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6.カウントダウン

「……好きな、ひとが、いるから」



「……──、は?」


「ぜったいぜったい諦められない、おんなじ世界で生きられないなんて耐えられない。……他に、何にもいらないから、何を捨ててもいいから……初めて、心の底から欲しいと願った、──私の全てなの。だから……恨まれたって、いい」


 あなたが好きですと、ただそう伝える資格すらも、私は失ってしまった。けれど箍が外れてしまった想いは、押し留めることもできずに涙と言葉に変わって溢れ出す。グレンさんが部屋に入ってきてから、どれくらい時間が経ってしまっただろう。もう本来なら事が済んでいるはずだったのに、本当に何一つうまくいかない。

 私が泣き出したことに呆れ返っているのか、彼からは何の反応もなくて。それは追い詰められた私からしたら、どれほど泣き縋っても彼は応えてくれないという証でしかなかった。嫌だ、嫌だ、彼を諦めることなんて、出来るわけない。そんなの生きてはいけない。


 そんな子供の癇癪みたいな想いだけで、私はがむしゃらに両手を伸ばして──それを勢いよく引き寄せ、まるで拘束するかのように掴んだその手のあまりの熱さに、痛みに、思わず悲鳴を上げた。


「いっ、」


 折れてしまいそうなほどに強く握られたそれが信じられなくて、弱々しく目を瞬けば滲んだ視界が鮮明になる。目に映る血管の浮き出た大きい手は、私にとってのこの世界での優しさの象徴だった。そのはずなのに──今は私の痛みにも構わず、ギリ、と音を立てて、逃亡ばかりか抵抗すらもねじ伏せるほどの力で私の日に焼けない手を拘束していて。

 呆然とした想いで、まるで冷や水が掛けられたように鮮明になった頭でそろりと彼を見上げて──ひっ、と思わず短く息を詰める。一瞬で全身の熱が下がっていくようだった。


 あれほど薬のせいで熱を帯びていたはずの彼の瞳には、一切の温度も、光も消え失せていた。ただ底のない血の色をした闇を切り抜いたそれは、瞬きもせずに彼の腕に捕らわれた私を射抜いていて。

 いつもそこに映し出されている表情や感情といったものがすっぽ抜けた彼の精悍な顔立ちは、まるで作り物めいて、それなのに今にも何かが音を立てて崩れ落ちそうな危うさを放っていた。


 薬の効果がすっかり切れてしまって、彼が未だかつてない怒りを表面化させているのだろうかと一瞬頭を過ったけれど、すぐにそうではないことに気がついた。だってそれでは、私の手を掴む彼の手のひらがこんなにも熱いことの説明がつかない。

……それに、この彼の瞳は熱が沈静化したというよりも──まるで、赤い炎よりも静かで、……それよりも余程熱い、青い色の、



「……はは、」


「……グ、レン、さ……?」


「ははは、ッははははは!! あー、駄目だ、駄目だなぁ……だからあんたは駄目なんだよ、ミミ」


 突然堪え切れないように笑い出した彼の言葉を理解する前に、加減なく腕を引かれて思わず顔を顰めれば、浮遊感と共にぐるりと視界が回転して悲鳴が漏れた。

 白いワンピースの裾が翻って、きつく目を瞑ると同時に背が柔らかい感触に受け止められる。衝撃が収まってから漸く瞼を持ち上げれば、逆光の中、底知れない熱を抱いた瞳が爛々と輝いて、私のことを見下ろしていて。

 何を思う暇なく身体が強張り、意味もなく腕を動かそうとして、けれど頭上でひとまとめに拘束し直されたそれは彼の腕一本にびくともしなかった。


 彼に押し倒されたというこの状況で、薬と涙に押し切られた彼がその気になってくれたと、一瞬でも喜ぶことができなかったのは──……彼の熱くて大きな掌が、私の首に回されているからだ。

 は、と吐いた息が、震える。辛うじて力は込められていないはずのそれに、けれど上手く呼吸ができなくて私は掠れた声を絞り出した。何が起こっているのかも分からなくて、ただ再び視界が滲む。


「……グ、レ、……さ、」


「黙れよ」


 笑みを浮かべたままに、穏やかで優しい声で、彼は私の弱々しい声を切り捨てた。まるで現実のこととは思えなくて、ぼろぼろと涙が溢れ落ちる。

 考えたくもないけれど──まさか、彼は私の命を奪うつもりでいるのだろうか。一瞬で燃やし尽くすことだって出来る癖に、わざわざ苦しみを与えるために、こんなに遠回りな方法で。


