1 ルーチェの幸せ
『ルーチェ、この子が私の息子よ』
師匠に手を引かれて、ルーチェはまぶしいばかりに美しい少年と出会った。
柔らかな陽光を浴びて輝く金色の髪に、優しげな色合いを湛えた青色の目。
まるで絵本に出てくる王子様のような少年を前に、八歳のルーチェは声も出ずにぎゅっと手を握ってしまった。そのせいで、せっかく摘んだ野花の茎が曲がってしまう。
なかなか挨拶ができずまごつくルーチェのもとに、少年がやってきた。彼は微笑み、ルーチェの空いている方の手をそっと握ってくれた。
『君が、母上のお弟子さんだね? とっても優秀な子だって、母上から聞いているよ。僕は、エドアルド。エドと呼んでくれたら嬉しいな』
『え、エド……?』
『そう。これから、一緒に暮らせるんだろう? 僕、弟か妹がほしかったんだ。君のような子が一緒にいてくれたら、嬉しいよ』
エドアルドはそう言って、屈託のない笑みを向けてくれた。
なんて、優しい人なんだろう。
ルーチェは、神官として回復魔法の力がちょっとあるだけの小娘だ。地味な赤茶色の髪にありきたりなハシバミ色の目で、顔立ちもぱっとしない。
そんな、母親の弟子というだけのよその子どもなのに、少年はこんなにも歓迎してくれた。
ルーチェは嬉しさと恥ずかしさで顔を熱くしながら、もじもじと右手の中の花を差し出した。
『あり、がとうございます。あの、これ、お花……どうぞ』
『わあ、僕のために? ありがとう、ルーチェ』
緊張で手をぎゅっと握っていたので、花の茎はもうしわしわで折れ曲がっている。でもエドアルドは笑顔でそれを受け取り、ジレベストの胸元に挿してくれた。
『それじゃあ、一緒にお茶を飲みながらお話ししよう。こっちにおいで、ルーチェ』
『あ……』
誘われたルーチェは、思わず後ろを見た。
お誘いは嬉しいけれど、師匠のお許しをもらわないと……と思ったのだが、もうそこに師匠はいなかった。よく見ると、少し離れたところに師匠と男性が並んで立っていた。
師匠とその夫は、とても仲のいい夫婦だという。エドアルドも仲睦まじい両親を見てやれやれと肩をすくめ、そしてルーチェの手を引っ張ってくれた。
『父上と母上のことなら、大丈夫だよ。さ、おいで』
『……はい』
ルーチェも、エドアルドの手を握り返した。
願わくば、ずっとこの手を握っていたいと思いながら。
アルベール王国の片隅にある小さな農村で、ルーチェは生まれ育った。
村は貧しいが人々はとても温かく、小さい頃に両親を亡くしたルーチェのことを大切に育ててくれた。
そんなルーチェの村にある日、若い女性がやってきた。黒髪に神秘的な青色の目を持つ彼女はルーチェを目に留め、「この子には、魔法の素質がある」と言った。
彼女――オルテンシアは、元神官だという。
神官は、回復魔法の能力がある者が修行をして就ける神聖な職業だ。今は結婚して引退しているそうだがオルテンシアも若い頃は大聖堂で働く神官だったらしく、ルーチェを引き取り神官として育てたいと申し出た。
村人たちも応援してくれたのでルーチェは故郷を離れて、オルテンシアに連れられて森の奥にある小さな家に向かった。
ルーチェはまずそこで一年ほど、オルテンシアと一緒に暮らしながら神官としての修行をした。魔法の訓練は楽しいし、オルテンシアは少し変わり者だが優しくて愛情深かった。
ルーチェが八歳になった年に、彼女はオルテンシアに連れられて大きなお屋敷に向かった。そのとき初めてルーチェは、師匠と呼ぶオルテンシアが貴族の奥方であることを知った。
もともと森の家で暮らしていたオルテンシアは貴族の青年に見初められて結婚したものの、社交界に関心がないのでたまにふらっと旅に出たり森の家で気ままに過ごしていたりしているそうだ。
オルテンシアは、自分の息子であるエドアルドを紹介してくれた。エドアルドはルーチェのことを歓迎し、妹のようにかわいがってくれた。
優しい師匠と、師匠のことが大好きな旦那様。そして、格好いい兄のようなエドアルド。親切な使用人たち。
