1-3 人魚のミイラ
「ふふ、人魚のミイラは見つかりました?」
少女はちょっとからかうような調子でそう尋ねてきた。今日は海の家のバイトではないのか、半そでのワイシャツに制服らしきスカートを長めに履いて、つややかな黒髪は夏らしいポニーテルでまとめている。
手で押してきたとみえる自転車のかごには、何やら和菓子屋のものらしい紙袋がひとつ入っているのが見えた。
「いや、さっぱり。ええと……きみは昨日の……?」
「美子。」
「え?」
「私の名前です。美子って呼んでください。……というか、八雲くんって何年生?同い年かなって思ったんだけど。」
どうやら美子は、同じ学生同士の敬語がむずがゆいようだ。
「高校2年生だよ。美子さんは?」
「うそ、私も高校2年生だよ!……わー、久しぶりに県外の高校生に会ったかも!」
「そうなんだ。俺も部活の大会以外で他校の人に会ったことないな。」
同い年だと分かった途端わかりやすく目を輝かせる美子の姿を、実年齢としての青春を幾年も前に終えた剣丸はほほえましい気持ちで眺めた。年代や文化こそ変われど、学生によくみられる若々しさと打算のないまっすぐな好意はいいものだ。こういうエピソードは本来大人になってしまえば得られないものだし、そう思えば姿年齢も自由自在の鬼というのはかなりお得なのやもしれない。
「呼び捨てでいいよ!八雲くん、部活やってるの?どこの高校?うちと試合したことあるかな?」
「お、落ち着いて落ち着いて……!」
「あ、ごめん……テンション上がっちゃって、つい……。」
「ううん全然。……俺さ、今日はこの町を調査するついでに観光しにきたんだ。よかったら歩きながら話そうよ。」
なんだか興奮気味の美子を宥め改めてそう提案すれば、再び表情がぱっと華やいだ。
……
「そっか、八雲くんは東京の学校なんだね。東京の剣道部ってなんだか強そうだなぁ。」
「そんなことないよ。剣道部ってどこも人不足で……俺のとこもギリギリ試合に出れるくらい。」
美子と剣丸は緑道をまっすぐ進んだところにある……砂浜を一望できる石段に並んで座り、お互いのことを教えあった。学校のこと、部活のこと、授業のこと、高校を卒業した後のこと。聞けば美子は小学生のときにはるばる四国から県境の街に引っ越してきて、以降中学・高校もこの町まで通学しているらしい。
ただ、本格的な受験勉強を始めるにあたり片道1時間半の電車・バス通学は少々ネックとなったようで、現在は現在の高校からほど近いこの町に食堂を構える祖父母夫婦の家で暮らしているそうだ。
「ほらそこ、向こうの桟橋のとこに『海鮮丼』ののぼりが見えるでしょ?あそこがおばあちゃんたちの食堂。そこの3階が私の部屋なんだ。」
「へえ、勉強するために親と離れて暮らすなんてすごいなぁ。」
「そんなことないよ。ただ単純に、実家だと学校も塾も電車からバスでめんどくさいってだけ!」
東京の大学に行きたい彼女はそれまで続けていた文芸部も早めの退部をして、上京のための資金を長期休みのバイトで稼ぎつつ日夜勉強に励んでいる。わざわざ東京に行きたい理由を聞けば「有名な出版社の編集に就職したいから」「あと、楽しい場所がいっぱいあってキラキラしてるから」と年頃らしい回答だ。
「その食堂ではバイトしてないの?」
「うん。たまにお手伝いはするけどバイト先はあの海の家だけだよ。」
あの海の家とは昨日浄蓮が訪れた「さざなみ」のことだ。実際に利用した彼曰く従業員は美子を含め全員で2名の極少人数体制で、中の店主と思しき派手髪の女性はやる気なさそうに動画を見ているだけだったという。キッチンらしいキッチンも無し「どうせ全部レンジでチン、ですよ!」と毒づいていたが、この手の店はそういうもんで、文句を言うのも無粋だろうに。
「調理も出来あいのものを温めたり混ぜたりするだけだから、食堂のお手伝いより楽ちんなんだ。……あっ、今のほかのお客さんには秘密だよ。」
