2.夢と期待
夢に見るのは、グレンさんと普通に話せるようになって、彼との何気ない会話を宝物みたいに抱きしめては、毎日浮かれていた旅の日々のことだ。丁度、彼が「聖女様」から、「ミミ」と呼んでくれるようになった頃。……そうだあの時は、折角の宴なのに隅っこの木の根元で料理をつつく私を、彼が探しに来てくれたんだっけ。
『ミミ、こんなところにいたのか。折角の宴席なのに、飲まなくていいのか? 酒はお好みじゃないか』
『グレンさん! え、えっと、元の世界ではまだ飲めない歳だったので、少し、気が引けて……』
『はは、真面目なんだな。素面じゃ、あいつらの明け透けな会話が耳に入るのもキツいだろうに。今はあの隊士の惚気で場が持ちきりだろ』
『そ、そう、ですね……』
折角話を振ってくれているのに生返事しかできなかったのは、隣に腰掛けたグレンさんが近くて、その体温が伝わってしまいそうで、こちらの鼓動の音も、伝わってしまわないか心配だったからだ。
月明かりと、仄かに届く炎の灯りで照らされた精悍な横顔。微かに酒精の香りが届いて、何だか、大人の男の人って感じがして。煩い心臓を宥めるのに必死で、彼の言葉に対する反応が遅れてしまった。
『……ミミは、そういう話はあまり興味がないのか? 年頃だろう。元の世界ではそれこそ、引く手数多だったんじゃないか』
『……えっ』
『旅に出る前、いくらでも侍らせる男を選べたのに、どんな美男子にもまったく食指が動いてなかったよな。余程目が肥えているのか……聖女様の男の好みに関しては、結構裏で話題になってたんだ。こっそり正解を教えてほしいところなんだが──ああ、まさか元の世界に恋人を待たせていて、操を立てている、なんてことはないよな』
そこで僅かに声が低くなったけれど、私にはグレンさんの顔色を確認するような余裕はなかった。もう赤くなればいいのか青ざめればいいのかすらわからなくて。
目が肥えているだとか、好みだとかそんな話じゃなくて、物とか人を含め、あなた以外全く興味がないんです……とはまさか言えるわけがない。
引く手数多に見えるなんていうのは彼のお世辞だろうけれど、どれほど引く手があったって、その中に彼の手がないのなら、私にはないのと一緒だ。
『ええと、こ、恋人は、いないです。好みとかはよく分からないし、引く手数多なんてことも全く……』
強いていうなら好みはグレンさんだけれど、特に彼のどこを、と聞かれても分からない。何もかもに惹かれていて、新しいところを知る度にまた落ちていくのだから。
とはいえお子様に思われてしまわないだろうかと、言いながら顔を俯けたけれど、きっと赤く染まった耳は見えてしまっていただろう。一拍置いてそうか、と短く落とされた相槌は、美味しいお酒のせいだろうか、僅かに喜色が滲んでいたような気がした。
『ぐ、グレンさんは、……その、恋人さん、とか』
『俺か? はは、残念ながら縁がなくてな』
その当然のように放たれた言葉に、どれだけ私が安心したかなんて、彼は知る由もないんだろう。他の人に何気なくグレンさんの話題を振っても、女性の影はほんの少しも出てこなかったから、きっとそうだろうと思ってはいたけれど。それでも本人の口から聞くと、やっぱりとても安心する。
グレンさんが欲しいけれど、心の底から彼だけが欲しいけれど、彼は私の全てだから、この関係にヒビが入ったり嫌われたりしてしまったら、それこそ私にとっては世界の終わりだ。
弱虫な私にはこの想いを打ち明ける覚悟なんていつまで経っても固まらないから、その間にできるのはどうか誰のものにもならないでなんて、呪いみたいな祈りを捧げることだけだった。彼からしたら良い迷惑だ。
『……要は、ミミは今あまりそういうことに興味がないんだな? まあ、異世界に召喚されたばかりなんだから当然といえばそうか。──ただ、忘れないでくれよ。あんたが望みさえすれば、上辺だけじゃない、心からの愛を捧げられる男がちゃんと居るんだ』
『……そう、でしょうか』
