36 その先にある幸せ
その日、アルベール王国は新国王の即位で賑わっていた。
「本日は誠におめでとうございます、陛下」
「ありがとう、ベルトイア公爵。これからもそなたの力を、頼りにしている」
「ありがたき幸せでございます」
新国王の執務室で、デスクを挟んで向かい合っていた男たちはしばし沈黙した後、二人ほぼ同時にはーっとため息をついた。
「ああ、やめだやめ! おまえにそんなことを言われると気持ち悪くて吐き気がする!」
「なんと、それは私も同意見です。せっかくの新国王陛下の執務室で嘔吐騒ぎを起こさないためにも、堅苦しいことをするのはやめましょうか」
「そうする」
新国王ヴィジリオはやれやれと肩を落とし、立派な椅子にだらりと座った。
本日、王太子ヴィジリオが父王の跡を継いで新国王に即位した。
先代国王はまだ健康そのものだが、ここ数年での息子の成長を見て若い世代に後を託そうと思ったようだ。先代国王は息子の即位を見届け次第、田舎に引っ込んで悠々自適生活を送るそうだ。
また国王の代替わりに先立って、エドアルドは正式にベルトイア公爵位を継いでいる。
エドアルドが王宮に来て十年近く、彼と王太子の仲は険悪だった。だが聖女マリネッタまわりの事件を通して二人は衝突しあいながらも互いを認めることができ、今ではエドアルドはヴィジリオにとって最も信頼できる重鎮としてそばに控えていた。
「陛下も無事即位されましたし、あとはお妃を迎えていただくだけですね」
「口で言うのは簡単だろうが、私は理想が高い」
それに、とヴィジリオはエドアルドを指さした。
「いざとなったら、おまえの子を養子にして王位を継がせればいいからな。急ぐつもりはない」
「は? うちの子はうちの子です。陛下にあげたりしませんよ?」
「……そう言うだろうとは思っていた」
ヴィジリオはからかうように言うが、エドアルドとしては国王の気持ちもなんとなくわかっていた。
……五年前、ヴィジリオの婚約者だったマリネッタが失脚した。
彼女は罪を認め、王国北端にある修道院での幽閉処分を受けている――受けているということになっている。
だが実際には、彼女は護送中に変死を遂げていた。護送係の神官曰く、自力で馬車の鍵を開けて脱走したものの、夜盗かなにかに襲われたらしいとのことだった。
盗賊にしては心臓の一突きだけで確実に命を奪っている点が気になったが、アルベール王国としてはこの事件を表沙汰にしたくなかった。
よって一般に向けては、マリネッタは修道院にいることになっている。
彼女が死んだことを知るのは先代国王とヴィジリオ、エドアルドとその妻のルーチェくらいだ。
ルーチェには知る権利があるだろうと思い、エドアルドは悩みながらも妻にマリネッタの死を告げた。
ルーチェは驚きこそしたものの取り乱したりはせずただ静かに真実を受け入れていたし、それ以降彼女がマリネッタの名を話題に出すこともなかった。
ヴィジリオとマリネッタの関係は婚約当初から冷めていたというが、だからといって新しい婚約者をほいほいと迎えられるほど器用な男ではなかったようだ。
いつか、ヴィジリオのことを本当に愛し支えてくれる女性と出会ってほしい。
彼の従弟として、臣下として、エドアルドはそう願っていた。
エドアルドが離宮に帰ってきたのは、即位記念式典の日の夕方のことだった。
「ははうえ。ちちうえ、おかえり?」
「ええ、もうすぐ帰ってくるわ」
ルーチェが今年で三歳になった息子を抱き上げてフェミアに渡したところで、玄関で音がした。
「エド様!」
「ただいま、ルーチェ。いい子にしていたか?」
「はい。おかえりなさい、エド様」
ぱたぱたと玄関に向かったルーチェを、エドアルドは優しく抱きしめてくれた。そして『おかえりなさい』『ただいま』のキスをそれぞれ交わし、視線を重ねて抱きあう。
「式典の方は、つつがなく進みましたか?」
「ああ。陛下も意欲に満ちているようだった。また落ち着いてから、こちらに挨拶に来てくれるそうだ」
エドアルドはそう言って、妻のお腹をそっと撫でた。まだ膨らみはそれほど大きくないものの新しい命が息づくそこに触れながら、「ただいま、父上だぞ」と優しく呼びかけている。
ルーチェがエドアルドと結婚して、五年経った。
ルーチェが二十歳のときに生まれた息子のジョエレは目の色がハシバミ色なこと以外はエドアルドにそっくりで、少しやんちゃなものの健康で真っ直ぐな子に育っている。
二人目がお腹にいることがわかったのは先日のことで、当初はルーチェも即位記念式典に出席するつもりだったがエドアルドが猛反対した。ヴィジリオも「妊婦なのだから、自分の体を大事にしろ」と言ってくれたので、お言葉に甘えてジョエレたちと留守番をすることにした。