「もちろん。俺も海の家はないけど、お祭りの出店でバイトしたことあるからわかるよ。あとは焼いたり冷やすだけのものが多いから簡単なんだよね。」
この出店の話は、人魚のミイラの前の任務で文化祭の潜入調査をしたときの体験をもとにしている。……学生の催しといえど、調理室での準備やシフトによる拘束時間の長さがわりと応えた記憶だ。
「毎年あの海の家でバイトしてるってこと?」
「ううん、去年の夏休みは百貨店の品出しとか、郵便局の仕分けとか……今年の夏からスカウトされてあそこで働いてるの!」
「スカウト?」
通常芸能界の話で聞くような単語が飛び出せば、思わず剣丸はびっくりして聞き返す。美子は「そう」と平然にこたえて、前方の波打ち際を指さした。
「ちょうどこれくらいの時間帯だったかな?勉強に飽きてあそこらへんでのんびりしてたら、うちで働かないかって店長さんに声かけられたの。」
「う、海の家でそんなことってある!?」
「さあ。でもあの海の家……前の店長さんが亡くなって今の人になってから、変わってるって噂になってたんだよね。ほら、髪色も派手だし。」
百年近く生きてきた剣丸からして、海の家での従業員雇用をスカウトで行う文化は聞いたことがないのだが、自分が知らないだけで現代じゃ当たり前なのかもしれないと、この時はたいしてそれ以上気にとめることはしなかった。それに、美子は同年代の少女の中じゃ――色白で、目鼻立ちがはっきりしていて、しかしどことなくあか抜けている見た目のいい部類だ。
「よくわかんないけど、君くらい可愛かったらそういうこともあるのかな……。」
決して他意はない、それとなしの単純な感想としてこぼした言葉が、年頃の女子にとって見過ごすことのできないものであることに気づいたのは、会話が途切れたことに気づいて彼女のほうを見た瞬間であった。「えっ」と短い悲鳴のあとに、頬を暑さからではない何かのために赤く染めてわたわたと二の句をつげないでいる。
異性の容姿に言及するのは(ほめるであっても)ハラスメントであるといった考えが広まって久しいが、昭和のそのまたさらにその昔から……そういうことをする奴に上品なのはいないと家老の厳しい言いつけのもとに育った剣丸は慌てて謝罪を口にした。
「あ、ああ……すま、ごめん!別に変な意味じゃなくって!」
「……八雲くんって、結構気軽にそういうこと言っちゃうタイプ?」
「俺はそんな軟派者じゃないぞ!ただその……シンプルな感想として……。」
「……。」
二人の間に流れる沈黙。しかしそれもそう長くは続かず、ふいに美子は何がおかしいのかころころと笑い声をあげた。
「へ?……な、なに?」
「あはは、ごめん……っ。だって、いまどき軟派者なんて言葉使う?ちょくちょく思ってたけど、八雲くんってたまにお侍さんみたいなしゃべり方するよね。」
それを聞いて、今度は剣丸の頬が羞恥でほのかに染まる。そこそこうまくやれていると思った高校生のものまねは、本物から見れば全然粗のある三文芝居クオリティだったのだ。
当然、美子は剣丸の正体や変化にまで気づいてはおらず、ただちぐはぐな言葉遣いを笑っているだけであるが。……剣丸はばつが悪くなって、ふいとそっぽを向いた。
「侍みたいって、本物の侍を見たことあるのかよ。」
「え?ないよ。時代劇はおじいちゃんがよく観てる。」
「そんなのフィクションじゃんか。」
「じゃあ八雲くんは見たことあるの?」
「さあ、どうだろうね。」
さっき「かわいい」と言われて真っ赤になったのもどこへやら、彼女は楽しそうに剣丸の表情を見つめた。そんなに同年代の男子が珍しいのだろうかと、彼が怪訝に見つめ返したところで美子は思い出したように立ち上がる。
「そうだ!この町を案内してあげようか。」
「え、いいの?学校は?」
「何言ってんの、今は夏休みだよ?今日は久しぶりに部室に顔出したから制服着てるの。」
