042
時刻は21時30分過ぎ。
寮から歩いておおよそ30分の距離だ。
日付変更までに帰るなら30分前に出れば間に合う。
橘先輩に外で少し待たされている間、念のために確認した。
「ごめんね、お待たせ。はい、どうぞ〜」
「お邪魔します」
橘先輩に案内され、お屋敷の応接間・・・ではなく、寝室っぽいところに案内された。
「え? ここって」
「私の部屋だよ?」
「ぶっ!」
なに、あっけらかんと言ってんだよ!
夜中に自室に男を連れ込むとか、変な噂が立っちまうだろ!
「あっはっは、大丈夫! ここ、防音とかしっかりしてるから」
「そこじゃねぇ!!」
「え〜? 私の親は自由にしなさいって主義だよ。というか、私はもう成人してるんだしさ」
そうだった。
16歳で成人だったよ。
「武君も自立後見で成人扱いでしょ? 何も問題ないじゃん」
「ああもう、だからそこじゃねぇっての!」
「ん〜? 私としては何かあった方が嬉しいんだけどな?」
「・・・」
なんかもう、水掛論というか。
何でこの人の思い通りに事が運ぶんですかね。
「あはは、大丈夫だよ。さくらみたいに強引にはしないって」
「強引って?」
橘先輩、見てたの? 覗き?
乱入のタイミングが良かったから可能性微レ存。
「あの子みたいに正面からじわじわ来られたら、逃げられなくなるじゃない?」
「ああ、まぁ・・・」
「ほら、座って。温かいもの用意するから」
「うん」
俺は勧められるまま、広い部屋の片隅にあったテーブル席についた。
そうだな、九条さんに真っ向から応えると確かに逃げ場はない。
それは今日、実感した。
橘先輩の乱入によってどうにか有耶無耶になったけど。
「どうせ今日1日、あのふたりにもあれこれ迫られたってとこでしょ」
「・・・エスパーかよ」
何で分かるんだよ、この人!
「ふふ、勘かな。武君、優しいからなぁ。出来るだけ答えようとするから、逃げ道が無くなっちゃう」
「俺は最初からお茶を濁してるつもりなんだけど」
「そういうとこ! ねぇ、自覚ある? スルーせずに言葉を交わすだけでも、相手とっては受け止めてもらったって、嬉しかったりするの」
・・・。
そんなに俺、真面目に相手してたっけ?
「とにかく。貴方は無理に相手に合わせすぎ」
うーん、自覚なし。
そう言われるのならそうなのかもしれない。
「紅茶で良かったよね」
「あ、うん」
話しながら橘先輩は沸かしてあったお湯で紅茶を用意してくれた。
「ストレートで良い?」
「うん、ありがとう」
白いお洒落なティーカップが俺の前に置かれる。
紅い水面に、対面に座った橘先輩の顔が映った。
アールグレイの豊かな香りが鼻孔を愉しませてくれる。
「ね、あれからどう? 勉強は順調?」
「・・・うん。お陰様で」
「そ、良かった」
橘先輩も紅茶を飲んでいた。
コーヒー派じゃなかったっけ?
ついでだから同じものを淹れたのか。
「私ね、ずっと心配なの」
「うん?」
「ほら、5月頃に無理をしてたじゃない?」
「ああ・・・その節はほんと、ご迷惑をおかけしました」
「いいの。私も頼られて嬉しかったんだから」
橘先輩の吊り目が投げかける視線は、卒業してからいつも穏やかだ。
今も俺のことを優しく微笑を浮かべて見ている。
弓道部の負担がそれだけ大きかったのかもしれない。
「辛いことを頑張って無理するのって、譲れないことがあるからじゃない?」
「・・・うん、そだな」
「私が弓道部で空回りしてたみたいにね~」
からからと笑う橘先輩。
紅茶に口をつけてその顔を見た。
自分を卑下した笑いでもなく、本当に懐かしむような雰囲気だった。
「武君が頑張っているのは知ってる。高天原だけじゃないでしょ? 頑張る理由」
「・・・」
相変わらず切れますね。
色々察してそうで怖いんだよなぁ。
「だから、心配なの。行き詰まって余裕が無くなったら、また同じことしちゃう」
「・・・ん。気を付ける」
「もう、そうじゃなくて」
橘先輩は俺の顔を覗き込むように身を乗り出して来た。
少しぼうっとしてた俺の意識に彼女が入り込んできた。
「逃げ場を作ってほしいの」
「逃げ場?」
「そ。行き詰まったときに逃げるとこ」
・・・いわゆるストレス解消方法か。
「ただでさえ難しい事なんでしょ? 私達に構ってられないくらい」
「・・・」
「誰かに話すのでも、遊ぶのでも、食べるのでも、寝るのでもさ。どれでもいい。考えてみて」
そうなんだよな。
リアルの社会人なんてメンタルヘルスで当たり前にやってる事だ。
俺が鬱っぽくなったのも無理が原因だし。
とても真っ当なことを言われている。
「私はさ、ガス抜きにでも愚痴ってほしいな、なんて思ってる」
「・・・うん、そうだな」
「え?」
なんとなく。
橘先輩になら話しても良いかな、なんて思った。
大丈夫そうな気がした。
「えっと、無理に言う必要もないんだよ?」
「うん。言いたくなった」
「えっ!?」
俺の心変わりに橘先輩は少し慌てていた。
本当に言うとは思わなかったのだろう。
俺の心が、気持ちが呼水に反応して少し溢れたのかもしれない。
「どうしたの、急に。そんなに今日、迫られてた?」
「ああ~・・・うん、そうだな」
「んん、さくらもかなり頑張っちゃったのね」
「あのふたりもね。俺が悪いんだろけどさ」
俺は頭を掻いて苦笑する。
傍目には優柔不断だろうし不誠実だろうし。
九条さんに肯定されたところで、この事実が消えるわけではないのだから。