 彼の手にかかるということそのものよりも、彼にそれほどまでに憎まれているという事実に、視界が暗くなっていくようだった。どうにか身を捩っても、彼が体重を掛けて私にのし掛かれば、もう身体のどこも自由に動かすことなんてできない。

 瞳に絶望の色を浮かべる私を、彼は拘束の手を少しも緩めることなくじっとりとした目で見下ろしていた。


「……なぁ、綺麗で無欲な聖女様。俺はきっと狂ってるんだろうな、あんたを一目見た時から、ずっと」


 その細さを、脆さを確かめるように、彼の大きな掌がゆっくりと私の首筋を撫ぜる。ちりちりと、焦げつきそうなほどの感情が私の肌に軌跡を描くようだった。

 いつになく平坦な声は、けれど静かに流れ出す溶岩のような熱を孕んでいて。好きなだけそうしていたあと、再び首に回された掌に、ほんの少し力を込められて呼吸が浅くなっていく。


「大切にしたいのと同じぐらい、ぐっちゃぐちゃにしてやりたかった。あんたの全て何もかも、奪い尽くして壊して、飲み干してやれたらどれほどいいかと、何度夢想したか知れない……なぁ、それでも俺はずっと大人しく、良い子にしてたよな? ひとえに、あんたに嫌われないために──無欲な聖女様に、唯一人として選んでもらうために」


 逃げようもなく彼の手に捕らわれた私の腕が、ギリ、と再び締め付けられて思わず短い悲鳴が漏れる。それに煽られたみたいに、彼の瞳に映し出された激情の色がまた一段深みを増した。


「はは、ッはははは、それを、……それをあんたは、言うに事欠いて好きな奴がいるだと? そいつの為に、辛抱して一度だけ俺に抱かれようって?」



──ふざけるなよ、この、裏切り者……ッ



「っ」


 酸素が行き渡らない頭では、彼の言葉は一部分しか聞き取ることができなくて、けれど最後の激情が滲んだ恨みがましい声だけが、荊のように私の心を取り巻いてきつく締め上げた。

 ぼろぼろと大粒の熱い涙がこめかみを伝って、ソファに花のように広がった桃色の髪を湿らせていく。酷い顔をしているに違いなくて、けれど顔を背けたくても彼の掌がそれを許してはくれない。

 いつ首に回された大きな手に力が込められるのだろうかと、身を強張らせる私の想像に反して、彼は私の首に回していた手をするりと持ち上げて、いやに優しい手つきで頬を包むと促すように顔を傾けさせた。


「……なぁ、見ろよ聖女様」


 眦に溜まっていた雫が、その拍子に頬を滑って滲んでいた視界が鮮明になる。──彼が見るように促したのは、夜の帷を四角くくり抜いた窓だった。

 彼が部屋に入ってきた時よりも大きく、美しい満月が、己が夜空の主であることを示すように天に煌々と輝いている。それを見て、どくん、と心臓が嫌な音を立てて大きく跳ねた。

 呆然とする私の頬に掛かっていた髪の一筋を彼が指先で避けて、顕になった耳に唇を寄せる。その声には、堪えきれない愉悦が滲んでいた。


「ははッ、夜の鐘が鳴るまで、あとどれくらいだと思う? ……カウントダウンでもしてやろうか」


「ッッいやぁ……!!」


 悲鳴のような声を上げて思わず暴れても、彼の拘束は当然、少しも緩むことはなかった。身を捩っても、腕を振り払おうとしても、足を悶えさせても、赤子の手を捻るよりも簡単にあしらわれてしまう。

 元々圧倒的な体格差と力の差があるのに加え、私は彼とは反対に戦闘魔法は殆ど扱うことができない。抵抗なんて意味がないとわかっていて、それでも死に物狂いで暴れずにはいられなかった。

 私の腕を押さえつけ、足を絡め、のし掛かって一切の抵抗を封じ獰猛な笑みを浮かべるグレンさんに、無駄と知っていながら懇願する声には涙と焦燥が滲む。

 

「ひっ、いや、いやだぁっ、おねが、おねがいグレンさん離して、もう時間が……っ」


「……はは、はははははっ、そうだなぁ、見ろよ、よく見ろ、もう間に合わないな? 可哀想だなぁ、可哀想で、……最っっ高だ」


「い……っ」


 彼の声が昂りを帯びると同時に、私を戒める彼の掌がひどく熱を持つ。焼け付くような温度に思わず苦痛の声を上げても、もう彼は離してはくれなかった。あんたが悪い、と吐き捨てるように呟いて、泣きながら身悶える私をじっとりと見下ろす。

