8.放さない(最終話)
分厚く重なった葉が陽光を遮り、酷く鬱蒼とした森を抜けた先。
シエラの店の前、漸く陽の光が降り注ぐ中で、それを台無しにする声が天高くつんざいていた。
「やだぁあ〜〜ッッシエラししょお〜〜!! おろしてくださぃいーーー!!」
「ダァメよぉ、全くアナタって子は……まさか条件をうっかり真反対に伝えるなんて。ソモソモこれを見せれば良いだけよって紙に書いて渡したでしょう?」
「そんなの途中でくしゃみしたときに使っちゃいましたよぉ。覚えてるから平気だと思ってぇ……」
「おい魔女、こいつを破門にしろ」
毒々しい色の湖の上で、魔法によって宙吊りにされて泣き喚いているラナを微妙な表情で見上げる私とは対照的に、隣のグレンさんに至っては怒りの表情を隠しもしない。
わあレアな表情だ、と嬉しくなってぽーっと見つめていたら、気まぐれに指先を操って宙に浮いたラナを振り回していたシエラが徐に頬に手を当ててため息を吐いた。
「はぁ、ゴメンなさいねぇミミ。アナタがどっちを選ぶにしろ、知らせないなんてツマラナ……フェアじゃないと思ったのよぉ。アナタは元の世界にあまり未練はなさそうだったから、戻る方を選んだと聞いて違和感はあったけどぉ……まさか弟子のフシマツだったとはねぇ」
「いえ……その、でもあの子、私の注文した薬、よく間違えずに伝えられましたね……」
「ラナはあれで魔法薬の才能だけで息をしているのよねぇ。それ関連のことだけは間違えないのだけれど、他がてんでダメなのよぉ」
「お〜ろ〜し〜て〜〜!!」
陽光を浴びて輝く金のツインテールが、びゅんびゅんと宙で弧を描いているのを見つめながら、私は嘆息した。
彼女からあんまり自信満々に条件を伝えられたものだから、すっかり信じ込んでしまったけれど……よくよく考えたらとても大切なことなのに、誰にも確認を取らなかったのも問題だったかもしれない。
ぼんやりそんなことを考える私をよそに、グレンさんは額に青筋を浮かべてシエラを恫喝した。
「笑い事じゃない。国と魔女の間に保護契約がなければ、今頃この一帯が消し炭になっているところだ。……ミミを、……失うかもしれなかったんだぞ。お前を見逃すのは業腹だが、それすらこの際いい。あいつを破門にしろ、魔女見習いでなくなった瞬間、国の保護契約は消滅する」
瞳孔が開いた紅玉の瞳は彼の本気をまざまざと現していて、強面と合わさって地獄から這い出してきたような恐ろしい形相に変貌している。
かっこいいなあと見惚れる私はともかく、普通の人であればそのまま恐怖で気を失ってもおかしくないくらいだと思うけれど、流石の胆力でシエラは平然としていた。
「ザンネンだけど、魔女は魔女で色々なシガラミがあるのよぉ。師弟関係はその最たるもので、どちらかが命を落とすまで破門はデキナイのよねぇ。あと、アノコ面白いし、見殺しにするのはチョット惜しいわぁ」
「……はっ、ではどう落とし前をつけるつもりだ、女狐。『弟子が勝手にやったこと』だとしても、その不始末の責任は師に帰属する。当然だよな? 契約を反故にした件は、ミミを召喚した功績を鑑みて魔力供給の打ち切りで手を打ったが……今回は、そうはいかない」
すとんと表情を消したグレンさんが、次いで瞳孔が開いたままに口角を上げる。膨れ上がる魔力にざわ、と木々が騒ぎ、彼の周りにばちりと火花が爆ぜた。
「俺は仮にも国に従事する騎士だ、この立場はミミの隣に立つのに一番都合が良かった。だが……ミミの心を得られた今、以前ほどの価値は感じていない。騎士であることを捨て、今この瞬間にお前たちを跡形もなく消し炭にしてやってもいいんだぞ」
その手が腰に佩かれた剣へと伸ばされ、掴まれた柄から熱気が広がっていく。どれだけ肝が据わっているのかシエラは眉一つ動かさないけれど、これはいよいよまずいと、私は慌てて彼の腕に手を添えた。向けられた双眸を見上げて、必死に首を横に振る。
「グ、グレンさん、だめ」
「離せ、ミミ。大体なんであんたはそんなに落ち着いてる? あの見習いのせいで、ッ二度と、……会えなくなるところだったんだぞ」
「それは……」
彼の言う通り、元の世界に戻されてしまっていたらと思うと、未だに湧き上がる恐怖は確かにある。
けれど彼みたいにラナに対する強い怒りが湧き上がってこないのは、──ほんの少しだけ、彼女に感謝の気持ちがあるからだ。
