手学庵お節介帖 「敵討ちの謀」 3
この日、ゴードルフは珍しく、強かに酒を飲んでいた。
と言っても、毒やら何やらに耐性のある体である。
今更、酒に酔えるわけでもない。
あたりはすっかり暗く、静まり返っていた。
秋口とはいえ、少々冷え込んできている。
空を見れば、半分に欠けた月が出ていた。
晴れた夜というのは、冷え込むことが多い。
着物の袷を掻きよせながら、ゴードルフは思わずほくそ笑んだ。
夜も遅くこんな時間を狙って出てきたのは、当然目的があるからだ。
と言っても、エンバフに頼まれごとをしたのでも、術魔王家から仕事を受けたのでもない。
あくまで、ゴードルフの個人的な目的である。
自分のためにこうして出歩くなど、忍びとして現役だった頃にはとても考えられないことであった。
先日の事である。
手学庵の子供達が、それぞれに美味いと思うモノの話をしていた。
「ゴードルフ先生のごはんは、べつとしてさ。なにかうまいものってないかな」
「そんなもの聞いて、どうするのさ」
「ほら、うまいものがあるところって、人があつまるだろ? 商売のタネになるとおもって」
手学庵に通う子供達は、商売に貪欲である。
といっても、がめついのとは少々違う。
なにしろ彼らはその稼ぎで、家族を支えているのだ。
親の稼ぎだけで食っていける家というのは、大魔王都ではむしろ珍しい。
まして長屋で暮らす庶民であれば、猶のこと。
武家の子供なんぞより、手学庵に通っているような庶民の子供達の方が、よほど立派なのではないだろうか。
「オイラたちも、そういうところに魚や貝をおろせれば、いいかせぎになるかもしれないだろ?」
「そうだなぁ、うーん」
「そういわれると、思いつかないもんだよね」
数人が頭をひねっていると、ほかの子供達が集まって来る。
すぐにたくさんの子供達が団子になって、唸り始めた。
あれこれ上げている店や料理の名前に、ゴードルフも聞くともなしに耳を傾ける。
そこで、気になる話が飛び出してきた。
話しているのは、ミチである。
「うちのながやに、屋台をしてるおじさんがいてね。そのおじさんが作ってるおうどんが、おいしいの」
「へぇ。どんなうどんなの?」
「なんかね、だいまおうと風じゃない、とおいとちの作り方なんだって。ツユがね、しょうゆのクロ色じゃなくて、おダシのこがねいろなの」
「黒くないツユなんて、あるの?」
「聞いたことあるなぁ。大魔王都は醤油が多いけど、土地によっては味付けがぜんぜんちがうんだって」
「そのうどんが、おいしいんだ?」
「そうなの。なんていうんだろう、ぐわーって、おいしー! ってかんじじゃなくてね。じんわり、やさしいかんじで、おいしいの」
「そんなのもあるんだなぁ」
「それで、おじさんは、よるにやたいをだすの。よっぱらいのひとに、やさしい味がいいんだって」
なるほど、確かに大魔王都はどちらかというと醤油文化だ。
力仕事に従事する、汗をかくものが多いからだろう。
少々塩っ辛い位の味付けが好まれる。
そのおじさんとやらの郷里では、出汁を前に出した味が好まれるということなのだろうか。
土地柄の味に優劣など存在しない、と、ゴードルフは思っている。
好みはあるだろうが、それは個々人の舌の差だけの話。
どちらがより優れているだの、より美味しいだのと言ったことはない。
さて、ゴードルフはミチの言う「やさしいかんじ」というのが、どうにも気になり始めていた。
出汁が強い地方というのは、いくつか思いつく。
さて、どこ風の味付けなのだろう。
サイガ港あたりでは、削り節と干し海藻で出汁をとるのだが、これが実にうま味が強くて美味い。
しかし、黄金色というほど色合いは薄くなかったように記憶している。
ある程度店によっての差などはあるだろうが、果たして。
もしかしたら、全く別の土地の、根本から違う出汁なのかもしれない。
ゴードルフの知識にない、思いもよらないものから出汁をとるとか。
そんなことを考え始めたら、もう矢も楯もたまらなくなってしまった。
ゴードルフは早速、件の屋台に行ってみることにしたのである。
酔客相手の夜中の商売なのだ、と、ミチが言っていた。
少々酔っぱらって、千鳥足の時に食うと美味いというのだ。
なるほど、体調によっても舌は変わる。
そういう時に食うのが美味いというのなら、こちらも食べる態勢を整えるのが礼儀というものだ。
とはいっても、先にもいったようにゴードルフは酒に酔えない体である。
忍びとして生きてきたこと、育ててもらったことに後悔はない。
ただ、こういう時は恐ろしく恨めしくなる。
何かこう、あえて毒が効くように体を作り替える魔法などはないものだろうか。
なんだったら、酒だけが効くようにするのでもいい。
そんな、少々間抜けたことを考えながら、歩いていく。
ほどなくして見えてきたのは、道端にある赤ちょうちんだ。
七輪の火も、いくつか見える。
先客が二人ほどいて、美味そうにうどんを啜っていた。
なるほど、しょうゆの匂いはしない。
濃厚なうま味の香り、出汁の香りが立ち込めているようだ。