 そのほの昏い朱殷の瞳に浮かぶ様々な感情がぐちゃぐちゃに織り混ざった激情から、私はこの上ない怒りしか読み取ることができずに性懲りもなく啜り泣いた。


「ふ……っやだ、やだぁ、おねが……グレ、さ……っ」


 彼の生み出す美しい炎でなんて贅沢は言わない。それでもせめて彼の手にかかれたのなら、この世界で命を散らしたのなら、魂は彼の傍に在れるかもしれないと希望が持てるのに。

 このまま元の世界に戻されてしまえば、それすらも叶わなくなる。それは私にとって、命を失うことよりも余程重い絶望だった。


 どれほどに暴れても、懇願しても、彼は少しも拘束を緩めてはくれない。ぞわぞわと耐え難い恐怖が胸の底から湧き上がってきて、顔を真っ赤にしながら私はとうとう子供のように泣き喚いた。


「う、ぅ、やだ、やだあ、すきなの、あい、してるの、離れたくない、ぐす、やだああっ」


「……ッはは、ッはははは、ははははははッッ!!」


 瞳孔が開いた彼は、私の嗚咽混じりの拙い訴えに、一度すとんと表情を消して。……それから、地を揺らすような哄笑を響かせた。

 鼓膜をビリビリと揺らすほどのそれに涙に滲んだ視界がぶれて、また大粒の涙が零れ落ちる。ほんの一瞬瞼を下ろして、持ち上げて──そうして次には視界一杯に広がっていた美しい紅の色に、私は何もかも忘れて息を止めていた。


 ガチ、という荒々しい音と共に、唇に伝わる衝撃。……それが何なのか咄嗟に分からないくらい頭の中は真っ白なのに、その熱と痛みだけが酷く鮮明で、まるで焼け付くようだった。


「──……、」




──リン、ゴー……ン……



 あれだけ恐れていたはずの鐘の音が、夜の静寂を切り裂いて響き渡る。けれどその音すらも、最早私の耳を通り抜けていった。

 あれほど恋焦がれた、狂おしいほどに欲した紅玉の瞳が、今燃やし尽くされてしまいそうな熱を帯びて、私だけを映している。

 呆けたように口を開いて、何か言おうとして、けれどその声にも満たない吐息ごと、彼に貪られて飲み込まれてしまう。

 食まれて、噛まれて、深く合わせて。そうしているのは間違えようもなく彼の唇で。


「グ、レ、……ふ、っ、……」


 キスを、されている。グレンさんに。漸くその訳の分からない事実に思考が追いついて、ぶわりと全身に熱が燃え広がるようだった。どうしようもなく甘い痺れを伝える唇が震えて、それをどう思ったのか彼の瞳が嗜虐的に細められる。

 誰に貪られているのかを知らしめるように、また深く、深く唇が合わさって、震える身体はのし掛かる彼に押さえつけられて。息をつくことすらもできず、酸欠に視界が白み出した頃になって漸く、彼はすっかり熱を移されてしまった私の唇を解放した。


 何も考えることすらできず肩で息をする私を、己の唇を赤い舌で舐めとった彼はじっとりと見下ろして、それから堪え難い愉悦を滲ませた笑みを浮かべて。


「あー……可哀想だなぁ、あんたは元の世界に、二度と、どうやっても、もう戻れないんだ。俺の傍から、離れられないな」


「、……え、」


 彼は、何を言っているのだろう。何が起こっているのだろう。……夜の鐘が確かに鳴っていたはずなのに、どうして私はまだ、彼と言葉を交わせているのだろう。

 何か、とても都合のいい夢でも見ているのだろうか──それなら、どうかこの命が尽きるまで、覚めないでほしかった。


「はは、何だよその呆けた顔。今更離すわけないだろ。……それじゃあ、日付も超えたことだし、……そのクソ野郎が記憶からぶっ飛ぶまで頑張ってもらおうか、聖女様?」


「っえ? あ、あの、……っひゃ」


 混乱が過ぎてぐるぐると目を回す私に構わず、あれほどに私の手を拒んでいたはずの彼の酷く熱い掌が、するりと色を持った手つきで私の足を撫で上げる。

 押し倒された拍子に乱れた裾から入り込んだ酷く熱い指先が、その滑らかさを確かめるようにつぅ、と肌を伝って、上擦った声と共にびくりと膝が跳ねた。


「グ、グレ、さ……!? ま、待って、」


 ぐるぐると視界が回る。待って、待って、待ってほしい。何がどうなっているのか何一つ分からないのに、彼が自分の意思で私に触れているというそれだけで破裂しそうなほど鼓動が逸り、頭が爆発してしまいそうだった。

