女神の気持ち【水嬢ティテル・リメーシュの日;払暁】
目が醒めると同時に気配を感じたので、枕の上で首の角度をちょっと変えると、女官のエレシーダが心配そうにこっちを見ていた。
「……寝坊したかな?」
「いいえ、ふだんよりまだ早いお時間です。ただ……」
エレシーダの気遣わしげな視線に思い当たって、わたしは自分のこめかみから目じりを指でなぞった。涙で濡れている。
「マザー・テルマの夢を見ただけ、だいじょうぶ。寝言うるさかった?」
「おばあちゃんずるい、おきてよ、って」
「ごめん、やかましかったね」
わたしは起き上がりながら、半笑いであやまった。わたしが聖女候補に選ばれた経緯は、ここで働いている女官全員が知ってることではあるけど。
エレシーダはベッドのわきに歩み寄ってくると、身を乗り出してわたしを抱きしめてきた。
「アルフィニアさま、あなたはマザー・テルマの教えに従って聖女となられることを五歳にして定められ、以来ずっと、ご自分を犠牲に、聖なる義務に尽くされてきた。僭越な言いかたですが、わたしは……あなたのことが、いじらしくて、いとおしくて……」
「そんなたいそうなもんじゃないから。マザー・テルマのことも、いやな思い出じゃないし」
けっきょく、わたしは頑固で聞かん坊の五歳児から変わっていないだけだ。責任感とか、自己犠牲の精神とかではない。
もしマザー・テルマが大悪党で、「わらわに代わってこの世界に破壊と恐怖を撒き散らすのだ」とか吹き込んできた場合でも、わたしはバカ正直に約束を守っていたかもしれないのだ。
エレシーダがわたしのことを「抱きしめてあげたい」と思ってくれているのは心地よい。わたしを包んでいる両腕と胸から、彼女の思いやりが感じられる。
ほんとうに「言葉は尽くしたところでそれだけでは伝わらない、たいせつなのは気持ち」だな。
おばあちゃんとはちがってふわふわで柔らかいエレシーダの好意にしばらく甘えてから、聖女装備を整え、陽の出とともにわたしは交神の間へ立った。
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「やってくれたわねえ、ニア。大したものよあなた」
さすがにそろそろ激怒しているか、あるいは大赤字で顔面蒼白になっているかなと思っていたのに、女神フィリアは余裕の表情だった。
「うわムカつく……。なによそのノーダメ面」
フィリアの代理人として「この世界崩壊のあかつきには、竜族と巨人族のみなさん全員へ、新天地への転送を保証します!」って、額面未記入の小切手切りまくってきたのに。
「聖女アルフィニアに対する、巨人と竜からの、種族を越えた親愛と敬愛の念が世界の半分にあふれているわ。いますぐ彼らを、残らず次元遷移でこの世界から送り出しても黒字なくらい」
「……マジか」
「ぶっちゃけるとね、もう世界を50年は余裕で維持できちゃうわ。すごい愛の力よ」
「……マジで?」
数がどのくらいいるのかわからないけど、巨人と竜すごくね? 聖女が勝手に女神の財布開けたら逆に流入のほうが多くなるって、収支バグってるじゃん。
ていうか、世界の危機克服できたなら、さっさと女神放送で伝えなさいよ。
わたしの心の声を聞きつけ、フィリアの眼が、すぅ、と細くなった。
「……わたくしが、この結果に満足していないことはわかるわよね?」
「オイコラ邪神。そろそろガチでぶっ●殺すぞ」
たとえ神聖力を供給遮断されようと、竜族と巨人族とその他もろもろの全知的生命体の意志の力を結集させれば、天界にカチコミしてこのフ●ッ●ン女神をまっぷたつにできるはずだ。なんかその自信がついてきた。そうだ神討の剣は心の中にある!
