1st:EP01:そよ風の少女
1
真っ赤な朝日が重く垂れ込めた雲の隙間から顔を出す明け方は怒りで空腹を訴える唸り声も、また歩き回る人影も見えない。だから、このチャンスを逃すことはできない。風がそよぐ中、巣へ帰っていく動物たちに別れを告げたわたしはお気に入りのワンピースの裾をひらめかせると村の集会所に足を向けた。
この村も以前は大きな都市だった。
倒壊を免れたビルは今では廃墟と化し、道路は雑草に覆われて車の墓場になった。今や絶滅危惧種となり果てた人間は郊外へ。安全と食糧を求めて、そのまた向こうへと逃げ散っていた。ここに残ったのは、わたしを含めてひと握りの者たちだけ。
人類を地上から洗い流すようにあらゆる兵器が投入された浄化戦争が既存の文明をリセットしてしまったのだ。
*
村の中央広場に人影が絶えるのをわたしは待った。そして警備の者から、かすめ盗った鍵束から一本一本試して、やっと鉄扉を開錠した。かつては地下鉄の駅に通じる階段の先は真っ暗で黴臭く、血の微粒子が微かに混じっているのに気がついた。嗅覚がまだ残っていてよかった。戦争で視力を奪われた者、聴覚を奪われた者、触覚や嗅覚。すべての感覚を奪われた不幸な者さえいた。でも幸いなことに、わたしは多くの者たちと同じように声を含む二、三の感覚だけしか無くしてはいなかった。
わたしは手探りで、ゆっくりと微かな血の匂いをたどった。暗闇を何歩か進むうちに、昨日、村の外縁部で捕まった若い男の脚につまずいて転びそうになった。彼のものと思われる苦痛を含んだ小さな悲鳴が上がった。わたしは急いで、その場に跪くと彼の胸や二の腕を探り当てると手のひらで軽く叩いて落ち着かせようとした。それでも執拗に抗うので、わたしは階段まで急いで戻ると階上から差し込む朝日の中で、自分のシルエットを使って身振り手振りで逃走を訴えた。わたしの必死さが伝わったのだろうか。
「わかった……わかったよ」
しわがれた声の返答に、わたしは安心して彼の元まで戻ると、その腕をとって立たせようとした。
「すまないけど、ゆっくり頼むよ。けっこう痛めつけられたんだ」
わたしは首を大きく縦に振って了解の意思を示すと彼に肩を貸した。
「君は誰だい」彼は喘ぎながら立ち上がると、わたしに顔を向けた。「まさか口がきけないのかい」
わたしは明かりの漏れる階段まで彼を連れて行くと、自分の口を指さして首を左右に振った。彼はしばらく口をつぐんでから理解したように「ごめんよ。助けてくれてありがとう」と礼を言った。
わたしは身振り手振りで「早く逃げるのよ」と彼を促した。
2
わたしと彼は誰にも見つからずに村の外縁部近くまで延々と走り続けた。
外縁部の境界に児童公園だった広場を見つけると、苦しそうにわき腹を押さえた彼はついに立ち止まり、苔むした石のベンチにへたりこんだ。怪我も出血も大したことはないはずなのに。
とにかく、ここではまだ安心できないので、わたしは更に先を促そうとしたけど、彼は立ち上がる気配すらない。
なんて、か弱いのだろう。
そうだ。だからこそ守ってやりたいと思う。
昨夜、捕まった彼をひと目見たとき、そう感じた。
村の者から小突き回されている彼に心を痛めた。
だからこそ、わたしは行動を起こしたのだ。
わたしは急き立てるのを諦め、彼の横に腰を下ろすと、疲れ切って寄りかかってくる頭を肩に抱いて姉のように優しく撫でてやった。久しぶりに味わう至福の時だった。やがて彼の身体から緊張が解け、ワンピースの太ももの上に頭が乗った。
お気に入りの黄色いワンピース。
肌触りがいいのか、彼は軽く寝息をたてはじめた。怒れる者たちに見つかる前に早く逃げなければならないけど、わたしは彼が起きるまで膝枕をし続けてやろうと思った。
*
わたしと彼は石のベンチで陽が沈む前まで休むと再び移動を開始した。
