4.良い子じゃない
陽もとうに落ちて、窓枠に四角く切り抜かれた濃紺の空を見上げれば、青白い満月が確かな輝きを放っている。
普段であれば気にも留めないはずのそれをぼんやりと眺めてから、ソファに腰掛けた私は華奢なティーカップをそっと傾けた。途端ふわりと広がる上等で芳醇な香りは、当然私の住まいには用意がないものだ。
美しい絵画、曇り一つない調度品、精緻な装飾の施されたソファや絨毯。……ここは、グレンさんの邸宅だった。
いくら顔見知りとはいえ、約束をしていた訳でもなく邸宅の主人も留守だというのに、こうもあっさり通されてしまうとは思わなかった。
不用心じゃないのかな、と変に冷静に考えて、それからすぐに首を横に振る。不届者が彼に良からぬ考えを持ったところで、残るのは炎に焼き尽くされた消し炭だけだ。
……それに、誰彼構わず招き入れているわけでもないらしい。私を客室に通してお茶を出してくれた、年配の家令の弾んだ声を思い返して、そっとカップを置いた。
『もう少しでお戻りになられますから、どうぞこちらでお待ちください。聖女様が訪ねていらしたら、いつでもお通ししろと口酸っぱく言われておりますので』
……本当に、グレンさんには頭が下がる思いだ。責任感か同情か分からないけれど、嫌いな相手に対してもこんなにも親切にできるのだから。
それこそ、何も知らなければ勘違いのひとつでもしたくなるくらいに。
きり、と唇を噛み締めるけれど、そんな小さな痛みでは誤魔化せない胸の澱がまた重みを増していく。
悩んで、罪悪感に苦しんで、泣いて。ここ数日、その繰り返しの地獄のような時間を過ごしてきた。けれど私は結局、最後にここに居る。──それが結論で、全てだった。
心は不思議と凪いでいるのに、琥珀の水面に映る自分の顔は今にも泣き出しそうな顔をしていて、誤魔化すようにスプーンを差し入れてはくるくるとかき混ぜる。
砂糖も入っていないカップに対して手慰みのようにそれを続けていれば、やがて少し急いたようなノックの音が部屋に響いた。
はい、と応えた小さな声に重ねるようにして、扉が待ちかねたように開かれる。
「ッミミ……!」
そうして現れた私の恋しい人は、少しばかり火炎の色の髪が乱れて、額に汗を掻いていて。急いで来てくれたんだな、と一目で分かる様相に、胸が音を立てて締め付けられる。
……私はやっぱりどうしようもなく、救いようもないほどに、彼のことが好きだった。
「ッは、自宅に、いないものだから……俺のところに、来てくれていたのか……」
紅玉の瞳が緩められ、そこに明らかな安堵が浮かぶ。今にも座り込んでしまいそうな彼の様子は、けれど私に疑問を抱かせるには十分なものだった。
「……、私のところに、来てくれていたんですか?」
「! ああ、いや……」
彼は曖昧な返事をしながら僅かに視線を逸らし、間を保たせるように粗雑な手つきで上着をはだけた。いくらするのか想像もつかない上等なそれを、放るように背もたれに掛けて、どっかりと私の前のソファに腰掛ける。
くしゃ、と掻き上げられた炎の色の前髪に、いつになく余裕のなさそうなその表情に、性懲りもなく胸が高鳴った。ふう、と彼が深く息を吐いて、それから取りなすように柔らかな笑みを浮かべる。
「……一先ず、俺のことはいい。それより、ミミはどうしてここに?」
「あ……急に押しかけて、すいません。ご迷惑を……」
「いや、勘違いしないでくれ、あんたならいつだって大歓迎だ。ただ、珍しいと思ってな……何か、あったのか」
気遣わしげな、……どこか探るような視線を受けて、とてもまともに見返すこともできず私はそっと俯いた。けれどきっとこの酷い隈も、泣き腫らした浮かない顔も、その程度では隠しきれていない。
胸元で握り込んだ手を震わせる私がどう見えたのか、彼は目を細めると静かな声で切り出した。
「……今日の夜の鐘が鳴るまで、あと少しだ。それと、関係があるのか?」
「……ッ」
その瞬間、かっと湧き上がったマグマのようなぐちゃぐちゃな感情は、けれど一つも言葉になってはくれなかった。グレンさんにとって私はあと少ししたら、生涯会えない存在になるはずなのに、彼はこんなにも簡単にそれに触れる。
優しいけれど、気遣ってくれるけれど、それでも彼にとって私は結局、早く居なくなってほしい存在でしかなかった。まざまざと突き付けられたそれに、これ以上ないと思っていた絶望の底へと更に転がり落ちていく。
