わたくし、魔王の妻でございます。というわけですので、この国、頂戴いたしますわ!
「──というわけですので、この国、頂戴いたしますわ!」
朗々と響き渡る声は、あまりにも鈴の音のように美しく、そして致命的なまでに不敬だった。
オルディニア王国の玉座の間。居並ぶ近衛騎士たち、そして老獪な大臣たちの視線が、中央に堂々と立つ一人の美女に集まっていた。
艶やかな漆黒の髪を夜の帳のように流し、深紅の瞳には傲岸不遜な光を宿している。身に纏うのは、最高級の魔力糸で織られた、夜空を切り取ったかのようなドレス。
彼女の名はアンジェライカ。世界を恐怖に陥れる魔王サタナスの──正妻であった。
「……な、何だと……?」
玉座に腰掛ける老王オルディニア四世は、自身の耳を疑った。今、この女は何と言った? 挨拶代わりに、国家の主権を譲れと言ったのか?
「あら、お耳が遠くていらっしゃるの? 可哀想に、お歳ですものね。よろしいですか、一度しか言い直しませんわよ? 『今日からこの国は私のコレクションの一領土になるから、早くその椅子を明け渡しなさい』と申し上げたのですわ」
アンジェライカは扇子で口元を隠し、おほほ! と高らかに笑った。その態度には、恐怖も、緊張も、微塵も存在しない。
あるのは圧倒的な格下を見下ろす絶対者の余裕だけだった。
「お、おのれ無礼な……! ここをどこへ心得る 人類最高峰の結界に守られた、オルディニア王国の王城なるぞ! いかに魔王の妻とて、単身で乗り込んできてタダで帰れると思うな!」
宰相のバルドが顔を真っ赤にして叫ぶ。彼の合図とともに、周囲を囲む総勢五十名の精鋭騎士たちが、一斉に聖銀の剣を抜いた。
「おい、その女を捕らえよ! 人質にすれば魔王軍との交渉も──」
「まぁ、騒々しい。少し黙ってくださる?」
アンジェライカが、ふぅ、と小さく溜息をつき、優雅に指先をパチンと鳴らした。その瞬間──謁見の間の空気が「自重」を失ったかのように激変した。
「が、はっ……!?」
「な、なんだこの、圧、は……ッ!」
床にひざまずき、文字通り圧殺されそうになる騎士たち。彼らの自慢の鎧が、目に見えない超重力によってミシミシと音を立てて歪んでいく。
床の白大理石には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、重圧だけで並の人間なら気絶しかねない魔力が空間を支配していた。
アンジェライカは、冷え切った笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と玉座へ向かって歩を進める。その足音だけが、静まり返った部屋にコツン、コツンと響く。
「勘違いしないでいただきたいの。私は『交渉』をしにきたわけではありませんのよ。ただの『通告』ですわ。それから……人質? ふふ、面白い冗談。あの宿六が、私を人質に取られた程度で動くとでも?」
彼女は傲然と胸を張り、言い放った。
「私が彼を置いて城を出てきた時点で、あの人は今頃『妻が退屈しのぎに人間界を滅ぼしにいった、どうしよう』と、ガタガタ震えて枕を濡らしていますわよ。……私を誰だと思っていまして? 魔王を尻に敷く女、アンジェライカですわ」
◇ ◇ ◇
重力に押し潰されそうになりながら、国王は必死に顔を上げた。
「く、狂っている……! だが、魔王の妻とて、我が国には『光の聖女』がいる! 魔族を滅ぼす神聖魔術の前に、ひれ伏すがいい!」
国王が叫んだその時、謁見の間の巨大な扉が、凄まじい光の波動とともに吹き飛んだ。
「そこまでです、魔王の眷属よ!」
現れたのは、純白の法衣を纏い、黄金の杖を握った少女──王国の守護者、聖女エレナだった。彼女が杖を床に突くと、アンジェライカが展開していた超重力の結界が、ガラスのように音を立てて砕け散る。
「あら、少しは骨のある玩具が出てきましたわね」
アンジェライカが不敵に微笑む。だが、聖女エレナの詠唱はすでに始まっていた。
「天に満つる清浄なる光よ、不浄なる闇を焼き尽くせ! 『セイント・レイ・ディザスター』」
刹那、謁見の間を真っ白な光の激流が埋め尽くした。魔族にとっては文字通り細胞を消滅させる、神聖極まる絶対の光。
激しい爆音と閃光が収まると、そこには床を深く穿たれた惨状が広がっていた。
「やったか……!?」
騎士たちが息を呑む。中心に立つアンジェライカのドレスは破れ、白く美しい肌には無数の切り傷が走り、そこから禍々しい闇の血が流れていた。
明らかに、聖女の一撃が直撃している。
「ふふ……あはははは!」
