35 報復
冗談じゃない、とマリネッタは毒づく。
つい数日前までは、美しい聖女のローブを着ていられた。周りには忠実な部下たちがおり、きらびやかな部屋で贅沢に暮らせた。
それなのに。
今のマリネッタは粗末な薄手のぼろを着せられ、髪もぼさぼさのまま手入れもしてもらえない。薄っぺらな靴越しに木のささくれがよくわかる馬車の床板は粗末で、腰掛ける座席は硬すぎて既にお尻の感覚がなくなっている。
今、マリネッタは北の修道院に向けて護送されていた。これまでの人生で一度も乗ったことのない、荷馬車のような汚い馬車に乗せられて、幽閉先へと連行されている。
冗談じゃない、とマリネッタは唇を噛みしめる。
なにもかも、手に入れるはずだった。
あの、輝くばかりに美しい貴公子の、エドアルド。彼こそ、マリネッタの隣を飾るにふさわしい芸術品だと思った。
あのドブネズミのように貧相なルーチェ・ベルトイアから彼を奪い、誘惑して、あわよくばあの陰険な王太子を倒して王妃として迎えてほしいと思っていた。
それなのに、なに一つうまくいかなかった。
かつてはマリネッタを聖女とあがめた人たちが、皆手のひらを返した。大司教でさえ、マリネッタに擁護の言葉一つ与えてくれず背を向けていった。
「あの、ドブネズミが……!」
ぎりぎりと歯を噛みしめ、既に爪を噛みすぎてぼろぼろになった指先をくわえる。
こんなはずじゃなかった。
マリネッタは、こんな末期を迎えるべき人物ではなかったのに。
修道院に幽閉というだけでも最悪なのに、その路程も腹の立つこと続きだ。
本来ならこんな夜中なら、どこかの宿で休んでいた。それなのに今日の宿泊先で出火騒ぎがあり、マリネッタの姿を他の者に見られてはならないということで、夜だというのに再び馬車に揺られることになったのだ。
……なにもかも、腹が立つ。
「わたくしは、こんなところで死にたくないのに……!」
呪詛を吐いていたマリネッタは、ふと気づいた。
頑丈に鍵がかけられているはずの馬車のドアが、少しぐらついていることに。
微かな期待を込めて、マリネッタはドアに手をかけた。ギッギッと音が響いたが、やがてカチャン、と小さな音がした。
……鍵が、開いた。
マリネッタの淀んだ思考が、ぱっと晴れる。
そしてさらに幸運なことに、馬車の前方で護送係の神官が「わっ!」と叫んで馬車を急停車させた。
「倒木だ。皆、来てくれ!」
どうやら馬車の進行方向に、大きな木が倒れているようだ。木を起こすために、馬車の周りにいた神官たちも次々に前の方に向かう。
……神は、まだマリネッタを見捨てていなかったようだ。
マリネッタはすぐさまドアを押し開け、そこから滑り出た。
予想どおり護送係の神官たちは倒木を起こすのに集中しており、まさかドアの鍵が開きマリネッタが脱走しているとは思いもしないようだ。
マリネッタは息を潜めて馬車から距離を取り――そしてもういいだろう、と思ったところで、走りだした。
は、は、と白い息を吐き出しながら、マリネッタは笑い声を堪えることができなかった。
「はは……出られた……出られたわ!」
神はきっと、マリネッタに道を示しているのだ。
ここから逃げて、自由になれ、おまえにはその権利がある、と。
「……ああ、そうだわ。あの、ドブネズミ……」
馬車からかなり離れたところで足を止め、はあはあ息を吐き出しながらマリネッタは笑った。
せっかく脱走できたのだから、まずは王都に戻りたい。
そうして……あの憎きドブネズミを、始末する。
「ふふ、殺してあげる。わたくしを愚弄したことを、後悔させてやる……!」
ふらふらと歩きながらマリネッタは笑っていたが、ふと、目の前に人影があることに気づいた。
時刻は夜で、星明かりもほとんどないためあたりは闇に包まれている。
そんな中、頭からすっぽりとフードを被ったその人は、まるでマリネッタの前で通せんぼするかのように立ち塞がっていた。
「……そこをお退き!」
マリネッタが尊大に命じるものの、人影は動かない。生意気な人間を突き飛ばしてやりたかったが、どうやら相手は男性のようでマリネッタよりも大柄だ。