 さっきのキスは、本当に彼に焦がれ過ぎておかしくなった私の幻覚じゃないのか。どうして私はまだここにいて、私のことが大嫌いなはずの、あれほど薬に抵抗していたグレンさんが今になって私に触れようとしているのか。


 兎に角落ち着いて話がしたくて、私は必死になって身を捩った。けれどあれほど泣いて懇願しても一切拘束を緩めてくれなかったグレンさんが、今更その程度で解放してくれるわけもなく。

 ぎち、と私の両腕を頭上で軽々と一まとめに抑えつけるその力はほんの少しも緩まず、ソファを掻く足先は彼の長い足に絡め取られて動くことも叶わなくなる。

 酷く狼狽える私を見下ろす彼は熱い吐息を漏らして、恍惚とした表情を浮かべていて。


「ッはは、逃げられるなんて思うなよ。悪いが余所に手をつけられることがないよう、泣こうが喚こうが今この場でモノにする。そもそもあんたに逃げ場なんてどこにもない、何もかも手遅れなんだよ」


 昏い欲望と愛憎を煮凝らせたような声で彼はそう言って、どろりと濁らせた紅い瞳を、うっとりと蕩かせて。

 漸く足から離れた手に息をつく暇もなく、酷く熱を持ったその掌が頼りないワンピースの上から腹に押し付けられ、動揺に喉奥から上擦った声が漏れた。


「ひゃ、……な、なに、グレンさ、」


「本当に、あんたの誘惑には気が狂いそうだったよ。でも残念だったなぁ──はは、夜の鐘が鳴る前に一度でも俺に抱かれれば、……元の世界に戻って、好きな奴とやらと、幸せになれたのにな」


「、……──え、」


「でも、もう遅い。あんたはこのまま俺に娶られて、俺の子をここに孕んで、……生涯を、添い遂げるしかないんだよ。逃すものか、絶対に──何をしてでも、俺に縛り付けてやる」


 いっそ狂気を孕ませて、耐え難い身の内の熱を吐き捨てるように。……それでも、どこか堪えきれない悲哀を滲ませて。歪に笑う彼を見上げながら、私は呆然と目を見開いて、息をすることさえも忘れていた。

 彼は、一体何を言っているのだろう。……グレンさんの奥さんになって、彼の子を産んで、生涯一緒にいるなんて、そんな、──……夢みたいに、私に都合がいい話がある訳ない。


 それよりも何よりも、抱かれていれば元の世界に帰れた──?

 聞き間違いじゃない、確かに彼は今そう言ったはず。けれど、あの時私は確かにラナから、と狼狽したように記憶を辿ろうとして、そんなことをしなくても今結果が目の前にあることに、はっと思い至ってしまった。


……私は失敗してしまったのに、元の世界に戻されていない。確かに夜の鐘の音を聞いて、できなかったら即時強制送還だと言われていたはずなのに。


 それに思い至った瞬間、混乱に完全に停止していた思考が物凄い勢いで回り始める。ラナに条件を伝えられたあの日から今日までの、彼との会話やその行動を目まぐるしく思い返して、……まさか、と祈るように思った。

 彼は私が元の世界に戻される条件を、シエラから直接聞いたと言っていた。対して私は弟子のラナからの言伝しか聞いていなくて、……でももし、うっかり者のラナが何かの弾みで条件を伝え間違えたのだとしたら。

 グレンさんと私の聞いた内容が違うもの、例えば正反対の条件だったのだとしたら──……


 「自分より魔力量の多い男性に抱かれれば、元の世界に戻れる」、だったのだとしたら。


 そんなの、私が見えていた全てが、何もかも覆されてしまう。どくどくと心臓の音が全身に響いて、けれどそこに今込められているのは、とても抑えきれないはち切れそうなほどの期待だった。

 これで酷い自惚れの勘違いだったら、もう私は生きていける自信がない。けれどそれでも、どうしたって、期待せずにはいられない。


 最初にグレンさんが、私のお願いをいつになく冷たく、すげなく断ったのは。シエラに報酬を渡してまで、私に「正しい条件」の情報が渡らないように手を回していたのは……月が満ちる日が、待ち遠しいと口にしたのは。