だが、静寂を破ったのは、アンジェライカの高らかな笑い声だった。
彼女は傷口から流れる血を優雅に指先で拭い、それを舌で舐めとる。その深紅の瞳には、恐怖など微塵もなく、ただ冷徹な愉悦だけが宿っていた。
「素晴らしいわ。少しは私を楽しませてくれるようね。でも、勘違いしないでいただきたいの。今のがあなたの『全力』かしら? だとしたら、あまりに安っぽくてあくびが出ますわ」
「な、何ですって……!? 聖属性の直撃を受けて、なぜそんな余裕でいられるのです!」
エレナの顔に焦りが走る。すかさず、エレナはさらに出力を上げ、第二陣、第三陣の光の雨を降らせた。
光の刃がアンジェライカの身体を容赦なく切り裂き、血飛沫が舞う。客観的に見れば、聖女が魔王の妻を圧倒し、追い詰めている戦況だった。
しかし、傷だらけになり、足元を血で染めながらも、アンジェライカの一歩は止まらない。それどころか、上から目線の傲然たる笑みは深くなっていく。
「痛覚? ああ、そんな下俗な感覚、私のプライドの前には存在しないも同然ですわ。人間の分際で、このアンジェライカに傷をつけたこと……その身誉、死を以て誇りなさいな」
アンジェライカが、ふぅ、と小さく溜息をつき、両手をそっと広げた。
「さあ、お遊びはここまで。私の『本物の魔力』を、その安物の眼球に焼き付けなさい」
突如、王城全体が、いや、王都の大地そのものが恐怖に震えるように鳴動を始めた。アンジェライカの傷口から流れていた血が、突如として漆黒の炎へと変貌し、彼女の身体を包み込んでいく。
破れたドレスが、より禍々しく、より華麗な極夜の魔装へと再構築されていく。
「な、何という魔力量……! 空間が、世界が悲鳴を上げている……!?」
エレナは本能的な恐怖に歯をガタガタと震わせ、必死に最大出力の神聖結界を展開した。
「滅びなさい、光の羽虫」
アンジェライカが指先を優雅に一振りする。ただそれだけで、空間そのものを削り取るような漆黒の極光が放たれた。
次の瞬間──王国最強を誇る聖女の絶対結界は、文字通り、一瞬で消し飛んだ。光の激流を遥かに凌駕する闇の奔流がエレナを飲み込み、彼女の黄金の杖を粉々に砕く。
「キャァァァァァッ!?」
悲鳴を上げて床に叩きつけられるエレナ。彼女は全身の魔力を枯渇させ、指一本動かすこともできずに、絶望の目で見上げることしかできなかった。
「ふふふ、やっぱり脆いわね。それでも、一時的にでも私のドレスを引き裂いたことだけは、褒めてあげるわ」
アンジェライカは、先ほどまでの傷など最初からなかったかのように、完全に再生した美肌を誇示しながら、倒れた聖女の頭を踏みつけた。
「さあ、オルディニア王。あなたの自慢の切り札は、私の退屈しのぎの前座にもなりませんでしたわ。次のお喋りの準備は、よろしくて?」
◇ ◇ ◇
アンジェライカは、ついに玉座の直前まで達した。彼女は上から王を見下ろし、実につまらなそうに鼻を鳴らした。
「本当に、人間のお偉い方というのは、揃いも揃って貧相な面構えをなさるのね。そんなに怯えなくて結構よ。私は、使えないゴミはすぐに処分しますけれど、鑑賞価値のある玩具は丁寧に扱いますの」
「わ、我らを玩具にする気か……!」
「光栄に思いなさいな。このアンジェライカのコレクションに加われるのですから。これからは、あなた方の流す血も、流す涙も、全て私のエンターテインメントですわ。……さあ、そこを退きなさい、おじい様」
アンジェライカは、王の襟元を掴むと、まるでゴミでも捨てるかのように軽々と玉座から放り投げた。
ドサリ、と床に転がる国王。そして彼女は、当然の権利であるかのように、オルディニア王国の象徴たる玉座に深々と腰掛けた。
足を優雅に組み、肘を突いて、部屋にいる全員を冷徹な瞳で見下ろす。
「ふむ……。座り心地は最悪ね。クッションの質が悪うございますわ。ルチア、明日までに魔界の最高級シルクに張り替えさせなさい。あ、この男たちの皮膚で織ってもよろしくてよ?」
『ルチア』と名前を読んだ次の瞬間、アンジェライカの足元の影から、ぬっと人影が現れた。漆黒の給仕服を着た、魔王妃専属メイドの特級悪魔、ルチアだ。
彼女は国王や騎士、大臣たちを一瞥した後、アンジェライカに向かって完璧なカーテシーを披露した。
「畏まりました。すぐに皮剥ぎの職人を手配いたします」
ルチアが淡々と恐ろしいことを言う。
「ま、待ちたまえ! 頼む、命だけは……! 何でもする! 納税でも、領土の割譲でも!」
床に這いつくばった宰相バルドが、ついにプライドを捨てて命乞いを始めた。アンジェライカはそれを見て、心底愉快そうに、しかし冷酷に言い放つ。