彼のことを考えて今度は走らずに歩くことにした。村の外縁部を越えてしばらく進むと、廃墟と化した郊外の住宅地に出くわした。新参者に気づいた犬や猫、その他の様々な動物たちが、しばしの縄張り争いを止め、わたしと彼に敵意があるかどうか観察しはじめた。彼は野犬の群れを見て恐れたようだが、わたしは怖くなかった。だって彼らが襲ってくることがないのを知っているからだ。わたしは彼を気遣いながら、住宅地の新たな支配者たちを避ける道を示すと、二人でさらに郊外へと歩き続けた。
3
「まだ少しでも物資が残ってればいいんだけど……」
街外れで突然そう呟いた彼は立ち止まった。わたしたちの視線の先には満月に照らされた古びたマーケットがあった。奇跡的に正面の大きなガラス扉が一枚割れているだけで、他に異常は認められなかった。ただ店の中は暗くて奥まではっきり見通せない。彼は道に乗り捨てられている車のトランクからバールを見つけだすと、わたしに顔を向けた。
「危ないから、君はここにいてくれ。ぼくはこういうのに慣れてるからね」
なんて愛らしいんだろう。
か弱いのに彼はわたしを気遣ってくれている。
心がきゅっとして、こそばゆくなる。
もちろん、その気持ちだけで充分だ。わたしは首を何度も横に振ると道端に落ちている、こぶし大のコンクリートの欠片を拾い上げた。
彼と目が合った。とても真剣な目だ。
わたしも一所懸命に彼の目を見つめ返す。
根負けしたように彼はしぶしぶ頷くと、私の同行を認めた。
*
店内に入った彼とわたしは略奪にあった店内を慎重に奥へと進んだ。天窓からの月明かりの中、彼は食料品が何も残っていない荒れた店内を確認しても動じることがないばかりか、自分の家のようにオフィスを目指して自信たっぷりに進んでいった。オフィスでは、てっきり倉庫の鍵でも探すのかと思ったが、彼はオフィスの隣の薄暗いロッカールームを物色しはじめた。
「ぼくは戦争の中盤まで、この手の店舗でアルバイトをしてたのさ。そこで学んだのは、戦争中はお金なんかより物資。だから物資を探すんなら、倉庫なんかは駄目。かえって金目のものしか無なさそうなところを探すんだよ」
彼はそう言うとロッカー横に積み上げられた古い段ボールの中から二つの手提げ金庫を見つけ、手際よく一つ目の蓋をバールでこじ開けた。中には懐中電灯と拳銃が入っていた。続けて二つ目の蓋をこじ開けると、今度は数本のキャンディーバーとビスケットの袋が2つ入っていた。歓喜の声を上げた彼の顔は輝き、とても愛らしかった。ますます守ってやりたいという思いが強くなる。
「さぁ、君も」
口いっぱいにビスケットを頬張った彼は勧めてくれたが、わたしは首を左右に振って断った。だって、お腹は空かないし、彼の嬉しそうな顔を見ているだけで胸が一杯で、なにも欲しくはなかったから。
「ほんとに要らないのかい。昨日から君も食べてないじゃないか」
わたしへの気遣いに、またも相好が崩れる。
わたしは手を差し伸べて彼の頬を撫でる。
彼の目にわたしへの感情が宿る。
心が通じあっている。
そう思った矢先だった。彼は店内に鋭い視線を向けると、唸り声をあげる数頭の大型犬に銃を向けた。
「いけない。やめて」
わたしは心の叫びをすぐさま行動に移した。
拳銃を持つ彼の手をはたいた途端、轟音がオフィスの空気を激しく震わせ、闖入者を一瞬たじろがせたが、犬たちに逃げる様子はなかった。きっと空腹すぎて獲物を置いて逃げるわけにはいかないのだろう。わたしは彼のもう一方の手から素早くビスケットの袋をもぎ取ると、中身を掴んで店内の暗闇へ向けて投げ入れた。
「なにをするんだ」
彼の叫びを無視して、今度は2つ目をよく見えるように大きく振ってから、これも同じように店内へ投げ入れた。犬たちはビスケットの軌跡を追って店の奥へ駆け込んでいく。わたしは彼の手を取ってオフィスの裏口のドアを内側から開錠して外へ出ると、ドラッグストアをあとにした。