何よりも、彼の声にほんの少しだけ、警戒が混じっていたことが私の心をずたずたにした。きっと彼は、ギリギリになって追い詰められた私が、また身の程も知らずに同じ願いをしに来たと思っているのだろう。また断らなければいけないと、内心うんざりしているのだろうか。
……心底嫌いな女に触れるなんて、とんでもないと、思っているのだろうか。
そう考えた時、僅かにほんの少しだけどこかに残っていた箍が、確かに外れてしまった。
握り込んでいた手の震えが、ふ、と止まる。そっと顔を上げて浮かべた笑みは、我ながらきっと自然にできているだろうと思えた。
「グレンさん。……前は、──前は、変なお願いをしてしまって、すいませんでした。私、後から凄く反省したんです。グレンさんの言う通り、ちゃんと考えられていなかったなって……」
「、いや、それは……」
「よくよく考えたら、……やっぱり、あの時の私の選択は、薄情でした。どうしたって未練はあるし、こんな酷い顔になるくらい、ここ数日はかなり悩みましたけど……でも、やっと決めたんです。ここに来たのは、──あの時に間違った選択をした私を止めてくれたグレンさんに、私の覚悟を見届けてもらえたらと思って」
にこ、と笑みを浮かべてみせれば、彼は意表を突かれたように目を見開いた。声を震わせることも、つかえることもなかった自分の口に、我ながら感心してしまう。
何にも執着がないから、今まで下手に自分の本心を繕ったり、誰かを騙したりする必要もなかったのに──いつからだろう。私は彼のせいで、こんなにも、醜くなってしまった。
暫く私の言葉を咀嚼するように沈黙していた彼は、けれど漸く飲み込めたのか──その瞳に一瞬、目まぐるしく複雑な感情が渦巻くのが見えて。けれど次の瞬間には、それはどろりとした狂おしいほどの歓喜の色に覆い隠されてしまった。
蕩けるような笑みを浮かべた彼の声は少しだけ上擦っていて、まるで抑えきれない狂喜が器から溢れ出したみたいで。
「ッそうか! ……ああ、いやすまない、どれほどあんたが悩んで出した結論なのか、俺なんかには想像もつかないよ。ただ……あんたは薄情なんかじゃない、迷うのは当然のことだろ? どうか自分を責めないでくれ」
「……ありがとう、ございます。そう言ってもらえると……」
「ああ、未練はあるだろうが、それもきっと時と共に和らいでいく。あんたは将来後悔しない選択をしたんだ、自信を持つといい」
僅かに上擦り弾んだ彼の声に、はいと応えた私は、ちゃんと笑みを保てているだろうか。きっと私を慮って押し隠そうとしてくれているのだろうけれど、彼のことをずっと、ずっと見てきた私には、彼が未だかつてない程喜んでいるのだと分かってしまった。
心の痛みと絶望には、際限などないらしい。これ以上彼の顔を見ていたら自分がどうなってしまうのか分からなくて、不自然にならないよう苦心しながら色とりどりのお菓子が並べられたテーブルへと目線を落とした。そうして、まだなみなみと中身の残った陶器のティーポットに目を留める。
「……グレンさん、よかったらお茶を……お菓子も沢山出していただいたので。ポットに保温の魔法を掛けておいたんです」
「、ああ悪い、客人に気を遣わせてしまったな。ありがとう」
ティーポットが傾けられれば、まだ温度を残したカップに芳醇な香りが立ち上り、ゆっくりと琥珀が満たされていく。それを見るともなしに見つめながら、私はそっと口を開いた。
「……見届けてもらうというと大層なことに聞こえますけど、ただ時間まで、一緒に居ていただけるだけでいいんです。急なことですけど……」
「ああ、光栄だよ。この大量の菓子もあんたが来るってんでうちの者の気合が入りすぎたんだろうが……積もる話もあることだし、むしろ丁度良かったかもな。──これからのこと、だとか」
彼はそう言うと上機嫌な笑みを浮かべて、カップを持ち上げた。その声色は、とても嫌っている相手と二人でいなければならないものだとは思えないほどに、深い情が感じられて。
いくら顔見知りだからって、急に押しかけてきた非常識な相手だということには変わりないのに、今日顔を合わせてからずっと、……出会ってから、ずっと、彼は優しい。
彼にとっては大嫌いな私に会うのはこれで最後なのだから、少しくらい雑に扱ったっていいはずなのに。嫌いな相手にもこんな風にできる彼は本当に優しくて、それが憎らしくて、……好きで、大好きで、愛おしくて仕方ない。
何だか泣きたいような、叫び出したいような堪らない気持ちになって、私は唇を震わせると掠れた声を絞り出した。
「……嬉しい、ですか」
「、……ミミ?」