「ううん、そうじゃない。貴方はずっと、今は駄目って言ってる」
「うん」
「貴方に言わせようとしてるのは、あの子達が自分の都合を押し付けてるの」
「そんなものかな」
「うん、そんなもの」
紅茶を含む。
少し冷めてきたけれど、まだ香りが心地良い。
「・・・橘先輩は・・・香さんは、同じように気にならないの?」
「ん? 私? 約束したじゃない、待つって」
そうだった。
本当に言葉通り、待っていてくれてるのか。
「皆、自分が都合のいいように動きたいじゃない? それは自然なことだと思う」
「うん」
「恋路なんて暴走しがちだし、行けるところまで行きたくなるものだし」
「うん」
「でもね。ひとりくらい、貴方に合わせる人がいても良いかなって」
「・・・」
この人は・・・。
ずっと見えない気安さがあるとは思っていたけど。
そんなことを考えていてくれたのか。
「うん・・・ありがとう」
「どういたしまして」
橘先輩も紅茶に口をつけていた。
暗くて何も見えない窓の外を見てほぅっと一息ついたその仕草がやけに印象的だった。
「・・・今年はね、チョコは手作りしなかったの」
「そういえば。九条さんは手作りにここに来たって言ってたのに」
「うん。だから私は市販品」
「押し付けないようにってこと?」
「そ。気持ちを伝えるのと、押し付けるのは違うから」
「・・・」
「みんながみんな、手作りしちゃうとしんどいじゃない?」
待つと言って本当に待つ。
他の恋敵の動きも気になるだろうに。
こういう行動に表れているところが、橘先輩たる気高さな気がした。
「はは・・・ほんと、叶わないな」
「ふふん? 私のこと、惚れ直してくれた?」
「うん、惚れ直した」
「ふぇ!?」
軽口を肯定すると虚をつかれたのか目を白黒させて慌てていた。
そんな仕草を良いなと思い・・・口元が緩んだ。
「俺さ、中学に入ってからずっと勉強ばっかりしてて」
「うん」
「皆にこうやって仲良くしてもらってても、あんまり皆のこと考える余裕がなくて」
「うん」
「だからかな・・・俺から、皆への気持ちが出てこないというか・・・」
「・・・うん」
・・・酷いことを口にしている気がする。
それでも聞きに徹してくれている。
「もらってばかりで返せてない。歪なんだなって思う」
「うん」
「こういうのって・・・どうすれば良いかな」
言ってしまった。
お前らのことなんか興味ねぇって。
勝手に騒いでんだろって。
「ん~? どうもしなくて良いんじゃない?」
「え?」
「さっきも言った。貴方は自分でそうなるって宣言してるんだよ」
「・・・」
「押し付けられたものまで気にしなくて良い。武君が重くて動けなくなっちゃう」
じっと、長い睫毛から覗く大きな瞳が俺を優しく映していた。
「ふふ、答えなんて考えなくて良い。こうやってお話するだけで、さ」
「・・・」
「こういうのが愚痴って言うんだから」
「・・・そう、だね」
・・・俺は自分で四十路であることの自負があった。
けれど、橘先輩の気高さはそんな下らない自負を軽く凌駕していた。
桜坂の弓道部を飛び出してから、軽くなったなんて思っていたけれど。
それは俺の目が曇っていただけで、橘先輩はやっぱり気高かったのだ。
「・・・ありがとう、香さん」
「ん。少しは落ち着いた?」
「うん、よく眠れそうだ」
「それじゃ、私の夢をいっぱい見てね」
「見られると良いなぁ」
「えっ!? も、もう・・・」
・・・結構、押しに弱い?
弄るのが楽しいと思ってしまった。
「ん、良い時間だ」
「あ、ほんと。そろそろ帰る?」
「うん。・・・あ、そうだ」
「?」
俺が立ち上がると橘先輩も立ち上がった。
「その、さ。呼び方。今度から香さんって呼んでいい?」
「え!? ・・・う、うん。良いよ」
今日も何度か呼んでるんだけどな。
改めて言うだけで赤くなっちゃうなんて可愛いだろ。
「香さん。その・・・」
「うん?」
「お礼、させて」
「え?」
俺は香さんの隣に立つと。
優しく肩に手を回し、その身体を抱きしめた。
「あっ・・・」
ディスティニーランド以来、2度目。
香さんから艶のある声が出ていた。
最初は身体が強張っていたようで、少し硬かった。
でも直ぐにそれも緩み、俺に身体を任せていた。
「ありがと」
少し、力を込めて。
前よりも少し大人になった身体を抱きしめた。
女の子の匂いが密着していることを強調する。
彼女は俺にされるがまま大人しくしていた。
静かな部屋に早鐘のような俺の鼓動だけが響き渡っているようだった。
◇
「じゃ、気をつけてね」
「うん。遅くまでありがとう」
「ふふ。何かあったらまた来るんだよ」
「ん。その時は連絡する」
「待ってるから」
暗い寒空の下。
互いに笑みを交わして俺は踵を返した。
少しの時間のハグだったけれど、俺の腕にはまだ温かい感触が残っていた。
途中、何度か振り返ると、角を曲がるまで手を振るその姿を見ることが出来た。
帰り道の足取りは軽かった。
朝、憂鬱に感じていたことが一体何だったのか。
そう思えるくらいに気が晴れていたことにびっくりした。
夜空を見上げると180年前と同じ星座が俺を見下ろしていた。
これで2年生はおしまいです。
引き続き3年生をお楽しみください。
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