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第二章

目を覚ました椛は、すぐに医者の診察を受けた。


そして診断結果は、頭を強く打ったことによる記憶障害。



椛は家族はおろか、自分自身のことも忘れていたのだった。


自分の名前も年齢も、これまでどのような人生を歩んできたのかすらも覚えていない。



幸い、日常生活に必要な知識は失われていなかったため、生活するのに支障はなかった。


それだけでも安堵すべきはずなのだが、義雄は唇を噛み、美代子は絶望で泣き崩れていた。



椛に自分たちの存在を忘れられたという事実が悲しいわけでない。


なんと、椛は異能が使えなくなっていたのだった。



自分には異能力があり、最強のあやかし祓いだったという記憶はもちろんなく、どのように術を生み出していたのかさえも自分でもわからなかった。



義雄は手取り足取り印を教えるが、そもそも印を結んだことのない椛にはいまいち感覚が伝わらなかった。


椛は独自の方法で術を発動させていたため、そのやり方を忘れてしまっては、自身で異能に関する記憶を取り戻さない限り、再び椛が異能者と名乗ることは難しかった。



「…そんなっ、どうしてこんなことに。椛が異能が使えないとなると、次の才格の儀は大丈夫なの!?せっかく最上位家系になれたというのに、降格なんていやよ!」


「落ち着くんだ。医者の話によれば、記憶が戻る可能性も十分にあるらしいのだから」


「でもそれが今日明日ならいいけれど、何年後、何十年後だったらどうするの…!」


「そうだったとしても、こうして喚いたところでどうにもならないだろう!」



椛が記憶喪失になり異能が使えなくなったことで、両親は言い争いが増えるように。


椛はその意味がわからず、ただぼうっと眺めているだけだった。



すると、椛の視界を遮るように楓が障子を閉めた。



「少しは静かにしていてほしいものよね」



楓はため息をつくと、椛の布団の前までやってきた。


そして、椛の顔を覗き込む。



「…本当に覚えてないの?」


「は…はい、すみません」


「やめてよ、そんな話し方。私たち、双子の姉妹なんだから」



クスッと笑う楓の顔が椛は妙に印象的に感じた。


あのふたりが両親と言われても、楓が双子の姉と言われても実感がわかないが、やさしく微笑んでくれる楓に椛は少し親近感がわいた。



翌日には、知らせを聞いた圭吾が見舞いにきた。


椛が記憶を失ったと聞いても半信半疑のままだった。



「…えっと、この人は?」



椛がそばにいた楓に問いかける。



「石井圭吾よ。優秀な異能者で、わたしたちの幼なじみなの」


「へ〜、幼なじみ…」



初対面のように椛が顔を眺めてくるため、圭吾は戸惑い固まった。



「か、楓…。椛は本当に記憶を…」


「…そうみたい。自分がだれなのか、どうやって異能を扱っていたのかすらも今はまだ思い出せないみたい」



それを聞いた圭吾は唇を噛む。



「くそっ。あのとき、オレが椛の代わりになっていれば…」


「圭吾、自分を責めないで。あんな状況なら、そばにだれがいたって同じよ。それに、圭吾がいてくれたから椛は早急に治療ができて命が助かったんだから」


「楓…」