*
彼はまだ怒っていた。
無理もない。せっかく見つけた食糧を無駄にしたと思っているんだ。犬たちも傷つかず、誰も傷つかなかった。でも、それは彼には通用しないようだ。あくまで人間中心の考え方。学校で習った通りだ。人間はか弱い。か弱いからこそ武器を取って異端者を排除することで安心を得ようとする。そして、か弱さゆえに、より多くの同類を求め、社会と文明を作り上げてきた。だから……。
「怒って悪かった」彼は突然立ち止まると、わたしに顔を向けた。「そもそも君が助けてくれなかったら、ぼくは今ごろどうなっていたか……だから、もう犬に大切な食料をやるなんてことは、やめてくれよ」
……だから人間は、ほんとは寂しがり屋で怖がりなんだと、わたしは思う。
納得するわたしを見て、はにかんでキャンディーバーを頬張る彼は、やっぱり可愛い。
4
錆びた線路の上を一昼夜歩き通して、わたしと彼は深い森の中へ分け入った。草や低木が微かな音を立てるたび、彼は凍りついたように動きを止めたけど、それは人間の軛を解かれた愛らしい動物たちやそよ風の悪戯だ。
やがて森の中に異様な風景が現れた。
有刺鉄線で囲われた広大な土地と、その中に点在するコンクリート造りの、かまぼこ型の建物が数棟。それに装甲車両と戦争末期に投入された自律型多脚兵器。でも、そのどれもが顧みられなくなって久しいことは朽ち果て具合から明らかだ。彼はひときわ大きく破られた有刺鉄線の跡から敷地内に入ると、装甲車両に使えそうなものがないかと中を覗き込んだ。そして六本脚の片側三本までを失った自律型多脚兵器の残骸を苛立たしげに蹴とばすと、外壁の所々が茶色く変色した蔦の絡まった建物の一棟に目を向けた。
わたしは嫌な予感がした。
彼は好ましくないものを、そこに見るかもしれない。
「駄目よ、そこは」
心の声は彼には届かない。だから、わたしはその腕を掴んで首を左右に激しく振った。でも彼は制止を振り切って生存者避難所と半ば剥げかけた看板が掲げられた建物の分厚いハッチに手をかけた。彼は重いハッチを引っぱり、その隙間に身体をこじ入れると、渾身の力で通り抜けられるだけの空間をなんとか確保した。ハッチが半分以上開いたためか、室内の非常灯が瞬いてついた。明りに誘われる虫のように建物内に吸い込まれた彼に続いて、わたしも中に入った。
*
彼が可哀想だった。
あの中で何を見ることになるか予想ができていただけに、それを止められなかった自分の不甲斐なさが呪わしかった。
所々が茶色に染め上げられた数々の部屋で血の気をなくした彼。風化しかけた残骸の山に腐敗臭がほとんど残っていなかったことだけは幸いだったけど、落胆と動揺を滲ませた彼を見ているだけで、とても心が痛んだ。どうやって慰めてやればいいのか見当もつかない。それでも何とかしようと、肩を落とす彼の顔に手を伸ばしたけど、わたしを拒絶するばかり。
でも、きっとまた元気になるはずだ。
それまで待とう、時間はいくらでもある。
彼とは心が通じ合っているのだから。
へたり込んだ彼の傍にしばらく佇んでいたわたしが腰を下ろそうとしたとき、建物の陰から急に人影が現れた。
「動くな。二人ともそのまま」
軍用小銃の銃口を彼とわたしに向けた女が決然とした声でそう命じた。
「ぼくらは……」
「お喋りの許可は与えてない」女は小銃を持つ手に力を込めた。「口をつぐんで、私らの仕事が終わるまで良い子で待ってろ。わかったら、一度だけ頷きな」
彼は無言で従い、わたしはこの無粋な女に腹が立った。腹が立って仕方なかった。
でも怒りは禁物。絶対に怒っては駄目だ。
わたしは湧き出ようとする怒りを必死にのみ込んだ。
