雰囲気に、僕は何故かホッとしてしまった。
車からクーラーボックスを降ろしてたときに、ユミが話しかけてきたんだ。
「ケビンさん、さっきの話なんですけど――」
そう切り出された瞬間、僕は死にそうになったよ。
僕は自分の犯した失敗をぶり返されると死にそうになるんだ。もちろん死にはしないけど、それでもすごく嫌なんだ。
ユミはそれに気づいているのか、気づいていないのか、そのまま話を続けたんだ。
「その孤児の子、そこで助けても、多分…」
「分かってたよそのくらいは、だけどね、そこで助けなかったら、僕は人間失格じゃあないか」
僕は少しだけ語気を強めてしまった。
名前も知らないその子が死ぬ瞬間だってそんなことは分かっていた。
その子の未来がどんなものかなんて分かっていた。
泥の中を這いつくばって、その上を人が踏んでいき、そして誰にも気づかれることなく死んでいく、どうせそんな人生だろう。
それでも僕は彼をその場からだけでも救ってあげたかったんだ。
こんなことは自己満足かもしれない、そんなことは分かっていた。
でもユミは、どうやらそれとは違う意見だった。
「そういうことじゃないです。その子の人生が絶望的なことなんて、おそらくその子自身も分かっていたはずです。そんな子に最期だけでも少しだけ希望を見せてあげられて、そんなあなたは『ライ麦畑の番人』ですよ」
それに私だって捕まえてくれたじゃないですか、そう言ってユミはさびしげに笑う。
やっぱりユミは頭が良い。彼女は僕が車で何を考えてたか、そこまで分かっていやがったんだな。