 もう生涯会わなくなるはずの私の家に今日わざわざ確認しに行ったのも、私が考えが変わったと口にしてとても嬉しそうだったのも。

 薬による熱に侵されながら、決して私に手を伸ばそうとしなかったのも、──私が好きな人がいると口にして激昂したのも、鐘の音が過ぎ去った今になって私に触れようとしているのも……全部、全部。


 答えを与えるように、彼はうっそりと紅玉の瞳を蕩かせて、くつくつと喉を鳴らしながらとびきり甘い声で囁いた。


「俺の、綺麗で純粋で残酷で、可哀想な聖女様──可愛い、可愛い、可愛いなあ。一目見た時からずっと好きだった、愛してる、無欲なあんたの欲しいものを探り当てて、俺が全て与えてやりたかった。滅茶苦茶にして、俺のことしか考えられなくしてやりたかった……ああ抵抗はするなよ、人としてまともな生活を送りたいだろ」


「──……」


 呆然と目を見開く私は、彼からしたらきっと酷くショックを受けているように見えたのだろう。一切緩められない拘束も、改めてのし掛かられ腰に掛けられる重さも、全ては私の抵抗を封じるためのもので──けれど私の頭の中に、もう逃げようだとか抗おうだとか、そんな想いは欠片もなかった。


 ずっと、彼に本当は嫌われていたのだと思っていた。その時の絶望は鮮明に胸に刻まれていて、とてもすぐには信じられないけれど……でも。今こんな嘘をついたところで、彼には何のメリットもない。

 何よりも、ずっとずっと狂おしいほどに焦がれていた彼の瞳に今浮かんでいるのは──……私と同じ、ただ一つに、どうしようもなく堕ちた者の色だ。


 そうと、気がついてしまえば。……何を考えるよりも先に、ぶわりと視界が滲んで、私は震える唇をぎこちなく動かして、期待に上擦った拙い声を絞り出していた。


「す、すき、って……グレ、さ……は、わたしが、ほしいの……? ほ、ほんとに?」


 状況にそぐわない、まるでずっと欲しがっていたものを目の前に差し出された子供のような声色に、彼が微かに目を見開く。けれどその瞳に浮かんだ僅かな戸惑いの色は、圧倒的な執着と狂気に瞬く間に押し流されてしまった。


「……はは、嘘ならあんたにとってはどんなに良かっただろうな。残念だが欲しいなんて可愛いものじゃない、奪い尽くすと決めていた。あんたを手に入れるためなら、何を犠牲にしても構わないと、……そうでないなら共に死んでやろうと思うくらいには、──あんたに狂ってるよ」


 自嘲混じりの歪な笑みに見惚れながら、私は本当にこんな都合のいいものが夢じゃないのかと、何度も何度も自問した。けれど彼に掴まれた腕は未だひりひりと痛むし、ソファの軋む音も、私にのし掛かる彼の重みやその熱も、とても夢や幻覚では片付けられそうにない。

……それなら、グレンさんの言葉だって夢じゃないはずで。間違いようもなく、私が彼を狂おしいほど求めているのと同じように、彼も、私のことを欲しがってくれている。何を投げ捨てても構わないと思うほどに、深く、激しく。


──その時に湧き上がった感情を、狂おしいほどの幸福と歓喜を、どう言い表せばいいのだろう。それまで絶望に沈んでいた世界が嘘のように輝いて見えて、まるで酔ってしまったみたいに頭がくらくらして。

 伝えなくては、という焦燥に近しい衝動に、昂りに思うように動いてはくれない唇を震わせて、私はどうにか声を絞り出した。


「……わ、わた、しも、……っ」


 言葉を遮る嗚咽が、彼の顔をぼやけさせてしまう涙が煩わしい。今。この瞬間に自分の胸を切り開いて、狂おしいほどの想いを、そのまま彼に差し出せないのが酷くもどかしかった。

 言葉なんて陳腐で、いくらでも繕えてしまうものじゃなくて、とてもこの身には収まらないほどの狂気と紙一重の愛を、彼にそっくりそのまま明け渡せたらどれほど良かったか。

 けれど、そんな魔法はこの世界にだってないから。耳の先まで真っ赤に染めてしゃくりあげながら、私はみっともないほど必死になって言葉を絞り出した。……どうか伝わって欲しいと、心の底から願いながら。