エドアルドとヴィジリオはすっかり打ち解けたようで、数年前の険悪な従兄弟の関係はもう影も形もなく今では軽口を叩きながらも互いを支え切磋琢磨しあう主従兼友人の関係になっているそうだ。
(……まさか、こんな未来になるとは思わなかったわ)
夫に腰を抱かれて廊下を歩いていると、フェミアに抱っこされたジョエレが父親を見て「ちちうえ!」と喜びの声を上げた。
「おかえり、ちちうえ!」
「ただいま、ジョエレ。よし、お父様が高い高いをしてやろう」
エドアルドはフェミアから息子を受け取って、肩の上に軽々と乗せた。身長の高い父親に肩車されたことでジョエレは弾んだ声を上げ、二人は親子そっくりの顔で笑いあっている。
……最初は、ただそばにいられたらよかった。
ルーチェはそんな初恋の人と結婚して、子どもが生まれた。その頃、エドアルドがベルトイア公爵に就任したためそれを機に、これまで住んでいた居城から王都の外にある離宮へと引っ越した。
かつてルーチェとエドアルド、そしてオルテンシアとシルヴィオが一緒に暮らしていた、エドアルドの生まれ育った城。
もともとシルヴィオのものだった離宮をエドアルドが正式に引き継ぎ、ベルトイア公爵家のカントリーハウスにしたのだった。
「……そうだ。次の子が生まれてからでいいのだが……いずれ、父上と母上の墓参りに行かないか?」
ジョエレを楽しませようと体をゆらゆらさせていたエドアルドが、そんな提案をした。
彼の両親は、この離宮で亡くなった。本来ならシルヴィオは王家に連なる者専用の墓に葬られるのだが、そうなるとオルテンシアと離ればなれになる。王家の慣例かなにかに引っかかるそうで、オルテンシアはその墓地に葬れないのだという。
だがそんなことをすればシルヴィオがあの世から呪詛を垂らしてきそうで、二人の墓は森の奥にある小さな家の庭に作られた。
今から三十年近く前に、若い頃のオルテンシアとシルヴィオが出会ったという場所。
そして幼いルーチェがオルテンシアと共に一年間暮らした家だ。
「まだ、ジョエレもあの家には連れていっていないからな。父上と母上に、俺の子どもたちを紹介したい」
「素敵ですね。私も、師匠や旦那様に報告したいことがたくさんあるんです」
ルーチェは微笑み、夫の胸に身を寄せた。
オルテンシアは、とても破天荒な人だった。奔放で自由人で、はすっぱなところがまた魅力的な女性だった。
オルテンシアなら、「実は私、人生をやり直しているんです」と報告しても案外、笑いながら信じてくれるのではないだろうか。
(私は、全部を守った。守り抜いてみせたわ)
ルーチェは今でも、体調がいい日は司祭として大聖堂のおつとめに出向いている。
ルーチェのそばには、フェミアやテオがいる。……どうやら二人は最近いい仲になっているらしく、エドアルドと二人でこっそり応援しているところだ。
そしてルーチェには愛情に溢れた夫と、かわいい息子、そして来年には生まれるだろう次の子がいる。
マリネッタのことは、もう振り返らないことにしている。
護送馬車から逃げ出したものの、盗賊に襲われて死亡していたというマリネッタ。
彼女について、触れない、話題に出さない。
それがルーチェにできる、マリネッタへの弔いであり最後の復讐でもあった。
(私は、前を向いて生きていく。守るべき人たちを守りながら……もっともっと、強くなる)
「……エド様、愛しています」
ルーチェがそうささやいて夫の唇にキスをすると、それを目撃したジョエレが「ひゃっ!」と嬉しそうな声を上げた。
「ははうえ、ちちうえにちゅーしてる!」
「ええ、そうよ。大好きです、の気持ちを込めたチューよ。……いかがでしたか、公爵閣下?」
少しおどけるように、甘えるようにエドアルドを見上げて微笑むと、不意打ちを受けたエドアルドはしばし呆然とした後に、「やられたな……」と苦笑した。
「今すぐ君を抱きしめて独り占めしたいけれど、ジョエレもお腹の子どももいる。……反撃されないと確信した上での犯行だとしたら、さては君はかなりの策士だな?」
「あら、なんのことでしょうか?」
「ふふ、とぼける姿もかわいらしい」
エドアルドは微笑み、おかえしとばかりにルーチェの唇にキスをした。
「……俺も愛している、ルーチェ。俺の天使。俺の……初恋の人」
空いている方の腕でルーチェを抱き寄せ、エドアルドが幸せに満ちた声で言ったのだった。
本編はここで終わりです
この後、『ある男』のお話に続きます