自責の念に駆られる圭吾と、そんな圭吾を労る楓。


ふたりの様子を見て、椛はキョトンと首をかしけだ。



「もしかして、ふたりは恋仲なの?」


「「…なっ」」



突拍子もない椛の発言に、ふたりは顔を真っ赤にさせる。



「きゅ…急になに言い出すの、椛!圭吾はあなたの婚約者なのだから…」



表情の曇る楓。


圭吾も同じように気まずさで口をつぐんだ。



すると、椛は目と口を細め、あからさまに不快そうな表情を見せた。



「え〜…。わたし、この人と結婚したくないんだけど。だって、全然タイプじゃないし」



見定めるように圭吾の顔をまじまじと見つめる椛に、楓と圭吾は目が点になる。



「それに記憶失くす前のわたしは、本当にこの人のことが好きだったの?違うよね?だったらわたし、結婚なんてしなーい」


「…椛!結婚はお父さまが決めるものだから――」


「そうなの?でもこの人は婚約者というよりも、友達みたいな感じなんだよね。それなら、楓のほうが雰囲気合ってるし」


「私と…、圭吾が…?」



ふたりは見つめ合うと、同時に頬を赤らめた。



「ほら、やっぱりお似合いじゃん!それに、ふたりって好き同士なんだろうなーって見ていてすぐにわかるもん」



屈託ない椛の笑顔に、楓は目の奥が熱くなるのがわかった。


そして、ほろりとわずかに涙を流す。



「圭吾…だっけ?あなただって、記憶がないわたしと結婚なんて困るでしょ?ふたり、うまくいくといいねっ」



椛の言葉に楓と圭吾は気まずそうな表情を浮かべるが、ふと見つめ合ったとき思わず笑みがこぼれた。


そんなふたりを見て、椛は満足げにうなずいた。




椛が記憶を失ってから3日目の朝――。


心地よい小鳥のさえずりが目覚ましとなり、椛は布団から起き上がるとぐーんと腕を伸ばす。



「今日もよく寝た〜!」



気持ちのよい朝を迎えた椛だったが、横目になにかを捉えた。


それは、掛け軸の上をはうクモだった。



しかし違和感を感じた椛は、狙いを定めるようにクモに視線を合わせる。


そして、軽く指を鳴らすと一瞬のうちにクモは炎に包まれ消滅してしまった。



その正体とは、クモの形をしたあやかしだったのだ。



「虫とはいえ、西門家の屋敷の中にあやかしが入ってくるなんて。まあ、すぐに見つけたからよかったけど」



とつぶやいた瞬間、椛は我に返った。



「わたし…今、異能が使えた!?」



驚いたことに、椛はすべての記憶を思い出し、異能力も復活した。



最悪の場合、記憶は一生戻らない可能性もあると言われていたが、なんと椛はたった3日で記憶を取り戻したのだった。


昨日まで霧がかかったような視界だったが、自分が何者かを思い出した今は、見える景色が晴れ渡ったような気がした。



「な〜んだ。たいしたことなくてよかった」



ひとりのんきに笑っている椛の耳に、遠くのほうから足音が聞こえた。



「椛、起きた?そろそろ朝ごはんよ」



やってきたのは楓だった。



「あっ、楓。おはよう」


「おは…よう…」



記憶を失くす以前のような椛の振る舞いに、楓は一瞬違和感を覚えた。



「な、なんだか今日は気分がよさそうね。いい夢でも見た?」


「ううん。夢じゃなくて、ちょうどわたし――」



“記憶も思い出して、異能力も使えるようになった”



