第一次チョコレート大紛争 〜屍を越えてでも届けたいこのチョコを、あなたに〜
ばれんたいん、という伝統行事があるらしい。
高校に入るまで学校というものに通ったことない楓には、およそ想像がつかないけれど。
なんでも、店という店からチョコレートが津波のように押し寄せ、それがはたまた雪崩のように押し寄せる人に買われていって、だというのにチョコレートの奪い合いと押し付け合いが始まるのだという。仲良く分け分けしたらいいのに……と思うのは、楓がバレンタイン初心者だからだろうか。
「そうよねぇ、どうしてそんなチョコレートごときで戦争が起こるのか、私には全然分からないわ」
のんびりと答えるのは、絶世の美女サマ(自称)こと、木葉だ。寮の居室でローテーブルに頬杖をついた木葉は、白魚のような指先でポテトチップスをつまんでいる。白いモコモコのルームウェアでだらけた格好をしているというのに、三六〇度様になる。絶世の美女サマを自称するだけあるのだった。
「え、チョコで戦争起きんの!? どゆこと!?」
目を丸くして身を乗りだしたせいで、楓の着ているパーカーのチャックがポテトチップスに触れそうになった。木葉は袋の端を軽く引いて、それからまたもぐもぐとやり始める。
「んー? それはね、明日のお楽しみね。あ、そうだわ! 楓、光希にチョコ選んでやりなさいよ!」
塩のついた木葉の指先が楓の上で静止。
「はあ? なんでボクがあいつに?」
「明日は日頃のアレソレをひっくるめて、光希に嫌がらせをする絶好の機会よ! 知ってる? あのね、チョコはみんなに配るもの。チョコをわざわざ一人だけに送るのは嫌がらせ(多義)にもなるのよ」
嫌がらせ。あのいけ好かないイケメンに。なんだかとってもいい響き。
「おおぉぉ……! それはいいな! 日頃の恨みをこれで晴らすぞ!」
拳を握っていきり立つ楓。それを見て木葉はニンマリと微笑んだ。
「そうと決まれば、お買い物ね!」
「うん!」
──そうして迎えたXデー。
制服の袖にすらりとした腕を通し、くるくると手早く黒髪をポニーテールに。それから楓は、机の上に置いてある全身全霊をかけて選んだチョコレート(嫌がらせ用)を鞄に突っ込む。
光希が嫌いそうなピンクの可愛らしいラッピングまでしたのだから、絶対に上手くいくはずだ。
「くははははは」
悪役じみた笑い声を上げる。光希の顔を見るのがひどく楽しみだった。
「楓、行くわよ。戦場に」
靴置きから木葉の声がかかり、楓はスキップで飛んでいく。るんたったとポニーテールの房がご機嫌に揺れた。
「ああ! 準備万端だよ」
寮を出たところから死線は広がっていた。大きな紙袋を引っ提げた女子たちが走り回り、なぜか血眼な男子たちがキョロキョロとしきりに周囲を見渡している。
「索敵か? だとしたら、ずいぶん杜撰だな」
大真面目に木葉に尋ねると、木葉が噴き出した。
「え、ええ、間違ってなくもなくもないわ」
悲鳴があちらこちらから聞こえるし、大勢の女子に囲まれて揉みくちゃになっている男子もいる。可哀想に、手しか見えてない。楓は顔も知らない哀れな男子の冥福を祈って手を合わせておいた。
「こ、木葉さん!」
横合いから声をかけられて怪訝な顔になるのもわずかの間。いつの間にやら木葉の周りには雲霞のごとく男子たちが集っていた。そして、楓はいつの間にやらその集団に弾き飛ばされていたのだ。
「木葉!」
男子たちの中から木葉のしかめ面が覗く。
「い、行きなさい、楓! なんとしてでも、光希にそれを、渡すのよ──」
「木葉を置いてなんて行けるわけないだろ! 今助けるからな!」
ぐっと拳を握り固め、腹に力を入れた。
「やめ、なさい……! 私は大丈夫、だから! 行って!」
「──っ! 分かった」
くっ、と唇を噛んで楓は校舎へと向かう。木葉の死を無駄にはしてならないのだから。
楓の姿が視界から消えたところで木葉はふうと吐息をついた。演出としてはこれくらいでいいだろう。