フィリアは、わっかんないなあ、とばかりに両手を放り出す仕草をした。
「もう……なんなのよ、あなたの自分のしあわせに対する無頓着っぷりは。わたくしよりよほど慈愛と博愛の女神らしいじゃないの」
「あんたが卑しいカプ厨すぎなだけだわ駄女神が」
「べつに王子さまとくっつけと強要する気はないわよ。女官のエレシーダ相手とかでもいいじゃない、百合もまた尊し」
「エレシーダは既婚者。知ってるでしょうがアホ女神」
エレシーダはお姉ちゃん気質で、わたしがチビだったころから、なにかと撫でたりハグしたりしてくるだけのこと。そういう女官はわりといる。
「あなたはべつに、性的無関心ってわけではないのよね?」
「ようわからん用語を出すな。そして仮にそうであっても、あんたに咎められるいわれはない」
「もちろん。愛のかたちに枠をはめるのは、わたくしの根源に反することよ」
「だったら、親愛と敬愛でことが解決したなら問題ないって認めればいい」
「……あなた、こういうところが理屈っぽいというか、頭でっかちよね。わたくしは、あなたにただ恋をしてほしかっただけ」
「あんたがほんとうに詫びるべきは、これまでの歴代聖女に対してでしょう。わたしを代償行為の対象にするのはやめろ」
わたしが徹底的に切り口上で応じつづけるものだから、フィリアはだんだんくちびるをわなわなさせはじめた。
「……もう、素直じゃない子!」
「これまでの育成環境のたまものよ」
バッ、とフィリアがつかみかかってきたのを、これは読めていたのでひょいと躱す。
「あー! わたくしにハグされるのはイヤなの!?」
「あんたはヤダ」
「わたくしもね、聖堂の女官たちと同じよ。あなたのことが好きなの、放っておきたくない! みんなに愛されているのに、全員の好意を平等に受け取って、結果的にだれにも自分の心を預けないところを見ていたくないの!」
「はぁ……わたしはそんなに哀れに見える? このままだとひとりさみしく枯れ果てて死ぬ喪女だと、心配せずにいられないってわけ?」
カプ厨女神にこんなこと言われるって、わたしはそこまで重症だと思われているんだろうか。
「じゃあ、竜族と巨人族からの親愛と敬愛を勝ち得たことをもって、あなたの聖女としての務めは満了したと認め、引退となったら、素直になるの?」
「テウデリク殿下とおつきあいはつづけるけど」
正直、あと三日で結論出せというのは、難しかったと思う。
殿下のことは嫌いではないというか、けっこう好きにかたむいてるような気はするんだけど。
「なら、引退してもらおうかしら」
「……つぎの聖女は」
まだ候補すら決まってないじゃん。
「てきとうに選びましょう」
「雑! それじゃ遠からず問題が繰り返されるだけ!」
やっぱり、このクソ女神斬り倒すのが一番早いのか?
「はあ……あなたの職務意識の高さがうらやましいわ。ほんとうにわたくしのこと斬り倒してみる? なっちゃう、女神アルフィニアに?」
「ぜったいにヤダ」
この駄女神は問題だらけだけど、じゃあ代われとかムリムリムリムリ!!