そう言おうとした椛だったが、とっさに口をつぐんだ。



椛は考えたのだ。


もしかしたら、このまま記憶喪失のフリをしてはどうかと。



椛が記憶喪失となり異能力も忘れてしまったとなり、西門家は大混乱。


最強のあやかし祓いという称号は危ぶまれ、椛の異能力を見込まれて石井家との縁談も決まってたというのに、今のままではそれも白紙になりかねない。



だが、椛はそれを望んでいたのだった。



楓と肩を並べるくらいの異能は望んでいたが、これほどまでの規格外の強さは求めていなかった。


椛の異能には頼れないとなると、きっと両親たちの期待は再び楓に向けられる。



そしてもちろん、異能力のない椛とは結婚できないと圭吾との縁談は破棄されるだろう。


そうなれば、椛の次に力のある楓が圭吾と結婚することになるのは椛でも想像はついた。



こんな力さえなければと何度も思ったことはあったが、幸か不幸か椛は一時的に記憶喪失になり異能力も使えなくなった。


椛が事実を告げない限り、周りはそう思い続けることだろう。



現に、両親たちが椛の部屋へくる回数は日に日に減り、その時間を楓の修行につぎ込むようになっていた。


楓は修行をつけてもらえるのがうれしいのか、厳しい修行であるはずなのに笑顔を見せていた。



『椛が異能さえ使えなければ…、私より才能がなければ…!お父さまやお母さまから褒められるのは、ずっと私だったのに!圭吾と結婚するのも私だったのに!』



あのときの苦しそうな楓の表情は今でも覚えている。


だから、今の生き生きとした楓の姿がまぶしくて、椛はこのまま口をつぐむことにした。




そうして、1ヶ月後。


一向に椛の記憶と異能力が戻らないと思っている両親は、楓にすべてを託すことにした。



石井家も椛ではなく楓との縁談に再合意し、晴れて楓は西門家の跡取りとして圭吾は結婚した。


結婚式での幸せそうな楓の表情に、椛はほろりと涙を流した。



しかし、もともとは力ある椛が圭吾と結婚するはずだった。


万が一でも、椛が異能を使えることが知られれば、ふたりを離縁させ、椛との結婚をやり直しさせる可能性も十分に考えられた。



そのため、椛はなにがなんでも力が戻っていることを知られるわけにはいかなかった。



「椛でないのは非常に残念だが、楓と圭吾くんなら西門家の未来も安泰だ」


「そうよ、あなた。楓だって、もともと優秀な異能者なのだから」



楓と圭吾の結婚に両親も笑みを見せている。



「楓、おめでとう。幸せにね」


「ありがとう、椛」



楓がこんなふうに笑いかけてくれるのも、椛にとっては久々だった。



皆が微笑むあたたかい家族。


椛が力を隠したことで、椛が望んでいたとおりになった。



しかし、それから数ヶ月たっても椛は記憶喪失のままだと思い込んだいる両親は椛に落胆していた。



「あなた、もしかして記憶を失ったときに、椛は“月影(つきかげ)”に力を奪われたんじゃないかしら」


「なにを言い出すかと思えば。月影は単なる迷信だ。それに、椛の中に力が残っていることは感覚としてわかるだろう」


「…ええ。それはそうだけど…」


「だから、あとは本当に記憶さえ取り戻せばいいだけなのだが…!」



すでに椛の記憶が戻っているとは知らない両親は、毎日歯痒い思いをしていた。



人がいない部屋でふたりが話しているのを椛も聞いていた。


それがわかっているからこそ、ますます椛はこの力のことは秘密にしたままにすると固く誓った。



そのあと、椛は書物が保管されている蔵へと向かった。


先ほど美代子が口にした“月影”のことが気になったのだ。



月影とは、昔から語り継がれている謎の存在だ。


月影に出会うと異能力を奪われると書物などで語り継がれている。



「【しかし、その正体は未だ不明】…か」



古い書物を読みあさりながら、椛はため息をついた。



異能力が使えることを隠すよりも、月影によって本当に使えなくなったほうが楽だと考えたのだ。


しかし見つけ出す手段もなく、迷信といわれているため本当に存在するのかもわからない。