「……この男子たちは邪魔ね」
こつん、と踵を地面に打ちつける。軽い衝撃は術式で増幅されて、周りの男子たちの三半規管を揺らす。立っていられずに崩れ落ちていく男子たちを冷ややかに見下ろし、木葉は踵を返した。顔にかかった濡羽の髪をかきあげて、唇を歪める。
紛争はまだ始まったばかり。まいた種は一体どんな花を咲かせるだろう。
***
チョコレート合戦の中を、楓は持ち前の運動神経でくぐり抜けていく。幸いまだ術式は飛び交っておらず、戦闘も見られない。しかし、走り回る生徒たちは校舎に近づくにつれてどんどん増える。
「光希くん! 受け取って!」
「好きです! 私と付き合ってください!」
「ちょっと押さないでよ! 私の番なんだから!」
「なによ! 相川くんにチョコを渡すのはあたしなんだから!」
黄色い悲鳴(罵声?)に足を止めた。声の位置へ顔を向ければ、これまでにない規模の女子のカタマリがある。ピンクと赤のリボンや包みがしきりに蠢く様子はまるで生き物だ。中には自分自身にリボンを巻いている珍妙な生徒もいる。
「や、やめろ! 近づくな! おれは誰からのも受け取らないからな!」
悲痛な叫びとともに光希が走り出す。ブレザーは脱げかけているし、ネクタイはくしゃくしゃ、髪は鳥の巣みたいになっている。ボロ雑巾同然の光希が全力で逃げ出したのは、楓の目から見ても明白だ。そして、身体能力を霊力で強化までした光希を追える生徒などいない。……楓以外は。
「へぇ、そんなに嫌なのか。これは渡し甲斐があるってやつだな。しかも、誰のも受け取りたくないらしいし!」
ニヤリと笑って、地面を蹴った。刹那、世界が楓の姿を見失う。楓からすれば、景色すべて滲んで溶け出したかのよう。霞むほどの速度で光希の背中を追いかけていく。天宮楓という人間はこの学園唯一の無能力者だが、群を抜きさるほどのバケモノじみた身体能力を持っている。そしてそれは、戦闘の天才と呼び声の高い光希を遥かに凌駕する。
「ほら、夕真、シャキシャキ配る!」
「……なにを?」
「友チョコだって言ってるでしょ! これだからもー!」
両腕に紙袋を提げてパレードよろしくチョコレートを配り歩く夕姫と、寝ぼけて足取りのおぼつかない夕真。楓は二人の姿を視界に捉えて微笑んだ。話しかけたいけれど、今は光希探しが最優先。
校舎の外れ、教室棟ではなく特別教室を集めた棟の横で、光希が跳んだ。狙いは木の上、ではなくその更に上の校舎屋上だ。微かな蒼の燐光が光希の軌跡を描き出す。半分の放物線がふたつ。
霊力の多すぎる光希は霊力量の調節が苦手だ。いつもは身体強化に使う霊力くらいはキチンと制御してみせるのだが、女子たちに追いかけられて動転しているせいか、まったく上手くいっていない。
「ありゃ、ホタルだな……」
ヨイショっと、木の枝を蹴って屋上に着地。そこに肩で息をしながら服を直している光希がいた。さらさらとした黒髪は乱れていたけれど、手ぐしだけでほどけていく。伏せられていた瞳がもう一人の乱入者に驚いて、丸く見開かれた。
「天宮、どうしてここに……」
「んー? おまえを追いかけてきたんだ。女子に襲われて大変そうだなーって」
「……はあ、そうだ。だから、バレンタインは嫌いなんだ……チョコなんて見たくもない」
「へーえ、おまえにも嫌いなものがあったんだな」
「当たり前だ。誰だよ、こんな行事始めたやつ」
一歩ずつ距離を詰める楓に対し、光希は完全に無警戒だった。ニヤケが顔に出ないよう、唇をへの字にして楓はさらに近づいていく。そうして光希の黒い瞳がわずかに青みがかっていることが分かるくらいの距離になった。
「……な、んだよ」
憎たらしいくらいに整った顔立ちが戸惑う。楓の手はもう鞄の中に突っ込まれ、派手なピンク色のビニール袋を掴んでいる。
まさに大大大本命、恐れおののけ相川光希。今までの恨み、ここで晴らす!
