29 『奥様リフレッシュデー』②
「大丈夫ですか?」
思わずルーチェが声をかけると、フードで包まれたその人がさっとこちらを見て――ずるっと足が滑った。
「きゃっ!」
「っ!」
彼はとっさに身をよじったが、その拍子にフードの端がテオの肩当ての端に引っかかってしまった。
フードの布地が引っ張られて、ばさりとフードが後ろの方に倒れ――
「あ、あなた……」
「っ……見ないでくれ!」
すぐさま彼はフードを前に引っ張ったので一瞬のことだったが、見えてしまった。
彼の顔が、ひどく腫れ上がっているのが。
(もしかして、怪我……!?)
「テオ、さっきこの人の顔とぶつかったの!?」
「えっ!? いえ、肩だけです!」
思わずルーチェが問うが、テオはとんでもないとばかりに首を横に振る。
(でも、ひどい怪我だったわ……)
「あの、あなた、大丈夫ですか?」
テオとぶつかったせいではないとわかっても不安でルーチェが問うと、呆然とその場に立ち尽くしていた男性は、うつむいたままうなずく。
「……お見苦しいものを、お見せしました」
声はしわがれているが、そこまで年を感じない。ルーチェとあまり年齢の変わらない若い男性なのではないだろうか。
「そんなことないわ。あなた、怪我をされているのね? それなら、大聖堂にお越しくださいな」
ルーチェは、急いで提案した。
一瞬見えただけだったが、男性の顔の腫れはかなりひどいものだった。こぶのようなものがたくさんできていて、元の顔の造形がよくわからないほどだ。
「実は私、神官なのです。今は杖を持っていないので治療できませんが、大聖堂に紹介することならできます」
「奥様……」
フェミアが、慎重に声をかけてきた。
今は身分を隠してのお散歩中なのに、大聖堂に紹介状でも書けばルーチェの身分がばれてしまう。
(でも、怪我をした人を放っておくことはできないわ)
そう思ったのだが、男性はふるふると首を横に振る。
「……お気遣いに、感謝します。しかし、大丈夫です。これは、生まれつきなので」
「生まれつき……?」
「はい。ですので、神官の回復魔法でも治せません。……ありがとうございました、奥様」
青年はそう言うと頭を下げ、きびすを返した。その身のこなしはかなり軽く、彼の姿はあっという間に人混みの中に消えてしまった。
「あ……」
「追わせましょうか?」
「いえ、いいわ」
テオの提案を遠慮し、青年に向かって伸ばしそうになって手を引っ込めたルーチェはまぶたを伏せた。
(……確かに、先天的な顔かたちなら私たちの回復魔法でもどうにもできないわ)
それでも、放っておけなかった。
なぜなら、あのぼこぼこに腫れ上がった顔が、【1度目】の自分と重なったからだった。
夫のナザリオからの暴力を受け、誰からも治療をしてもらえず、こぶだらけになった自分の顔。
一度だけ鏡で確認したもののそのおぞましさに思わず鏡を割ってしまい、それから二度と自分の顔を見られなくなった過去の自分と、今の若者が重なって見えた。
(どうか、お元気で)
もう姿も見えない若者に心の中で呼びかけて、ルーチェはフェミアたちを伴って歩きだした。
夕方になってルーチェが居城に戻ると、もうそこにはエドアルドの姿があった。
「ルーチェ、おかえり! ああ、ルーチェに会えなくて寂しかった!」
エドアルドは帰宅したルーチェを正面から抱きしめて熱いキスを交わし、そして遅れて今のルーチェの服装に気づいたようだ。
「ルーチェ……なんともかわいい服を着ているではないか」
「はい。今日は街をゆっくり歩きたかったので、町娘ふうにしてみました。どうですか?」
「最高だっ!」
エドアルドから離れたルーチェがワンピースの裾を摘まんでお辞儀をすると、妻に甘い夫は両手を顔で覆って天を仰いだ。
「ああ……毎日見ているはずなのに、妻がかわいくて仕方がない! もし俺が平民としてルーチェと知りあっていれば、君は毎日こんな感じの格好で俺の帰りを待ってくれていたのだろうか……」
「エド様……」
夫の妄想力にやれやれと思っていると、テオにとんとんと背中を叩かれて我に返ったらしいエドアルドが「ああ、そうだ」と手を打った。
「ルーチェ、メイドたちが君のために湯を沸かしていると言っていた」
「まあ、そうなのですね。では夕食の前に入ってきましょうか」
「ああ。……それで、だな」
なぜかそこでこほんと咳払いをして、エドアルドはどこか色っぽさのにじむ眼差しでルーチェを見てきた。
「実は俺もまだ、風呂に入っていないんだ。だから今日は一緒に浴槽で体を温めつつ、俺の麗しい天使の髪を俺が洗ってあげようか?」
「え……」
「旦那様……」
すかさずフェミアとテオがじろっとにらんだため、エドアルドは彼らから思いっきり視線をそらした。
「いや、今日はルーチェの『リフレッシュデー』だろう? だから俺が夫として、疲れている妻のために奉仕しようと考えただけだ」
「下心丸出しですね」
「一緒にお風呂に入りつつ、あわよくば手を出そうと思っていませんか?」
「ぐっ……」
さすが、ルーチェに忠誠を誓うフェミアとエドアルドの幼馴染みであるテオは、容赦がない。
彼らにずばずばと図星を指されたエドアルドが雨に打たれた犬のように小さくなってしまったため、そろそろ夫をフォローしてあげなければとルーチェが進み出た。
「エド様のお気遣い、嬉しいです。確かに今日は『リフレッシュデー』なのですから、エド様に髪を洗ってもらいたいです。お願いしてもいいですか?」
「っ……ああ、任せてくれ! なあ、ルーチェがいいと言ったのだからいいだろう!?」
どや、とばかりにルーチェの肩を抱いて自慢げな顔をするエドアルドに、フェミアとテオはげんなりとした眼差しを向けている。
「……まあ、いいですよ」
「……もうここまでになると俺の管轄外なので、お任せします」
「任せろ!」
エドアルドは一気にご機嫌になり、ルーチェをひょいっと抱えた。
「さあ、風呂場に行こう、俺の天使。……ふふ、このワンピースはどうやって脱がすんだろうな。ああ、ルーチェはなにも気にしなくていい。安心して、俺に身を任せてくれ」
「エド様ったら……」
背後からフェミアのビシビシとした視線を感じるはずなのにものともせず上機嫌のエドアルドに、ルーチェはやれやれと思いながらも夫の胸に身を預けたのだった。