こうして、季節は肌寒い風が吹く時期となった。


あれほど椛宛てに送られてきた縁談の文も、異能が使えなくなったという噂が出回ってからはピタリとこなくなった。



両親の興味関心は完全に楓に向けられ、椛は再び西門家では空気のような存在――。


いや、嫁に引き取ってもらえない居候のお荷物扱いだった。



しかし、これは椛が望んだことであり、椛は気にする素振りもなかった。



ところが、椛が予想もしていなかった展開が起こる。



ある日、義雄の部屋に呼ばれた椛。


中へ入ると、すでに美代子もいた。



「どうしたの?」



いつもと違う空気に、少々戸惑いを見せる椛。


まさか、記憶喪失のフリをしていることがバレたのではと内心は焦っていた。



「椛。お前があの事故で記憶を失ってから、半年近くがたった。あれから、とくに変化はないか?」


「そう…だね。相変わらず記憶は戻らないし、異能の使い方もまだよくわからなくて」



様子をうかがいながら話してみるが、どうやらバレているわけではなさそうだった。



「…話はそれだけ?だったら、わたし――」


「お前に縁談の話がきた」



義雄から告げられた予期せぬ言葉に、椛は一瞬固まった。



「え…?わたしに…縁談?」


「そうだ。相手は、馬場(ばば)家のご長男、清一(せいいち)殿だ。彼は堅実で――」


「ま…待って、お父さま。わたしは異能が使えないのに、嫁にほしがる家なんてあるの…?」


「馬場家は、あやかし祓いよりも治癒の異能を得意とする医療を生業としている中位家系だ。椛が異能を使えなくとも、異能力があるのなら構わないと言ってくださっている」



馬場家は主に、戦闘で傷ついたあやかし祓いたちを癒す仕事が主だった。


そのため、椛のあやかし祓いとして力はそれほど必要とはしていなかった。



ただ、椛と結婚すれば、最上位家系の西門家とは繋がりが持て、異能者である椛と清一との子も異能力を持って生まれてくる。


馬場家は、椛が異能を使えなくとも、その身に宿る異能力さえあればそれでいいのだ。



椛からすればそれだけでも納得しがたいというのに、さらに結婚相手の馬場清一は、椛たちの両親よりも年上の45歳という年齢だった。



「そんな理由で、わたしは結婚させられるの…?」


「あやかし祓いとして役に立たなくなり、もらい手がないお前をぜひにと言ってくださってるんだ。ありがたい話ではないか」


「…やだよ!それに、28歳も年上だなんて――」


「わがままを言うな!椛、お前は覚えていないかもしれんが、過去に圭吾くんとの縁談のときもこうして拒んでいたんだぞ!自分の意見を通せると思うな!親の言うことは絶対だ!」



椛はとっさに口をつぐむ。



言われなくても覚えている。


あのとき反発したのは、楓のためだったのだから。



それなのに、義雄は二度も縁談に口を挟むわがままな娘としか見ていなかった。



「嫌なら異能の使い方を思い出すんだな。それで楓より上と認められれば、今からでも後継ぎをお前に変えてやってもいいが」



異能なら、今すぐにでも見せることができる。


しかし、楓と圭吾の幸せを壊したくない椛はぐっと言葉を飲み込む。



「17の歳を迎えた娘は嫁に出すのが西門家の決まりだ。この屋敷はいずれ楓たちのものになる。ここに、お前の居場所などない」


「椛、清一さんは馬場家の次期当主さまになられる立派な方よ。それに、医療系の異能ならこれからも重宝されるでしょうし、一生暮らしに困ることはないわ」



美代子に励まされるも、椛は首を縦に振ることができなかった。



椛の思いとは裏腹に、縁談の話はとんとん拍子に進んでいった。




そして、両家顔合わせの日――。


椛は、華やかな牡丹柄の淡い桃色の着物を着せられていたが、その顔はどんよりと曇っていた。



この辺りでは有名な料亭にて、顔合わせがおこなわれる。



「馬場家の皆さま、本日はよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします。噂には聞いておりましたが、実にかわいらしい娘さんですね」