当の剣丸本人は返事をする前に、美子は石段を駆け上がり自転車を端のほうへとめなおすと、カゴのなかの紙袋をとって手招きした。
「おいでよ!おすすめの場所いっぱいあるんだ。」
……
「『さんご通り』はね、私が引っ越してきたばかりのころ『さんご商店街』って名前だったの。あるとき有名なホテルグループがすぐそこの無人島を買い上げて作ったリゾートに便乗したのか、町全体をリノベーションしようってことになって、商店街とか公園の名前がちょっとずつ変わったんだよ。あ、でもでも、もとから観光客向けのお店が多くて商店街って雰囲気ではなかったかな。『さんご通り』に変わってから、さらに背伸びしたお店が増えた気はするけど。……あ、ほら!ここ!知ってる?有名な塩メロンパンのお店!テレビでもよく紹介されてるんだよ!」
美子に連れられて踏み入れた『さんご通り』は、ネーミングの渋さに対して全体的に若々しく、夏休み期間中ということもあってほぼ学生のスポットと化していた。リノベーションというワードもあったように、ゲートや通りに配置された街頭、植木やモニュメントはどことなくバリ島をイメージしていそうなデザインだ。広場や緑道の謎ヤシの木も、この取り組みの一環なのだろう。
扇子とかお土産キーホルダーとか、クッキー・饅頭みたいなtheお土産屋さんみたいな通りを想像していただけに、真新しいスイーツやアクセサリー屋さん、カフェが立ち並び、どこからともなくアロマめいた匂いが漂うこの光景をなんとも不思議な心持ちで剣丸は眺めていた。
もっとも、剣丸が一番遊んでいたころの観光地は京都や奈良で、遊び方というのもいわゆるお座敷遊びとか酒飲みとかであったから、どうはしゃげば現代の高校生らしいのかの正解は見えずにいる。
とりあえず、美子が指さしたメロンパンのほうをまるで高名な彫師が誂えた仏像でも眺めるように「ははあ」と向き合ってみた。
「塩味のメロンパンっておいしいの……?」
「まるっきり塩味ってわけじゃないよ。塩キャラメルとか、チョコポテチとかあるでしょ?ああいうジャンルの……あまじょっぱい、ってやつ?」
「なんか聞いたことはあるような、ないような……。」
「男子ってこういうの興味ないのかな。……ねえ、食べてみる?」
いたずらっぽく小首をかしげる美子。無駄遣いは禁止されている……が、こんな奇妙な高校生モドキのガイドを無償で買ってくれている少女の気分を盛り下げてはいけないと、しぶしぶ首を縦に振る。日本男児として女子に自腹を切らせるのも(個人的な)プライドにかかわったので、彼女の分も八雲家の経費とした。
「わー!ありがとう、いただきます!」
いざ店員に手渡された塩メロンパンは剣丸の片手サイズで、ぱっと見はノーマルなメロンパンと違わない。喜んでメロンパンを頬張る美子を横目に、自身もいざ実食してみれば……なるほど確かに、普通のメロンパンよりかは塩気があって心なしかスマートな味わいに思える。
そんな塩メロンパンなる怪奇を咀嚼して連れられるがままさんご通りを抜ければ、さきほどのような大げさなモニュメントもゲートもないそれらしい商店街に出た。少し古ぼけた扇形の石畳が敷かれたその通りには、薬局とか眼鏡屋さんとか「個別指導!」の看板を掲げた学習塾だとか、現地の生活に関連した店の並びがあった。
「あそこまでがさんご通り。で、ここからが皆浜通りっていう、昔ながらの魚屋さんとか食堂があるところね。私のおばあちゃん家はこの通りの、海に面した表側にあるの。もし海鮮系とか地元の料理が食べたかったら、さんご通りよりこっちで探したほうがいいよ。地元の人がお買い物するのも基本こっちかな~。ここの『スーパーみなはま』で私もよく買い物してるんだ。」
彼女のご紹介にあずかった『スーパーみなはま』はいい意味でローカルな雰囲気満点の構えだ。お店のお手製なのだろうポイントカードの案内がでかでかと張られ、店先では気の抜ける音色で呼び込みソングが延々リピートされている。