そのまま空気に溶け消えてしまってもおかしくないような私の呟きは、けれど二人しかいないこの部屋にはよく響いた。
ぴたりとカップを持ち上げる手を止めた彼の、問うような眼差しを受け止めることができなくて、視線が膝の上で握りしめた自分の手に滑り落ちていく。
「……グレンさん、とても、嬉しそうに見えたから。私の選択は、貴方の意に沿いましたか」
口が、勝手に動く。自分でもそうと分かる程に恨みがましい声は、どれほど後悔しても私の中に戻ってきてはくれない。……今更こんなこと、聞くつもりじゃなかったのに。
私は、彼にどう答えてほしかったのだろう。もしも、そんなことはないと、それなりに寂しく思っていると嘘でも答えてくれたのなら、……そうしたら、──そうしたら。
けれど想像の中でその先を追い求める前に、結論だけが渡されてしまって、たちまち思考はどす黒い何かに焼き尽くされた。
「──……あー、はは、ミミにはお見通しだったか」
照れくさそうに頬を掻いて、少しだけ決まりが悪そうに、グレンさんははにかむ。それが、まるでガラスを一枚挟んだかのように遠いことに感じられた。
「まあ、そうだな。……率直に言うなら、嬉しいよ。今だから言えるが──あんたが心変わりする日を、待ち望まない時はなかった。完全に私心で申し訳ないが」
「……そう、」
そうですか、とぽつりと転がり落ちた声は、自分でもそうと分かるほどに精彩を欠いていた。思考は黒い何かに燃やし尽くされて、後に残るのは熱の燻る燃え滓だけだ。
それを胎に抱えたまま、私は何でもないような顔を繕って貼り付けて、じっと彼が紅茶に口をつけるのを見届けていた。……その喉仏が動いて、嚥下する瞬間まで、ずっと。
「グレンさん」
「ん? どうした、ミミ」
呼び声にカップから顔を上げたグレンさんが、微かに目を見開く。今の私は、彼の瞳にどう映っているのだろう。……きっと歪な、泣きそうな笑みを浮かべる私は。
彼の思うような、従順な私でいられたらどんなによかっただろう。……けれど、もう、出会ってしまったから。彼を知る前には、戻れない。
「──ごめんなさい。私、」
イイコじゃなかったみたいです。
ガチャン、と派手な音が響いた。眼前でカップの中の琥珀が流れ出して、白いテーブルクロスを汚していく。ティーカップを取り落としたグレンさんは、自分の震える手を信じられないような表情で見つめていた。
何が、と唇だけで呟いて、息を荒くすると酷く苦しそうに胸元を握り込む。上気していく肌と汗ばむ額に、いつもよりも色濃く映る紅玉の瞳にどくりと心臓が跳ねて、私は詰めていた息をそっと吐き出した。
「グレンさん……大丈夫、毒でもなければ、後遺症の残るようなものでもありません。ただ力が抜けて、──気分が昂る、だけですから」
「、……は、」
ゆっくりと立ち上がる私を見上げながら、グレンさんが信じられないという風に目を見開いた。彼ならすぐに気がつきそうなものを、私が何かを盛ったとは考えていなかったのだろうか。
もしくは、飲む前に気が付けなかった自分が信じられないのかもしれない。彼は立場上、何か口にする際は先に魔力で安全か確認するのが癖付いているのだと、以前話してくれたことがあるから。
……だから、この世界で聖女として召喚されて、本当に良かった。聖女としての特殊な魔力と、精密な操作で覆い隠せなければ、きっとこう上手くことは運ばなかっただろう。
カタログにひっそりと載っていた、可愛らしくて俗っぽいピンクの文字を思い返す。
『恋人の夜にお役立ち、愛の魔法薬♡ 〜服用した人の魔力量によって効果倍増!〜』
どれほど怪しげな煽り文句だったとしても、シエラの作る薬は絶対だ。この国でも有数の魔力量を誇る彼には、一体どれ程に効いているのだろう。
荒い息を繰り返す彼の射抜くような視線を受けながら、私は今にも震え出しそうな足を叱咤してテーブルを回り込んだ。
そうして二人掛けのソファに上半身を沈め、熱に浮かされたように荒い息を繰り返す彼を見下ろして、そっと喉を鳴らす。
どんな魔物と戦った時も涼しい顔をしていたあのグレンさんが、額や首筋に幾筋も汗を伝わせて、荒い息を繰り返して。乱れた前髪が僅かに張り付いているのを見て、どくどくと鼓動が早鐘を打った。普段よりもずっと色濃く見える紅玉の瞳に射抜かれ、まるで炎に惹かれる虫のように指先が浮く。
欲なのか焦燥なのか罪悪感なのか、もう自分でも分からないグチャグチャな感情が、一纏めに異様な程の昂りとして私を侵食しようとしていた。