「その……もしも、ラナが正しく条件を伝えていたら。私は勿論何も行動することはなくて、グレンさんもきっとそうで……だからこうしてグレンさんの隣にいられる未来が、ずっと遠いものになっていたんじゃないかって思うんです」
「、……」
「もしもどちらかが手を伸ばして恋人になれたとしても、相手の気持ちで不安になって、嫌われないように取り繕って……あの日みたいに情熱的なグレンさんを、ずっと知らないままになっていたんじゃないかって」
私だって、追い詰められなければあそこまで取り繕わない、子供よりも分別のない欲と本音はきっと彼に曝け出すことはできなかった。恋人になれたとしても、嫌われるのを恐れて、この狂気に近いような愛情を悟られまいと必死になっていたに違いない。
結果論と言ってしまえばそうだけれど、それでも心の底から同じほどに想いあっていると信じられるのはラナのうっかりのおかげだ。
……あとは身も蓋もないけれど、強い怒りを覚えるほど彼以外に興味を持てない。
「私、本当のグレンさんに触れられてすごく嬉しいんです。それに……」
口に内緒話の形に手を添えて、もう片方の手でちょいちょい手招けば、グレンさんは怪訝な表情で耳を近づけてくれた。
「──お仕事だから魔物は我慢しますけど……グレンさんの綺麗な炎に他の女の人が包まれるだなんて、嫉妬でおかしくなっちゃいそうです。ね、お願い、許してあげてグレンさん。……叶えてくれるんでしょう?」
紅玉の瞳を見開いた彼は、私を見下ろして眉根を寄せると、やがてじわりと目尻を染めた。あんたな、と困ったように呟き、まだ何か言いたげにもごもごと口を動かして、けれど最終的に額を抑えると重たく溜息を吐く。
その表情や仕草からは、もうさっきのような憤りは感じられなくて、私はほっと胸を撫で下ろした。
「アラアラ、……フフ、ミミの前だと火炎騎士サマも形無しなのねぇ」
興味深そうな目で一部始終を見ていたシエラは、聖女サマに借りができちゃうわね、と言いながら肩を竦める。
「でも、メイワクを掛けたミミに助けてもらうのも申し訳ないわ。安心してちょうだい、騎士様が満足してくれそうなオワビの品を、ちゃんと用意してあるのよぉ」
「え?」
シエラが宙に指先をかざすと、瞬く間に紫の光を帯びた魔法陣が広がっていく。淡い光が弾けたあと、やがて現れたのは一枚の古びた羊皮紙だった。
全体的に茶色に変色し、端も所々欠けているそれは中々に年季を感じさせる。
そしてその面をびっしり埋め尽くすほどに綴られた文字は、どういう仕組みなのかこの世界に来てから読み書きに困ったことのない私でも、さっぱり読めないものだった。
これがお詫びの品? と首を傾げる私とは対照的に、それを目に入れるなりグレンさんは息を呑み目を見開いた。
「……まさか、」
「そうよぉ、騎士様がミミと会った初日に依頼してきたモノ。あの時はあまりにリスクが高いから断らせてもらったけどぉ……ミミも、もう戻ることはデキナイものねぇ」
勿論本物よぉ、ナンナラ国と結んだ保護契約と同等の、命を掛けた最高等の契約で証明してもいいわ、と軽々と言ってのけるシエラに、グレンさんは逡巡するように黙り込んで。
算盤を弾く音が聞こえてきそうな程の沈黙を暫く横たえた後に、結論が出たのか彼は小さく溜息を吐いた。
「……半分は、ミミの温情だ。次はない」
掠め取るようにして奪われたその紙に、惜しむでもなくシエラは笑みを浮かべてひらひらと手を振る。私は話の流れがさっぱり掴めず、目を白黒させながらグレンさんとシエラの間で視線を反復させた。
「グレンさん? それって……」
「ん?……はは、まぁ大したモノじゃない。ただの保険だ。頃合いが来たらちゃんと説明するさ」
それはつまり、頃合いが来るまで教えてくれる気はないということだ。
グレンさんはもう全部私のものの筈なのに、他の女の人との間に秘密を作るのか、とどす黒い何かが胸の底から湧き上がりそうになって、けれどそれは膨らみ切る前に萎んでしまう。
こちらを見下ろす彼の瞳に浮かぶ仄暗い歓喜と、狂おしいほどの執着には、私以外の要因なんて何一つないのだと気がついてしまったから。
きっとシエラが渡したあの紙は、何かしら私に関連のあるものなのだろう。
そうと分かってもやっぱり面白くはなくて、嫉妬に塗れた糾弾の代わりに、私は拗ねたような声で釘を刺した。
「……分かりました。でもちゃんといつか教えてくださいね、約束ですよ」
「ああ、勿論だ」
応えるなり、もう用はないとばかりにグレンさんがシエラ達に背を向ける。促すように手を引かれ、私も軽く頭を下げるとそれに追従した。