馬場家の現当主は、椛に目を向けにこりと笑う。


白髪混じりで顔にシワが目立つ馬場家当主は、義理の父というよりも椛には年齢的に祖父のように感じた。



そして、椛の向かいに座る、やたらと汗を流しながらニヤニヤと微笑むのがスーツ姿の男が、結婚相手の馬場清一。


歳の離れた将来の夫に、椛はなんとか愛想笑いをするので精一杯だった。



椛の隣には、正装した楓と圭吾が座っている。


さすがにそのふたりも、清一と縁談を勧められた椛を不憫に思う表情を浮かべていた。



会食をしながら、ふたりの今後について話をされる。


清一は緊張しているのかほとんど話さず、馬場家当主が主に会話を仕切っていた。



「椛さん、大変でしたね。記憶を失くされる前までは最強のあやかし祓いとして有名で。まさか、そんな方がウチのような中位家系に嫁いでくださるなんてうれしい限りです」


「こちらこそ、嫁に選んでくださりありがとうございます」


「いえいえ。清一は二度ほど結婚に失敗はしているので、本当にウチでいいのかとは思ったのですが…」


「そんなそんな、ウチも似たようなものです。異能が使えないとわかってからはもらい手がなくなり、こうして馬場さまとのご縁があったことに感謝しております」



盛り上がっているのは父親たちだけで、椛は一切笑わなかった。


そのまま椛の苦痛な時間は続き、ようやく水菓子が運ばれてきた。



「そういえば、ここは隅々にまで手入れの行き届いた庭が有名のようですな」


「そうですね、広々としているので見て回るだけでも楽しいでしょう。そうだ、椛。このあと、清一くんとふたりで散歩に出かけてはどうだ?」


「…ぇ゙」



やっと帰れると思った椛は変な声を漏らす。



「それはいいですね。ちょうど今日は暖かいことですし。清一、椛さんをしっかりエスコートするんだぞ」


「は、はいっ」



清一は裏声になりながら返事をすると、ハンカチで汗を拭った。



…ああ、なんでこんなことになってしまったのだろう。



椛は死んだ魚のような目をして、清一をぼうっと見つめていた。



「い…いい天気ですね」


「そうですね」


「寒くありませんか…?」


「大丈夫です」



庭をふたりで歩くも、椛は表情を変えることなく無機質な返事をするだけ。


女性の扱いに慣れていない清一は、会話が続かないことにたじろいでいた。



「も、椛さん…。あの…」



そのとき、椛は清一が手をつないでこようとしたのを察知してとっさに身構えた。


拒まれたと思った清一は、あからさまに悲しげな表情を浮かべた。



「あっ…、いや…その。わ、わたし、お手洗いに行ってきますね…!」



椛は適当な理由をつけて、その場から逃げた。



まさか、あんなに悲しそうな顔をするとは思わなかった。


どうしたものかとひとりで椛は庭をさまよっていると、玄関のところで楓と会った。



「あれ、椛。清一さんは?」


「あっちにいる。お手洗いに行くとか言って逃げてきちゃった。楓は?」


「私たちもお庭の散策をしようと思って。それで、ここで圭吾の支度を待ってるの」



楓の振る舞いは、余裕のある姉夫婦というように椛からは見えた。



「…ねぇ、楓。お願いがあるんだけどさ」


「なに?」


「お父さまにこの縁談、破談にしてもらうように頼んでくれない…?わたし、屋敷にいてもふたりの邪魔だけは絶対にしないからさ…!」


「…なに言ってるの、椛。そんなの無理に決まってるじゃない」


「そんなのわからないよ…!後継ぎの楓の言うことなら、もしかしたらお父さまも――」



椛は、自分でもなにとんでもないことを楓に頼んでいるのだろうと思った。


しかし、あとはこれくらいしかこの縁談を白紙に戻す方法は思いつかなかった。



「ごめん、椛。どんなにお願いされても…聞けないわ」


「…どうしてっ」


「椛が馬場家に嫁いでくれたら、医療系の異能のノウハウを教えていただけるかもしれない。お父さまはそれが目的よ。西門家にも利がある結婚に、私がわざわざ反対なんてできないわ」