女は彼とわたしから視線を外すことなく、後ろに控えている武装した三人の男女に声をかけた。三人に比べて年かさの女はグループのリーダーなのだろう。すぐに、二人が女と見張りを交代して、残った眼鏡の男はリーダーに付き従って生存者避難所の中に消えていった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。森の中で虫の声が止んだころ、重そうな黒いケースを運ぶ眼鏡の男を従えたリーダーがやっと外に出てきた。
「今度こそ成功するのを心から期待してるわよ」
嫌味を言われた眼鏡の男は、うんざりしたようにリーダーから視線を外すと作業に取り掛かった。男は黒いケースと自律型多脚兵器の残骸に様々な色のケーブルを繋ぐと、なにやらゴソゴソやりだした。しばらくするとブーンという虫の羽音とは違った不快な音がしはじめた。
この4人は兵器を再起動させようというのだろうか。わたしの心は不安で一杯になった。
「よし、いけそうだ」眼鏡の男の顔に会心の笑みが広がった。「やってみる」
残骸がガタガタと振動して、片側に残った三本脚に動力が戻った。でも、それは地面の上で無様なダンスを繰り広げるだけで、すぐに命を失った昆虫のように折りたたまれてしまった。一つだけ残ったセンサーカメラも赤い光を瞬かせては消え、また瞬いては消えた。ブーンという不快な音と赤い光が徐々に小さくなっていく。
やっぱり、壊れたままだ。
わたしが安心したのも束の間。突然、赤い光の帯が辺りを探るようにセンサーカメラから伸び広がったかと思うと、自律型多脚兵器が喋りだした。
「周辺走査を開始。標的1、人間、クリア……。標的2、人間、クリア……。標的3、返死人、攻撃開始」
轟音が大地を震わせ、わたしの身体は突き飛ばされたように大地に転がった。視界のむこうに起動した武器から紫煙を立ち昇らせた自律型多脚兵器が再び機能を停止し、眼鏡の男が必死に黒いケースと格闘している姿が見える。
身体の痛みはない。
わたしはもともと呼吸もしてないので肺から血の泡を吐くこともない。
あるのは驚き。それに……。
5
浄化戦争が世界にもたらした荒廃のきっかけになった返死人問題は、人類の不屈の精神と善意が終点まで転がり続けた結果だと皮肉られることがある。
世界中に蔓延した生物兵器による感染症を封じ込めるために急造された生ワクチンが人体内で突如、活性化されて変異を続けた結果、人間を死に至らしめた後、人肉を喰らう動く死者。その呪いを傷を負わせた者にも与える使徒として蘇らせたのだ。当初、蘇った死者たちは人類にそう認識されていた。もちろん、それは当たらずとも遠からずだけど、返死人になって初めてわかることもある。
わたしたちは自己完結した存在だ。
身体に宿った力は腐敗菌を含めて、あらゆる細菌を寄せつけないから人間として死んだときのままだし、消化器系も動いていないから、なにかを食べなければならない必要すらない。だから、そっとしておく限りは人間にとって返死人の存在自体、とても無害なものなのだ。
ただし、あるきっかけがない限り……。
怒り
人間が怒りの感情で食欲を増進させるのと同じかどうかはわからないけど、返死人は怒りに駆られると抑えがたい飢えの衝動に苛まれてしまう。それがわかっているからこそ心の平安を保つのに、まるで修行僧のように月明かりの下を歩き回って思索に耽ったり、わたしのように動物や自然を愛でたりする存在も数多い。なのに人間はわたしたちを過剰なまでに攻撃した。世界中にいる数千万の仲間たちを、まだ少数のうちにと残酷に排除しはじめた。
ただ人間は自分たち自身をよくわかっていなかった。
返死人排除を口実に自国の権益を伸ばそうとする輩のいることを。混乱に乗じて世界に覇権を唱えようとする者に鉄槌を下すことが正義だと信じて疑わない性があることを。こうして各地の国際紛争は、人間とわたしたちを巻き込んで、より大きな戦争へと拡大し続け、既存の文明を破壊しさったのだ。