屋敷で過ごす日々は、本当に幸せだった。
――オルテンシアが病に倒れて死に、その後を追うように彼女の夫も亡くなるまでは。
「王宮に行くことにした」
硬い表情でエドアルドが言ったのは、彼の両親が亡くなった翌年のことだった。
立て続けに両親を亡くしたエドアルドは、十二歳という幼さでありながら立派に葬儀を行った。ルーチェはそんな彼を助けたいと思いながらも、見習い神官でしかない自分ではなにもできず歯がゆい思いをしていた。
先日ようやく喪服である黒い衣装を脱ぐようになったエドアルドだが、彼の言葉にルーチェは驚愕した。
「王宮!? どうして、そんなところに……?」
「……ずっと言えなくて、すまない。実は僕は、現国王の甥なんだ」
エドアルドが告げたのは、彼がルーチェの想像を遥か上回る尊い身分であったという真実だった。
エドアルドの父はおそらく貴族なのだろう、とは想像がついていた。だからルーチェは、いずれ父親の跡を継ぐエドアルドの側近にでもなれたらいいな、と夢見ていた。
だがエドアルドは国王の甥で、父親が臣籍降下したことでベルトイア公爵位を賜った公爵令息だった。あの、オルテンシアを溺愛する旦那様が王兄で公爵だったなんて、思いもしなかった。
ルーチェにはよくわからなかったが、エドアルドは王宮にいる国王や従兄である王太子に会いに行かなければならないそうだ。そして、この屋敷に戻ってくることはもうないだろうという。
「王宮は、安全な場所ではない。だから、ルーチェ。君とはここで別れた方がいい。君は母上の自慢の弟子だから、大聖堂に行けばきっと神官として採用されるはず――」
「っ嫌です! 私、エドについていきます!」
突如切り出された別れの言葉にルーチェは反発し、デスク越しにエドアルドに詰め寄った。
嫌だ、ここで別れるなんて……絶対に嫌だ。
「召し使いでも雑用でもいいから、私も連れていってください! なんでもします、どんなご命令でも受けます! 私、見習いだけど神官だから、エドが怪我をしてもすぐに治療できます! だから……置いてかないでください……!」
涙ながらにルーチェがお願いすると、悩んだ末にエドアルドはうなずいてくれた。
「……わかった。僕も本当は、ルーチェが来てくれたら心強いと思っていたんだ」
「エド……!」
「一緒に行こう、ルーチェ。君のことは、僕が守るよ」
「ありがとうございます! でも、違いますよ。私が、エドを守るんですから!」
胸を張ってルーチェが修正すると、エドアルドはふふっと笑った。
……両親を亡くしてから初めて、ルーチェは彼の笑顔を見ることができた。
この笑顔のためなら……なんでもできる、と思えた。
ルーチェは、エドアルドの使用人として共に王宮に上がった。
彼の叔父である国王はいけ好かない人で、初めて見た甥を前に「兄上によく似ている」と吐き捨てたそうだ。ルーチェが旦那様と呼んでいた人は、本当にこの国の王兄だったようだ。
エドアルドは王宮で公爵令息として扱われず、騎士団に放り込まれた。彼はそこで修行をしながら、国王や王太子から与えられる仕事をこなすことになった。
国王も王太子も、エドアルドのことを嫌っていた。だからその命令は、近頃悪さをしている盗賊団を殲滅しろとか、南の山岳地帯に棲む魔物を一網打尽にしろとか、命の危険のある内容ばかりだった。
だがエドアルドは文句一つ言わず、命令に従った。そしてあちこちに戦地に派遣されるエドアルドに、ルーチェは必ずついていった。
自分に神官としての才能があり、オルテンシアの指導を受けていて本当によかったと思った。ルーチェは貴重な衛生兵として、エドアルドの隣にいることを許された。
「君がいてくれてよかったよ、ルーチェ」
エドアルドが魔物から受けた傷を治療したらそう言ってくれたので、ルーチェの胸は幸せでいっぱいになった。
公爵令息にあるまじき扱いを受けるエドアルドだが、ルーチェはそんな彼に必要としてもらえる。彼の心だけでなく体をも癒やすことができる。
それだけで十分だと思っていた。