「おっ、うどんやかぁ。丁度いいや、オヤジ! 一つ、もらえるかい?」
気持ちよく酔ったふりをして、声をかける。
こういったちょっとした演技も、店の流儀に合わせる礼儀の一つだと、ゴードルフは思っている。
「いらっしゃいまし。お客さん、うちは、大魔王都風のうどんじゃぁ、ありませんでしてね。汁は醤油じゃなくて、ダシが強い。うどんは腰がなくって、柔らかい。なんて、田舎のうどんなんですが。よろしいですか?」
主人が、いかにも申し訳なさそうに尋ねてくる。
多くの人間を見てきたゴードルフが見た中でも、五本の指に入るような人のよさそうな顔立ちである。
腰の低い態度も相まって、言葉が全く嫌味に響かない。
なんだ、それなら食わねぇや。
といったような気持が一切わかず、むしろ「たまにはそういうのも面白そうだ」なんて気持ちになるような、暖かな声音であった。
忍びであるゴードルフだからわかる。
これは話術や芝居などではなく、この主人の人柄からにじみ出てくるものだ。
「へぇ、いや、そりゃ余計にありがてぇや。なにしろ、酔っ払っちまっててな。やわらけぇほうが、食べやすくっていいや。味だって、あれだ。さっきまでさんざん濃い味で、クイッとやってたからよぉ。一杯、食わしてくれな」
「ありがとうございます。お品書きなんかはありませんで、ご用意できるのは一つっきりなんですが」
「はっはっは! そりゃ、悩まなくっていいや!」
「では、ご用意したしますので。少々お待ちください」
とても、屋台の親父とは思えない態度である。
礼儀正しく、それでいて堅苦しくない。
ほんのりと漂ってくるような品の良さは、あるいは武家のようですらある。
だが、武家が庶民に対してこんなに腰の低い態度が出来るだろうか。
どうにも不思議だが、居心地の悪さや、場違いといった印象はまるでない。
そんなことを考えているうちに、親父は調理に取り掛かっていた。
大鍋から小鍋に汁を注ぎ、七輪に載せる。
コトコトと温まってきたら、そこにうどんを投げ込んだ。
既に下茹でしてあったのだろう、ずいぶん柔らかそうである。
温まっていくうちに、香りが立ち上ってきた。
なるほど、美味そうな匂いだ。
嗅いだことがある気がするが、これだけで何かがわかるほど鋭くない己の鼻の鈍さを、ゴードルフは恨んだ。
「お待たせしました。熱いので、気を付けて召し上がってください」
ほどなくして出てきたうどんは、ミチの言う通りの物であった。
黄金色の汁は、底が見えるような透明度はない。
だが、濁りというよりは、濃厚、というような色合いをしている。
確かに醤油は入っていないようで、あの独特の黒、紫といった色は見えなかった。
まず、香りである。
出汁の、強く、優しく、それでいて濃厚な香り。
ガツンというような力強さはないが、振り向かずにいられなくなるような、魅力に満ちている。
まずは、汁を啜る。
じわじわとしみ込んでくる温かさ。
舌に当たると、汁にはわずかなとろみがあるのがわかる。
伝わってくるのは塩気ではなく、旨味。
すっと爽やかな、それでいて驚くほどに力強い旨味であった。
にもかかわらず、喉を通って胃の腑に落ちてしまうと、すっ、と爽やかに味が去っていく。
だが、それを寂しくは感じない。
口から鼻に抜けていく出汁の香りの、何と楽しい事か。
これだけで「美味い!」と感じるのだから、香りというのは不思議なものである。
また、うどんの麺が、良い。
親父が言うように、腰の強い大魔王都風とは全く違う。
むしろ真逆と言っていいうどんである。
柔らかく長時間煮込まれたような、ともすれば伸びたように思うものがいるかもしれない柔らかさ。
だが、この汁にはこのうどんがいい、むしろこれしかないと思わせるほどに、相性が良かった。
柔らかなうどんは汁によく絡み、啜るたびにたっぷりの汁を口に運んでくれる。
数回噛めばほろほろと容易く切れるうどんからは、小麦の優しい甘さが滲む。
これがまた、汁とよく合うのだ
なるほど、これは酔客に受けるはずである。
たっぷりと酒を飲み、少々疲れた胃の腑を優しく労い、全身をじわじわと温めてくれる。
ゴードルフは夢中でうどんと汁を啜り、あっという間に食べ終えてしまった。
「はぁ、こいつぁ、うめぇや」
そう口にするときにも、口から鼻へと香りが抜けていく。
食った後も、また美味い。
さて、問題はこの汁の正体である。
あまりにも夢中で食べてしまい、それを探るのを失念してしまっていた。
忍びとしてはありえない大失態だが、酔客としてはこれが正しい。
余計なことを考えず、うどんを楽しめた。
今日のところは、これで満足すべきではないか。
なに、味の秘密は、また今度探ればよいのだ。
ゴードルフにしては珍しくそんな風に考えられたのは、このうどんと親父の人柄がなせる業だろうか。
「ごちそうさん、いやぁ、美味かったよ! また、見かけたら寄らしてもらわぁ!」
「はい、ありがとうございます」
ゴードルフはうどんの代金を払うと、気持ちよく帰路へとつくのであった。