背を向けるなり、背後から何かが落ちるような音と共にラナの悲鳴が聞こえたけれど、振り返ることはしなかった。
何せ、私はグレンさんの背中に見惚れるのに忙しかったので。
「いったた……シエラししょぉ〜、本当に良かったんですか? あれ、契約魔法に特化した北の魔女が代々受け継いでいるっていう、最高等の婚姻魔法ですよね? 彼女に許可されてない者には読むことすらできないっていうヤバめのぉ……」
土煙の中起き上がったラナは、服や金のツインテールから砂を払いつつ、開口一番にそう言い放った。
師匠に庇われたにも関わらず謝罪も礼も一切口にしないその傲慢さに口角を上げてから、シエラはいいのよ、とぞんざいに言い捨てる。
──例え想いがなくなろうと、どちらかが死に絶えようと、何度生まれ変わろうとも。魂によって二人を結びつけ、他の者と契ろうものなら死に等しい苦痛を永劫にもたらすという命懸けの契約の魔法。
それだけの効果を発揮するのだから、当然必要な材料だって伝説級の素材ばかりで──けれど、あの規格外の火炎騎士であればそう苦もなく集めることができてしまうだろう。
だから火炎騎士にとって、あの魔法の発動の障害となっていたのはたった一つ。……両者が、発動時点でお互いに恋をしていること。
「あーぁ、もうミミ様、死んでも逃げられないですよ! かわいそ〜、あんなのに捕まっちゃって」
「アラ、それだけに見えたの? フフ、アナタもまだまだ修行不足ねぇ」
シエラが二人並び立ち去っていく背中に視線を投げれば、弟子もそれに倣い森の入り口へと目を向ける。
引かれていた手を繋ぎ直して、早足で横に並び立ったミミが、笑みを浮かべて隣の火炎騎士を見上げていた。
──その桃の瞳に浮かぶ、深く昏く、どろりとした色ときたら。……シエラでさえも、ぞくりと背筋が粟立ってしまうくらいに。
「……捕まったのは、騎士サマの方も、じゃないかしらぁ。ああいうのを、割れ鍋に綴じ蓋っていうのねぇ」
「割れ……? あたし難しいことはわかんないです。まぁいーや、それよりシエラ師匠、今日は何の魔法薬作るんですか〜?」
呑気な弟子の声に、シエラは嘆息してハイハイ、と答えながら店へと足を向ける。
全くこの弟子は本当に馬鹿で、考えなしで恩知らずで……面白くて、退屈しない。
つまらなくって死にそうなシエラの生を面白おかしく彩ってくれる、相変わらず最高の玩具なのだ。
手を繋いで、並び立って森を抜ける。その頃には陽も傾きかけていて、彼の髪や瞳の色に似た橙の空がその光をぼんやりと滲ませ、その周りを煙のような雲がたなびいているのが見えた。
ふわ、と風が通り抜けて背後の木立が騒いだ時、いつかの旅の途中での宴席をふと思い出す。
「……グレンさん。覚えてますか? 旅の途中、宴で隅にいた私のところへ来てくれた時のこと……」
「ん? ああ、勿論。懐かしいな」
「あの時、私、グレンさんから他の人を勧められたと思って、結構悲しかったんですよ」
拗ねたように呟けば、グレンさんはこちらを見下ろすと軽く目を見開いて、それから心底心外だと言うような表情を浮かべた。
「……あんたの好みを探って、自分を売り込んで口説き落とそうと必死になっていた覚えしかない。結構分かりやすかったと思うんだが……あんたに気が付かれてなかったら意味がないか」
苦笑を浮かべて、それから彼がぴたりと足を止める。手を繋いでいる私も当然それに倣えば、もう片方の手も取られて向かい合う形になった。
彼の燃えるような赤髪が傾いた陽光に溶けて、さらりと揺れるそれが例えようもなく美しくて。それに見惚れていれば、彼が真摯な表情を浮かべて言葉を紡いだ。
「今更だが、弁解させてくれ。あの時の……『あんたを世界の全てだと思い、狂おしいほどにその心を求めて、他の男にも、冥府の神にさえ死んでも渡さないと決意しているような、一途な男』は俺の他にいない。……そもそも、」
私の両手を取るグレンさんの手に、微かに力が込められる。ふ、と伏せられた彼の紅玉の瞳に昏い影が落ちて、悪辣にその口角が上げられた。
「他に選択肢を与える気なんてさらさら無かったよ。あんたがこの世界で、他の誰かを選んだとして、……そいつは今頃息をしていない。当然だろ?」
まるで、とびきりの愛の告白のように。そっと告げられたそれに、思わず息を呑む。僅かな沈黙を挟んで私の口から零れ落ちた声は、掠れ震えていた。