「それなら、わたくしの苦労をすこしはわかってくれてもいいじゃないの」
「べつにあんた、だれかから世界の維持を押しつけられたとか、やむなく引き継いだとかってわけじゃないんでしょうが。自分ではじめた箱庭運営には責任持ちなさいよ」
最高神レースで優勝しただけって言ってたのちゃんと憶えてるぞ。
「だって、まさかの『お客さま』からの赤スパチャで目標額カンストとか想定してないし」
「意味のわからんことをぬかすな」
「もののたとえよ。箱庭ゲープレイの配信してるってわけじゃないわ」
「……だれに向けての説明よそれ」
ほんっとまれによく理解不能なこと言うなこいつは。わたしもよくわからないままに変な語彙増えてるんだけど、この駄女神と顔つき合わせるようになってから。
「……あ、そろそろ聖堂の開門時間になっちゃうわね。最大限遅延かけてはいるけど」
「あんた神なんだから、時間止めたり戻したりくらいできないわけ?」
「できなくはないけれど、不具合多発するからしないほうがいいのよ。世界が崩壊しだしてからうっかりに気づいたりしていたら、ほかに選択肢ないしやるしかなかったでしょうけど」
「最高神の地位失うだけで、困らないからまあいっか、で見捨てようとしてたクセに」
わたしがジト目で女神の誠意を疑うと、フィリアはこれまでで最高に邪悪な笑顔を浮かべた。
「あなたをいじるのが思いのほか楽しいってわかったから、仮に崩壊阻止できなかったルートになっていても、リプレイしたこと疑いないわね」
「……このクソBBA! ぶ●っ殺す!!」
「いつでもいいわよぉ、ぜったいに女神業引き継いでもらいますからねえ。次期女神アルフィニアさま」
「ぐぬ……ああ〜、ムカつく、ムカつくっ!!」
殺っ●てしまったら女神にされるとか、冗談じゃない! 聖女業だけでいっぱいいっぱいなのに。
だんだんと地団駄踏むわたしに対し、フィリアは邪悪な笑みを引っ込め、手を伸ばしてきた。
「ねえニア、一度でいいから、ハグさせて」
「……なんで」
「わたくしが、あなたをかわいい、って思っていることを証明するわ」
「うっざ」
憎まれ口をたたきはしたが、心の底から拒否はしなかったので、フィリアは慈母のほほ笑みを浮かべると、ふんわりとわたしを抱きしめた。
フィリアの言葉に詐りはなかった。人間でいえば、妹や娘と同じくらい、わたしのことを思いやり、たいせつな存在だと感じている。
もっとも、この空間でウソはつけないから、わかっていたことではあるが。
精神体むき出しのこっちは心の中さえ隠せないが、神のがわも、言葉に出したことに虚偽が混ざればこっちに違和感として伝わるし、精神体を接触させれば黙っていたことすらバレてしまう。
まあ、犬猫あつかいより上だったのは予想外だったかな。
……それでもわたしは、できればフィリアと接触はしたくないのだ。
わたしから見るフィリアの姿は、マザー・テルマのものだから。
見る者にとっての「究極至善」なる存在として、定形を持たぬ女神は、そういうかたちでしか現出できない。
一番最初、わたしが聖女になってはじめて交神の間からこの空間へ精神体を飛ばしたとき、フィリアはおばあちゃんの姿で出迎えた。
あのときのことは、はっきりと憶えている。
「……その顔はやめて!! その声はやめてッ!!!」
わたしは女神に向けて、とんだ第一声を放ったものだ。
ぼろぼろ泣きながら頭を抱えてしゃがみこんだわたしへ、フィリアはマザー・テルマと同じく優しい口調で語りかけてきた。
「あなたにとって、もっとも高貴なる存在はマザー・テルマ。だからわたくしは、彼女の姿かたちでしかあなたの前に現れることができないの」
「……それは、聞いてた。でもむり……あんたは、おばあちゃんじゃない……」
「困ったわね。……では、これならどうかしら?」
女神の声の調子が、高く張りのあるものに変わったので、わたしは目を上げた。
フィリアは、マザー・テルマの若きころに、豊かに波うつ金髪と、やわらかで輝くばかりの面立ちをした、女性らしいふくよかな肢体へと姿を変えていた。
かつての自分の失敗を突きつけられることにはなったけど、それでも、おばあちゃんの顔と声でいられるよりはずっとマシだった。
以降わたしは、絶世の美女の姿をしたフィリアと毎朝顔を合わせるようになったのだ。
……腕をほどいてわたしから身を離したフィリアが、女神然とした優しい眼で話しかけてくる。
「ニア、つらいなら、休んでも、辞めてもいいのよ」
「だいじょうぶ。じゃ、また明日くるから」