「そんな…」



椛は目の奥が熱くなり、喉がキュッと詰まった。



「ひどいよ…、楓。わたしは、楓と圭吾が結婚できるように、あのときお父さまに――!」



そう口走りかけて、はっとして手で口を覆った。



「…あのとき?」



楓は不思議そうに首をかしげる。



感情的になってしまい、思わず口が滑るところだったが、あのとき何度も結婚について義雄に訴えかけていたのは椛が記憶を失くす前。


そのときの出来事を引き合いに出すと、記憶が戻っていると自ら明かすようなものだ。



「ごめん…、なんでもない」



椛はぐっとこらえて唇を噛んだ。



「椛、早く清一さんところに戻ってあげたほうがいいわよ。きっと椛のこと待ってくださってるだろうから」


「…わかってるよ、そんなこと」



言葉を吐き捨てた椛は楓に背を向けた。



とは言ったものの、楓は清一のもとへは戻らなかった。


気づいたら、料亭の敷地外にいた。



逃げ出したって無意味なことはわかっている。


だが、どうしてもあの空間にいることができなかったのだ。



椛はひとまず宛てもなく歩きながら、これまでの経緯を振り返っていた。



椛が記憶喪失で異能が使えないとなり、両親の期待は再び楓に向けられるように。


楓はそれがうれしく、椛に代わって術の修行に励む楓の姿を見て両親も笑みを見せていた。



椛に対する嫉妬もなくなったのか、楓も椛への接し方がやわらかくなった。



しかも、後継ぎは楓に決まり、楓は圭吾と結婚。


相思相愛だったふたりが結ばれた。



両親も楓も圭吾も、みんなが笑っていた。



これが、椛の理想の家族だった。


こうなることを願って、椛は記憶喪失のフリをし続けてきた。



ところが、陰で画策していた椛は28歳もの年上の男との縁談話を進められるハメに。



以前のように、家族に笑顔になってほしい。


以前のように、双子の姉と仲いい姉妹に戻って、姉の幸せを願いたい。



そのためによかれと思ってついた嘘で、どうして自分だけがこんなことになってしまったのだろうか。


椛は何度も何度も自分に問いかけた。



「…こんな家、もういやだっ」



悲しみと悔しさで椛は血が滲むくらいにギリッと下唇を噛みしめた。



そのとき、茂みからなにかが現れた。


それはオオカミの形をしたあやかしだった。



さらに次々と茂みから現れ、なんと椛はあやかしの群れに取り囲まれていたのだった。



凶暴なオオカミのあやかしの群れに囲まれては、経験あるあやかし祓いでも足がすくむほど。


しかし、椛は臆するどころか指をポキポキと鳴らし、不気味に口角を上げる。



「ちょうどイライラしてたところだったの。悪いけど、わたしの憂さ晴らしに付き合ってもらうから」



一斉に襲いかかってくるあやかしたちに向かって椛はニヤリと微笑んだ。



椛は溜まった鬱憤をぶつけるように、次々と異能であやかしを滅していく。


結局、ものの数分で50体以上で構成されていた群れをひとりで難なく片づけてしまった。



「…はぁ。ちょっとはスッキリできたかも」



と言いつつ、まだ暴れたりなかった。



「もっと他にいないのかな。今の倍以上の数を一度に倒さないと物足りな――」


「驚いた。さっきの数を瞬殺するのも相当なものなのに、まだ力が有り余ってるんだな」



突然、背後からそんな声が聞こえて椛はビクッと肩を震わせた。


恐る恐る振り返ると、そこにいたのは黒の袴姿の男だった。



「あなたは…?」



そうつぶやいてみたが、紫黒色の短髪に黒い丸レンズの眼鏡に見覚えがあった。



「…もしかして、天道蒼紫!?」


「へ〜、俺のこと知ってるんだ」



有名人の登場に、驚いた椛は一歩後退りをした。



「も、もちろん知ってます。天道家を知らない異能者なんていないでしょうし」


「そんなに有名なんだ、ウチ」



どこか気の抜けた飄々とした態度は忘れるわけがなかった。



「そういうお前は、西門椛だろ?」


「え…、ええ。どうして、わたしのこと…」


「そりゃ知ってるさ。印を結ばずに高度な異能を生み出す“最強のあやかし祓い”。そっちこそ、その名を知らない異能者なんていないんじゃないか?」


「…そうでしょうか」



椛は顔を曇らせる。


最強のあやかし祓いという呼び名など、今となっては昔の話だ。



「でもたしか…。最強のあやかし祓いだった西門椛は、事故が原因で記憶喪失になり、自身に関すること、異能の使い方をも忘れてしまったと聞いていたが――」



椛は心臓がドキッと飛び跳ねた。


そして気配を感じて瞬時に振り返ると、すぐそばにニヤリと微笑んで椛を見下ろす蒼紫が立っていた。



「さっきのあのとてつもない威力の異能の数々はなんだったんだろうな?」



蒼紫に詰め寄られ、椛は後退りをする。


しかし、背中に木が当たり、椛は逃げ場を失ってしまった。



異能が使えることを蒼紫に見られてしまった。


椛がその秘密を絶対に守らなければならなかったのは、家族関係を修復するためだけではなかった。



力に目覚め、力がある以上、あやかしの脅威から民を守ることはあやかし祓いとしての使命。


もし、力があるのにもかかわらずそれを隠したり、使命に背くようなおこないをすれば罪に問われるのだ。



しかも、秘密を知られてしまったのは神のような一族として異能家系全体から崇められる最上位家系の天道蒼紫。