「ふははっ」
邪悪な笑い声を上げながら、一息にチョコレート(嫌がらせ用)を光希の鼻先に突きつける。光希がぽかんと口を開け、それから目に見えて視線をさまよわせた。
「おまえ、このために、おれを、追いかけて、きたのか」
「ああ! おまえだけにこれを絶対渡したくてさ」
「……そう、なのか」
光希の煮え切らない言葉に楓は内心首を傾げる。おかしいぞ、なんだか思っていた反応と違う。自分は一体何を間違えたんだ、と少しずつ恥ずかしくなってくる。
光希はやがて、楓によって堂々と掲げられたピンクの袋に手を伸ばし──
「「その本命チョコ待ったァ!」」
バァン、とけたたましい音を立てて屋上の扉が物理的に弾け飛んだ。白い煙の中から現れた人影は二つ。真っ赤なハート型の小箱を掴んだ夏美と、薔薇の花束のはみ出したオシャレな紙袋を携えた亜麻音だった。
「み、光希、まだ受け取ってないよね? だ、大丈夫、大丈夫、私。あの二人はまだ、付き合ってない。大丈夫大丈夫、先にこの媚薬入りチョコを渡して既成事実を作れば私の、勝ち」
恐るべき発言を伴ってにじり寄る夏美。
「楓さん、そのチョコレートはわたくしに、ですわよね? 楓さんの愛っ!はわたくしのものですわ。ですから、わたくしの気持ちをお受け取りになってくださませ? 今日のためだけに、わたくし薔薇を育てて、最高級のチョコレートをお取り寄せいたしましたのよ!」
興奮しすぎて凄まじい早口でまくし立てる亜麻音。だが、もっと怖いのは彼女の背後からやってくる殺意に満ちた視線だ。扉の奥からカレンが楓を睨みつけている。
「──え?」
いや待て。「付き合う」とか、「愛」とか、一体全体どういうことだ。これではまるで、楓が光希を……。
「え、ええ、え、チョコを、誰か一人にあげるの、は、嫌がらせなんじゃ、ないのか?」
夏美と亜麻音の顔が分かりやすく緩み、反対に光希の顔が凍りつく。楓のチョコレートに伸ばしかけた手は拳へと変わる。
「──嫌がらせのつもりで、わざわざ、おれを追いかけてきたのか、ここまで」
「うん、そうだけど?」
「……そうか」
楓のいた場所を拳が貫いた。半歩で避けつつ、楓もまた拳を放つ。攻撃を見切った光希は楓の足をすくう角度で足を蹴り上げた。
「なんだよ! やる気か!?」
「嫌がらせには返礼がいるだろ、このバカ!」
「木葉に騙されたんだよ! そもそも、なに真に受けてんだよ、バカ!」
「はあ!?」
軽く跳んで、蹴りを躱す。その勢いを殺さずにくるりと回って、光希の視界から次の予備動作を隠してみせる。選ぶのは光希の動きを封じる一手。腕の関節を取りに行く。が、光希に読まれ、楓の方が投げ飛ばされる。自分でさらに跳ぶことで衝撃を緩和。即座に切り返して光希の身体をコンクリートへ叩きつける。それから後はもう、泥試合だ。
「おまえなんか、女子とチョコに潰されればいいんだ! バーカバーカ!」
「うるさい! どっかの誰かに騙されるやつがバカなんだろ! おまえが潰されてこいよ!」
「ぐぬぬっ!」
夏美と亜麻音を放置して取っ組み合いを続ける二人の上に高らかな笑い声が降り注ぐ。
「あはっあはははっ、あんたたち本当に、最高ね! こんなにも、愉快に、踊ってくれるなんて! お腹がっ! 笑いすぎて、痛いわ!」
互いの襟首を掴んだまま、楓と光希はギロリと声の主を睨んだ。破壊された扉の隣で、絶世の美女サマが笑い転げている。身をよじりながら指先で何度も目尻の涙を拭う姿すらも美しいのだから反則だ。
「「木葉ッ!」」
ボロボロな二人は軽やかに逃げ出す木葉を追いかける。夏美と亜麻音は我に返ってそれぞれの本命を追いかけ始めるし、カレンは亜麻音にくっついていくしで、大混乱は続いていく。
それは一日限りの大紛争。
「楓! 夏美! 木葉! 光希も、亜麻音さんとカレンも! 私たち、チョコいっぱい作ったからもらってー!」
「涼の分もあるぜー!」
夕姫と夕真が加わって、最後に涼までやってくる。光希と同じように女子に襲われていたようで、涼はどこかくたびれた様子だった。
「あれ、なんで二人ともそんなに汚れてるの?」
楓は顔を思いっきりしかめて光希を指さす。なぜか同じタイミングで光希の指も楓を指した。
「「こいつのせいだ!」」
誰もいなくなった屋上には、楓が落としたチョコレートの袋が寂しげに風に揺られている。あとで誰かさんが拾いにきて、ひしゃげたチョコレートを大事に食べたのは内緒の話。
「やっぱりバレンタインなんて、ロクな行事じゃないな……」
なんて、誰かさんはほんのり笑って口にしたとか、してないとか。
よろしければ本編もぜひ。
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