聖女というステータスのないただの私を望む男性なんて、居るとは思えない。何せ膨大な魔力を除けば大した取り柄があるわけでもなく、この世界の常識にすら馴染みきれていないのだからただの足手纏いだ。
よしんばそんな物好きが居たとしたって、それがグレンさんじゃないなら私には何一つ意味がない。……グレンさんなら、例え聖女という肩書き目当てだったとしても、私は大喜びで受け入れるのにな。
そんな複雑な想いが滲み出た曖昧な相槌に、けれど彼はああ、と力強く肯定を返した。
『居るよ。……あんたを世界の全てだと思い、狂おしいほどにその心を求めて、他の男にも、冥府の神にさえ死んでも渡さないと決意しているような、……そんな一途な男が』
その紅玉のような瞳が、一瞬どろりとした得体の知れない感情を映し出した気がして、僅かに息を呑む。ばくばくと、緊張とは少し違う理由で鼓動が逸り出して、私は戸惑った。……何だか、齧り付かれる直前の獲物にでもなったような。
『ね、熱烈、ですね』
『はは、酒にあてられて少し大袈裟になったか? ただまあ……心に余裕ができた頃でもいい。そんな哀れな男が現れたら、少しは考えてやってもいいんじゃないか』
『……そうですね、もしそんな人が、本当に現れたら』
心にもない言葉だった。どれほど私のことを想ってくれる人だって、グレンさんじゃないなら少しも考える余地はない。酒の席での例え話だと分かっていても、彼から他の人を勧められているようで僅かに心が沈んだ。
普通に考えたら、彼の言うような男性は少しばかり重い。そんな想いを向けられたところで、私は絶対に同じものは返せないし、早々にその差で潰れてしまうことだろう。
……でも、もしその想いを向けてくれるのが、グレンさんだったら。私は大喜びで受け取って、いくらあっても足りないと夢心地で溺れて、そうしてそれ以上の想いを、彼に返すことができるのに。
けれどそんな夢想をしても、今は私の返答に満足そうに目を細めた彼の隣で、それに見惚れることくらいしかできない関係性で。彼の笑み一つで沈んでいた心も簡単に浮き上がってしまう自分の単純さに、内心でひとつため息を溢してから、またぼんやりと思い耽る。
……いつか。彼の隣に堂々と立って、見惚れるだけじゃなく、この手を伸ばしても許される関係になれたのなら、どれほどに──
ピチチ、という爽やかな鳥の声に、夢の余韻がそのまま乗っかったような瞼をどうにか持ち上げれば、窓から差し込む陽の光に目を焼かれて再びきつく瞑る。
未だ腫れぼったい目は、いくら瞬きをしても普段よりもずっと狭い視界しか確保してはくれなかった。
酷く気怠い身体に鞭を打って寝台から体を起こすなり、ぼんやりとしていた頭が多少鮮明になって昨日の出来事がぐるぐると頭の中を回り始める。……それから夢に見た、旅の途中の懐かしい一幕のことも。
当たり前といえば当たり前だけれど、結局、彼の言うような男性は今日まで現れなかったし、何なら聖女という立場のせいか、彼以外の男性には失礼にならない程度に距離を取られていたような気さえする。
グレンさん以外の男性にはほんのり苦手意識さえある私としてはありがたいことだったけれど、それでも彼の予想が外れたことには変わりない。
「……期待させた責任取ってください、って迫ったら聞いてくれないかな、……なんて、」
ぽつりと頼りない声を漏らしながら寝台に腰掛けて、木製のチェストの上に置いてある日付を書きつけた紙に視線を投げた。……次の満月の日には、赤いインクでマークを付けてある。──この日までにグレンさんを説得できなかったら、私は。
微かに息を詰めると、胸の前で拳を握りしめて、きつく目を瞑る。
今まで、状況に流されて、言われるがままに生きてきたけれど。何かを必死に求めて、努力して泣いて、そういう情熱を持つ人たちのことが、何も理解できなかったけれど──今なら分かる。
彼の隣に立てたのならどれほどに良いだろう、と夢想したあの気持ちは、今も確かにこの胸にあって、私を強く突き動かしているのだから。
私は絶対にこの世界に、……グレンさんの傍にいたい。──例え、その為にどんな代償を支払うことになったとしても。