*
「小僧」リーダーは彼を銃床で突き倒した。「お前は、この返死人とどんな関係だ」
あの女め。なにもしてない彼に暴力をふるうなんてあんまりだ。
「彼女は……彼女は、ぼくを助けてくれたんだ……」
「奴らが、そんなことするか」
「でも」と、リーダーの怒声に眼鏡の男が顔を向ける。「彼は喰われもせずに生きてる」
「事実は、お前の操作ミスが人間を攻撃したってことさ。この女は人間だった」
「それはあり得ない。起動は完璧だった」
「まぁいい。どのみち人間と奴らの見分けはつかないんだ。返死人なら、完全に止めを刺さなけれ……」
倒れたわたしの頭に銃口を向けたリーダーの首が、おしゃべりの途中でゴロリと地面に転がった。
映画の腐死人や不死人のように返死人は愚鈍でも、緩慢にしか動けないのでもない。むしろその逆で、わたしのように二、三の感覚を失っただけの五体が揃っている者は大型の捕食獣並みの力とスピード、それに知力を兼ね備えている。
怒りに我れを忘れたわたしは残りの三人が反撃に移る隙を与えることなく素早く斃しさると、その死肉にむしゃぶりついた。
早く喰らって怒りの衝動を鎮めねば、今まで愛でてきた彼を襲ってしまうことになる。
辛うじて理性の欠片が働いているうちに、早く、早く。だって、わたしは、か弱い彼を守ると誓ったんだから……。
でも、さっき受けた攻撃で、大きく裂けた胃袋からは斃した人間たちの死肉が次々と体外にこぼれ落ちて、いっこうに飢えの衝動が治まらない。普段なら怒らせた相手の身体を六分の一も喰らえば衝動が治まるのに、なんてことなの。
その焦りが言葉を失ったわたしの口に声を思い出させた。動くことがなくなって久しい肺と声帯から絞り出された音は、人間には亡者の呻き声にしか聞こえなかっただろう。
彼の愛らしい目が恐怖に大きく見開かれ、震えるその手が落ちている小銃を拾い上げて、わたしに向けられた。
駄目よ。絶対に駄目。
早く、その武器を下ろして。
一所懸命に喰らうから、早くそれを捨ててちょうだい。
これ以上、怒りに油を注がないで、わたしの中の飢えの衝動は、まだ燻っているのよ……。
6
朝もやの中で自律型多脚兵器が、またしゃべりだした。
「……周辺走査を開始。標的1、返死人、攻撃開始。標的2、返死人、攻撃開始。標的の破壊を確認できず。再度攻撃……。標的1、返死人、攻撃開始。標的2、返死人、攻撃開始。標的の破壊を……」
弾倉が空になった武器が虚しくカチカチと音を立てる自律型多脚兵器を尻目に、わたしはチラリと彼に視線を向けた。まだ怒っているんだろうか。
それはそうだろう、彼はまだ死肉を貪っているんだから。彼の胃袋が一杯になったら、また様子を見てみよう。
いえ。死肉についた腐敗菌が、それだけを腐らせて体外にきれいさっぱり流し出すまで待ってみようか。そして謝ろう。
「ごめんね。あなたの左腕だけじゃなく、右目まで抉り取ってしまって」って。
とにかく彼はもう、わたしと同じように眠ることも、痛みを感じることもできなくなったけど、代わりに穏やかに流れる時間のさざ波を肌に感じることができるようになるはずだ。それは、きっと心に平安を与えてくれる。絶えず食べ、絶えず眠り、絶えず不安に苛まれる生活を強いられる人間には、とうてい手に入れられないものだ。
でも、彼を守ってやりたいという気持ちは急速に薄れてしまった。だって彼はもう、か弱くも愛らしくもなくなってしまったのだから。
それだけは、ちょっとだけ寂しい。
そうだ。
集落に帰るとき、彼と訪れたマーケットに寄ってみよう。倉庫の中は見なかったから、新しいワンピースがあるかもしれない。
それに帰り道で、また出会うかもしれない。
守ってやりたくなるような、か弱く愛らしい彼のような人間に。
了