「何でもする、ですか? 随分と安い言葉ね。よろしい、ではまず……その騒がしい口を閉じなさい。私が許可するまで、呼吸以外の音を発することは禁じますわ。破ったら、その首を飾り皿にします」
バルドは慌てて両手で口を覆い、ガタガタと震えた。
「さて、オルディニア王国の哀れな子羊たち。今日からこの国は、魔王領ではなく『アンジェライカ領・第一庭園』といたします。あなた方の王は私。法律も私。神がかりな奇跡を信じるのは勝手ですが、その神とやらも、私の前ではただの引き立て役に過ぎませんのよ」
彼女が右手を軽く上げると、謁見の間の天井がメキメキと音を立てて崩壊し、美しい夜空が剥き出しになった。そこから降り注ぐのは、圧倒的な漆黒の魔力粒子。
「サタナスは優しすぎますの。滅ぼすか、生かすか、そんな二者択一しかできないなんて脳筋の証拠ですわ。私は、あなた方を『生かさず殺さず、最高に惨めで、最高に美しい私の奴隷』として飼い慣らして差し上げます」
圧倒的なカリスマ、そして底知れない悪意と美貌。それはまさに、魔王以上の絶望そのものだった。
◇ ◇ ◇
数日後。オルディニア王国の王都は、信じられないほどの静寂と「秩序」に包まれていた。
反乱を起こそうとした貴族たちは、初日に全員がアンジェライカ特製のアイスドール──生きたまま凍らせた彫刻──として街の街灯代わりに並べられ、それを見た民衆は完全に戦意を喪失した。
しかし、不思議なことに、略奪や虐殺は起きなかった。なぜなら、アンジェライカがそれを「美しくない」と禁じたからだ。
「私の庭が汚れるのは許しませんわ。人間どもは、怯えながらも、私を称えるためにせっせと働きなさい」
その言葉通り、人間たちは恐怖のあまり、以前よりも真面目に働き、街は奇妙な活気に満ち溢れていた。
そんなある日。新しく改装された麗しの玉座の間──クッションは超高級品に変わっている──に、一本の通信魔術が繋がった。
虚空に浮かび上がったのは、角を生やした、いかつくもどこか情けない顔をした大男のホログラム。
魔界の主、魔王サタナスである。
『ア、アンジェライカ……! お前、また勝手に城を出て行ったと思ったら、人間の国を一つ落としたというのは本当か!?』
通信の向こうで、魔王が頭を抱えて叫んでいる。アンジェライカは、ルチアに葡萄を口へ運ばせながら、面倒くさそうに目を向けた。
「あら、あなた。うるさいですわよ。せっかくのティータイムが台無しですわ」
『うるさいとは何だ! 不可侵条約はどうした! 他の魔族の大公たちが『魔王妃が暴走している、魔王は嫁もコントロールできないのか』と、私を突き上げてきているのだぞ!』
「あら、その程度の大公たち、全員まとめてミンチにしておしまいなさいな。できないなら、私が今から魔界に戻って、彼らの血で城の壁を塗り替えてあげましょうか?」
『ひっ……! い、いや、それは勘弁してくれ……』
魔王ともあろう者が、妻の脅しに本気で引き攣った顔をしている。アンジェライカはフッと鼻で笑った。
「あなた、勘違いしないで。私はあなたの妻ですけれど、あなたの部下ではありませんの。私は私のために世界を征服しますわ。まずはこの貧相な人間の国を一つ。次は、お隣の帝国かしらね?」
『ま、待て、帝国は我が魔王軍でも攻めあぐねている超大国だぞ! 結界も軍隊もオルディニアの比ではない!』
「それが何か? 私の前に立ちはだかるものは、結界だろうが神だろうが、ただの『障害物』ですわ。ルチア、次の標的への招待状(宣戦布告)の準備は?」
傍らに控えるルチアが、完璧な一礼とともに答える。
「既に。帝国の皇帝へ『明日、あなたの国を頂戴しに上がります。首を洗って、一番高い絨毯を敷いて待つように』との書状を送付済みです」
『早すぎるだろ行動がーーーッ!!』
魔王の絶叫を無視して、アンジェライカは通信をブチリと切った。
「さて、と」
彼女は玉座から立ち上がり、バルコニーへと歩を進める。
眼下に広がるのは、今や自分の所有物となった王都の夜景。そしてその先には、まだ見ぬ広大な人間界の大地が広がっている。
「世界中の人間、そして魔族の皆さん。精々、私を楽しませるために足掻きなさいな。魔王よりも傲慢で、華麗なこのアンジェライカが、全てを美しく支配して差し上げますわ!」
高笑いと共に、彼女の放つ漆黒の魔力が夜空を染め上げていく。
世界が彼女の足元で平伏するその日まで、傲慢なる女王の進撃は止まらない。
おしまい
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