天道家の言葉は帝の次に権力があるとも言われ、蒼紫が真実を打ち明ければ、椛が即刻捕まるのは確実だった。



眠らせることができる異能もあり、最悪それでなにかの見間違いだと言い訳をすることもできなくはなかった。


しかし、最上位家系に君臨し続ける異能者は、異能者の中でも異常に強く、椛でさえも術をかけられるかはわからない。



それに、もし天道蒼紫に術をかけようとしたことがわかれば、それこそ大問題だ。



「なるほどな。本当は異能が使えるのに、使えないフリをしてたのか」



顔をそらすも、蒼紫の視線が突き刺さる。


椛は緊張でごくりとつばを飲み込むので精一杯だった。



「あの…。お願いですから、今回のことは見逃してもらえませんか…」


「見逃す?俺が?」


「…は、はい。そのためならわたし、なんだってします…!だから、どうか…このことだけはっ…」



涙声で言葉に詰まる椛に、蒼紫は満足そうに微笑む。



「なんでもするのか。だったら――」



無理難題を強要されると覚悟し、椛はぎゅっと目をつむった。


しかし、そんな椛の顎をクイッと持ち上げた蒼紫はこう言った。



「俺がこの家から連れ出してやる。その代わりお前の力、俺のために使ってもらう」



椛は間抜けなほどに目が点となって蒼紫を見つめていた。



「…は?…へ?」


「なんだ、その気の抜けた返事は。印を結ぶ必要のないお前の力は使えるからな。嫁にするにはちょうどいい」


「よ…、嫁!?」


「そうだ。俺はお前の秘密は一切口外しない。その代わり、お前はその力を俺のために使う。つまり契約結婚だよ」


「…契約結婚!?」



椛は理解が追いついていなかった。


他者には話さない条件として、とてつもない仕置きが待っているものだと覚悟していたのだから。



「いやなんだろ?今の家が。さっきぼやいていただろ」



蒼紫に言われてはっとする。



『…こんな家、もういやだっ』



すべてに絶望してつぶやいたひと言だ。



「もしかして、そのときからわたしのことを…」


「ああ。ものすごい数のあやかしの気配を察知したから行ってみるとお前がいて、助けてやらないとなと思ったら嬉々として滅してるんだから驚いたよ」


「いや、べつに嬉々としてはなかったですけど…」



オオカミのあやかしの群れを感情的のままに滅していたが、蒼紫にはそのように映っていたようだった。



「でも契約結婚って言ったって…。わたし、もうすぐ結婚するんです」


「知ってる。28歳も年上のおっさんとだろ?」



『どうしてそれを』と言いたそうな顔をしている椛を見て、蒼紫はプッと吹き出す。



「さっき、料亭の従業員が話してるのが聞こえたんだ。もう一組がそんな年齢差だって。俺も今さっきまで、あそこで顔合わせしてたんだよ」



それを聞いて、蒼紫が袴姿だということに椛は納得した。



「でも…、あなたはいいんですか?そちらも縁談の話だったんですよね?」


「ああ、それはいいのいいの。もともと結婚する気なんてなかったし」


「それなら、どうしてわたしに契約結婚の話なんて――」


「だから言っただろ?俺がほしいのは、その特別な異能力。それで秘密が守られるんだから、悪い話じゃないはずだけど」



勝手に話を進めようとする蒼紫だが、いきなりそんな話を持ちかけられた椛は「はい、そうですか」と簡単にうなずくことはできなかった。



「なにを迷う必要がある」


「…だ、だって。わたしの判断だけでは決めれないですし…」


「そんなの、自分の人生なんだから自分で決めればいいだろ」



あれほど義雄には勝手に決めるなと言っていたが、いざとなると椛は判断に迷っていた。



「天道家との繋がりが持てるんだから、反対する親なんていねぇよ。それに俺、わりと男前なほうだと思うけど」



自分で自分を褒める蒼紫に、椛は思わずクスッと笑ってしまった。



「それともなんだ?あのおっさんのほうがいいっていうのか?」



その言葉に、椛は清一の顔を思い出してしまった。


頭を横に振り、なんとか打ち消す。



「…本当に、黙っておいてくれるんですか」


「もちろんだ、約束は守る。それに考えてみろよ。俺だってお前の力が必要なんだから、わざわざ突き出すわけないだろ」



それを聞いて、たしかにと椛は自分に言い聞かせる。



天道蒼紫に前に一度見たことがあるだけで、今回が二度目。


よく知りもしない男と結婚なんて、抵抗がないわけがなかった。


しかし、よく知りもしない男なら清一も当てはまる。



蒼紫と清一を天秤にかけたとき、蒼紫にはさらに“秘密を知られた”というとてつもない重りが追加される。


――答えは明白だった。



誠一との婚約を破棄し、あの家から出られるのなら…。



「…わ、わかりました」



椛は、ドクンドクンと暴れる心臓を落ち着かせるために胸にそっと手を置く。


そして、力強いまなざしで蒼紫を見上げた。



「わたしは、秘密を守るため――」


「俺は、あんたの力を欲するため――」



ふたりは示し合わせるように見つめ合う。



「「契約結婚をしよう・しましょう」」




こうして椛は、突然現れた男――天道蒼紫の妻になることを決めた。

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