こんなところで、道草を食っている暇はない。
マリネッタは動こうとしない男性に舌打ちしつつ、その横を通り過ぎようとしたのだが――
――ドッ、と胸に衝撃が走った。
「……ぅ、え?」
衝撃でよろめいたマリネッタはそこで初めて、自分の胸にナイフが突き刺さっていることに気づいた。
もともと肉付きの薄い彼女の左胸に刺さったナイフは胸骨を上手にかわし、心臓を貫いている。
「……ぁ」
じりじりとした痛みが遅れて襲ってきて、マリネッタは膝をついた。
力なく仰向けに倒れたマリネッタの視界に濃紺の夜空が広がったが、間もなくぬっと入り込んできた影によって覆われる。
真っ暗なので、顔立ちはよくわからない。
マリネッタに馬乗りになったフードの男はナイフの柄に手をかけ、そしてマリネッタの耳元に唇を近づけて、言った。
「――」
「っ!?」
びくん、とマリネッタの体が震える。
その青色の瞳には、恐怖の色が浮かんでいた。
「ど、うして、それを――ぐあっ!?」
言葉の途中でナイフが引き抜かれ、びしゃっと鮮血が噴き出る。
がくがく震えた後に動かなくなったマリネッタの遺骸から立ち上がった男は、ナイフを地面に放った。
……少し離れたところから、馬の蹄の音がする。犯罪者が逃亡していることに気づいた護送係が、やってきたようだ。
男はマリネッタの遺骸に背を向け、歩きだした。
次第に足を速め――その姿は間もなく、夜の闇に完全に溶け込んでいった。
――声がした。
「……ん?」
ルーチェは、ゆっくりとまぶたを開いた。
場所は、王城にあるエドアルドの居城。
あたりは真っ暗な闇で包まれていることから、まだ夜中だろうとわかる。
目を覚ましたルーチェの体に、ずっしりと重いものが乗っかっている。それは夫の腕で、今日も今日とて妻を丹念に甘やかし抱き潰したエドアルドは夢の中にいるようだ。
ルーチェは夫を起こさないように気をつけつつ自分の胸に乗っかる彼の腕をどけ、ベッドから降りた。そうして窓の方に向かい、そっと窓ガラスを押し開ける。
夜風が吹き込み、レースのカーテンをさらり、さらりと揺らす。
星明かりに照らされた城下街は美しく、ルーチェは窓の桟に腕を預けてしばし、その光景を眺めていた。
(……誰かに、名前を呼ばれた気がしたわ)
汗で少し湿っている髪を夜風に遊ばせながら、ルーチェは考える。
先ほど、誰かに名前を呼ばれたと思ってルーチェは目を覚ました。だが唯一ルーチェの名前を呼びそうな夫は夢の世界に旅立っていたし、窓を開けたからといって誰かの声が聞こえるはずもない。
不思議な声だった。
男のような、女のような。年老いているような、若いような。
懐かしいような……それでいて、ちょっと腹立たしいような、そんな声だった。
「ルーチェ」
ふと背後から声がかかり、ルーチェの体が後ろからしっかり抱き込まれて裸の胸元に引き寄せられた。
「そんな格好で窓辺に立ってはいけない」
「大丈夫ですよ。誰も、見たりしません」
寝起きのためかいつもより舌足らずな夫の腕を撫でながら言うが、エドアルドは「いや」とルーチェのつむじにぐりぐりと頬を擦りつけながら言う。
「神々が、地上に落っこちていた天使を見つけて天上に連れて帰ろうとするかもしれないだろう」
「私はどこにも行きませんよ」
体の向きを変えて、ルーチェはエドアルドの胸にそっと寄り添った。
「ここが……私の居場所なのですから」
「ルーチェ……」
暗い寝室で、ルーチェとエドアルドは互いの瞳を見つめる。
そしてどちらからともなく顔が近づき、軽いキスが交わされた。
「ベッドに戻ろう、俺の天使。また逃げ出されてはかなわないから、朝まで離してやらないからな」
「ふふ、わかりました。でも……窓は、開けていていいですか?」
エドアルドの頬を撫でながらルーチェがお願いすると、彼はうなずいてから妻の腰を抱き、ベッドに向かった。
さらり、さらり、と風がカーテンをくすぐる。
(おやすみなさい。……誰かわからない、あなた)
夫の腕に抱かれながら、ルーチェは再び目を閉ざした。