「っわたしも、ほしい。グレンさんだけが、ぜんぶ、ぜんぶほしい」


「──、……は、」


「ちょうだい。わたしなんて好きなだけ、ぜんぶあげるから、……うれしい、グレンさんがすき、ずっとすきだったの、だいすき……」


 好きだとか愛してるだとか、そんな在り来たりなもので収まるような想いじゃないのに、いざ言葉にするとそれしか相応しいものが見つからない。だからその差を埋めるように、私はぼろぼろと泣きながら只管にグレンさんが好きなのだと繰り返した。

 声にも満たない吐息を漏らした彼の瞳が動揺したように僅かに揺らいで、……けれどそれはほんの一瞬のことだった。ギリ、と歯の軋む音がして、燃え盛る昏い炎の色を宿した瞳に浮かぶのは、……底知れないほどの憎悪と怒りだ。


 私を戒める手のひらが更に熱を帯びて、爆ぜた火花に思わず短い悲鳴を上げる。


「……媚を売るにももう少し上手くやれよ。元の世界に、……そのクソ野郎の元に戻るために薬まで盛ったあんたが、言うに事欠いて俺が好きだと? 悪いが俺に阿ったところで、今からすることは変わらないんだ。下手な嘘は煽るのと変わらない──手酷くされたくなければ口を閉じていろ」


「っちが、……グレン、さ、」


「ああ、もしかしてそういう趣向か? 俺はあんたなら何でも構わないけどな。……乱暴にされて痛がろうが、泣き叫んでようが、あんたなら、何でも最高に滾るくらいには堕ちてるんだ。なあ、結果が同じなら少しでも楽な方を選ぶのが賢明だと思わないか。良い子の聖女様なら分かるよな?」


 貼り付けた笑みすら剥がれ落ちた彼の表情は、まるで感情を落としてきてしまったかのようなのに、その瞳と唸るような低い声には狂おしいほどの恋情と執着が渦巻いていて。

 脅しつけるようなことを言うくせに、私の反応に怯えるみたいに抑えつける手が微かに震えていて、馬鹿みたいに胸が締め付けられた。


「そもそもあんたの想いの所在なんて、最早どうでもいいんだよ。どちらにしろ、あんたは俺の傍から離れられない。逃亡を試みたら足の腱を切る。誰かに助けを求めたら口枷を。抵抗したら四肢を縄で拘束する。自害を試みたら、見せしめに何人かあんたの知り合いを殺してやるよ」


 露悪的に脅しつけながら、その瞳に浮かぶのは狂おしいほどの渇望と、それからどれほどに欲しても手に入るわけがないという諦念だ。

 今の彼の気持ちが、私には痛いほどに分かる。期待して裏切られた時にどれほど辛いか、グレンさんに嫌われていたと思った時に嫌と言うほど思い知ったのだから。

 それなら最初から優しくしないでほしかったと泣いたように、──彼だって、きっと怯えている。


 本当ならこのまま、彼の気の済むようにさせて安心を与えて、落ち着いてから話をするべきなのかもしれない。どうせ私はグレンさんになら、何をされたって構わないのだから。


……だけど。


 こうするべきだとか、お互いにとっての最善だとか。そんなものは、今の私の頭からは吹っ飛んでいた。さっぱり働いてくれない理性の代わりに腹の底からふつふつと湧き立ったのは、怒りにも近いような御しがたい衝動だ。



「……か……、ない、……」


「……ミミ?」


 恐怖や絶望とも違う、押し殺したような震える低い声に、怪訝そうな表情を浮かべたグレンさんが顔を近づけてくる。

……その、目の前でさらりと揺れる赤髪も、その掌から伝わる熱も、いつもよりもずっと色濃い彼の香りも。狂おしいほどに求める全てが、こんな目と鼻の先にあって、お互い想いあっていて──それなのに今この瞬間、グレンさんの全てが私のものじゃないなんて、そんなのおかしい。

 ずっとずっと狂うほどに求め続けて、今すぐ手の届く場所にあるそれを、もう、ほんの少しだって我慢なんかできない。


 こんなに欲しいのだから、全部私のものじゃないなんて、間違ってる。──許せない。


 癇癪のような衝動に胸の奥底で何かがふっつり切れて、それに促されるままに私は勢いよく頭を振り上げていた。

 どこにそんな瞬発力が残されていたのかと思うほどの速度で乱れる視界に、見開かれた彼の赤い瞳だけが鮮明に映る。


「ッッどうでも、よくなんかないっ! 好きだっていってるでしょ、グレンさんのばかぁ……っ!!!」


「ぐっ……!?」


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