「グレン、さん、……あの、手、離してくれませんか」
「ん?……はは、お断りだ。危ないから、このまま家まで繋いで帰ろうなあ。もう恋人同士なんだ、誰に見られても構わないだろ?……そうだよな?」
微かに引いた私の手を、縫い止めるように彼の力が強くなる。少し痛いくらいのそれは、取られているというよりは戒められているというに相応しい。
けれど私には、早急にこの手を離してもらわないといけない理由があった。
「いえ、あの、それは嬉しいですけどそうじゃなくて……今すっごく、グレンさんに抱きつきたいの」
「は?」
「ね、お願い、グレンさん。……ダメですか?」
眉を下げて見上げれば、彼は紅玉の瞳を見開いた。それからゆらりと視線が揺れて、幾許かの逡巡を挟んで。
漸くそろりと、躊躇いがちに離された腕を追いかけるみたいに、彼にぎゅうと抱きついてその胸に額を擦り寄せる。
「あの時も、本当に両想いだったんだなあって思ったら……何だか、こうしたくてたまらなくなってしまって。えへへ……」
好きなだけ擦り寄ったあと、照れ笑いしながら彼を見上げれば、彼は何故か額を抑えて俯き、深々と溜息を吐いていて、思わず首を傾げてしまう。
はしたなかったかな、としょんぼりしかけて、片手が私の背に強く回されていることに気がついた。それから酷く早い心臓の音にも、彼の耳が、赤髪に紛れてしまいそうなほどに染まっていることにも。
目を瞬けば、押し殺したような、唸るような声が降ってきた。
「あんたな……ッ」
「……グレンさん、照れてるの?」
答えはなくて、代わりに恨みがましく睨み下ろされてしまったけれど、その眦がすっかり染まっているのだから気迫もなにもあったものではない。
ふふ、と思わず笑みをもらせば、笑うな、と凄まれてしまった。
「……ねぇ、グレンさん。私あの時、あなたの隣に堂々と立って、見惚れるだけじゃなく、この手を伸ばしても許される関係になれたのなら……どれほどにいいかって思ってたんです」
今、ここで彼と抱き合えていることが、不思議で、奇跡のように思えて、……本当に幸せで。
抱きつく腕に力を込めて、改めて彼を見上げて、ふわりと笑みを浮かべる。これが夢幻ではないことを噛み締めたくて、私は祈るようにその言葉を口にした。
「──私の。……私の、グレンさん」
目を見開いたグレンさんが、瞳を揺らして。それからぎゅうと、まるで覆うように抱き返されて、その身体があの日みたいに酷く熱を持っていることを知った。
彼の赤い髪が、陽が落とす橙が視界いっぱいに映って、……いつか願ったように、彼の炎に包まれているみたいで。
「ああ。……俺の、ミミ」
二人、目を見合わせて、吐息を絡めて。……それからどちらからともなく、唇を寄せる。
厳かに、誓うように、微かに触れ合ったそれが。目も眩むほどの幸せを連れてきて、じわりと視界が滲んだ。
薄く目を開けば、あの時、初めて会った時に深く心を射抜かれた彼の瞳が、私と同じほどに狂おしい愛情を浮かべて、私だけを射抜いている。
その瞬間に湧き上がったのは、……飢餓に近しいような、救えないほどの欲望だった。
「……グレンさん。私、きっといくらもらっても、足りない──あなたが、あなたの全てが欲しくて仕方ないの。ちょうだい……これから先もずっと、永遠に、私の傍にいて」
紅玉の瞳が見開かれ、僅かに揺れる。普通であれば眉を顰められてしまいそうな、あまりに強欲なその願い。けれど──彼はうっとりとその瞳を蕩かせて、甘い甘い声で応えた。
「……満足なんてしないでくれ。これから先ずっと、どこまでも堕ちて……狂おしい程に、俺を求め続けてほしい。──俺と、同じように」
砂糖を煮溶かしたようなその声に、微かに目を見開く。
伸ばされた大きな手が、丁寧に私の指をひとつひとつ絡め取って、ぎゅうと握られて。じわりと彼の熱が、私を侵食していく。
炎のような瞳に促されるままに、求め合うように身体を寄せ合い。それに境界線が溶け合うような感覚を覚えながら、私たちはまた唇を寄せた。
焦がれて、求めて。すれ違って泣いて、独りよがりに手を伸ばして、感情をぶつけあって。
それでも触れた指先を手繰り寄せ、漸くその手の中に収めたのなら、後はこの上なく簡単だ。
──……二度と、何があっても、この手を放さなければいいだけなのだから。
お付き合いいただいてありがとうございました。もし応援してもいいよという方は↓の★★★★★から評価お願いいたします。