人が出入りするたびに吹き出す店内の冷房と、入ってすぐにあるのだろう青果コーナー独特の青臭さに、背伸びした通りで緊張した心がなんだか休まったような気さえした。
「コンビニで買うより、こういうスーパーのほうが安かったりするよね。」
「そうそう!特にさんご通りって、観光客向けだから食べ物も飲み物も高いんだぁ。……ねえ、東京もそうなの?」
「東京も外食しようとしたら結構するかな、物価も高いしね。ただチェーン店や100均みたいな店も多いから、一応安く済ませる手段はあるって感じ。」
「へえ~!いいなあ、行ってみたいなあ東京。」
美子は剣丸越しに憧れの東京を見ているようで、羨望半分寂しさ半分といった顔つきだ。
「八雲くんって生まれも育ちも東京なんでしょ?……なんか住む世界が違うって感じ。」
「そんなことないって。俺は逆に……あんまり今住んでるところに愛着とか関心ってないから、ちゃんとこの町のことをよく知ってるきみがすごいと思うよ。」
剣丸はそう言って曲がり角すぐに見える海岸線と、沖に点々と浮かぶ無人島の緑に鬼ヶ島の姿を見た。鬼でありながら……いや鬼であるがために、今やその姿をこのようにみることも叶わない故郷。
愛着がないというのは嘘だったかもしれないが、自身が青春を過ごし戦い抜き、数えきれない思い出を育んだ東京の地よりも、己に刻み込まれた鬼の血統は鬼ヶ島をのみ安息の土地として求めている。
逆に言えば、それ以外のどんな豊かな土地であっても安寧を得られない剣丸たち鬼にとって、今暮らしている町のことも……以前暮らしていた生まれ故郷も語ることができる美子はある種うらやましい存在なのであった。
――そこまで考えて、感傷に浸ってしまったことを自覚した剣丸が顔を上げると、やっぱり楽しそうな美子がそこで笑っている。
「な、なんだよ……。」
「ううん、やっぱり八雲くんってお侍さん……っていうか、ちょっと昔の日本を題材にした物語の登場人物みたい。同学年の男子に私をきみって呼ぶひとなんていないよ。」
「ああ……ごめん、その、くせで……。」
「全然!気にしないで。私はそういうの好きだから。……もしかして、八雲くんっていいとこのお坊ちゃんだったりする?」
「昨日も旦那って呼ばれてたよね?」と、浄蓮のアレについて突っ込まれれば、いよいよいじられるのも恥ずかしくなって、慌ててほかに話題を探そうとする。
――と、すぐ美子の背後にある、一軒の和菓子やさんが目に留まった。
別に剣丸が和菓子好きというのではなく、彼女が出会ったときから持っていた紙袋と同じ包装紙のお菓子が店先に並んでいるのに気付いたのである。
「あれ、ここ……。」
「ん?『さくらや』さんがどうしたの?……ああ、これ?そう、ここで買ったんだよ。」
剣丸に紙袋を指さされて、よくわかったねといいたげに彼女はちょっと持ち上げて見せた。
「ええと、きみ……美子はよく来るの。」
「うん。私が和菓子好きってわけじゃないんだけど……お供えはいつもここなの。」
それを時期も時期だし、お仏壇やお墓のことかなと思ったのもつかの間、美子は不思議なことを言い出した。
「そうだ、八雲くんも一緒に来る?パワースポットとか好きでしょ?」
……
皆浜通りを海水浴場の方面に抜けて徒歩10分。砂浜をちょっとだけスニーカーで進み、砂が入っただの騒いでいると、やがて砂の地面は消えて前方に一帯の岩場が見えてきた。
岩場はまさに自然のままで、ところどころ空いた大穴では中に流れこんだ波が激しく飛沫をあげている。岩肌にはフジツボやヒザラガイがびっしりとくっつき、歩きにくいことこのうえない。
「おいおい……大丈夫なのかここ。」
「大丈夫だよ。地元の小さい子も結構遊んでるよ。」
もちろん剣丸自身がこの程度でビビったわけでなく、一度死んだらおしまいの人間が軽々しく踏み入ることに対しての不安である。しかし彼女はさして気にすることもなく、それどころか毎週の日課だとして奥へ奥へと進んでいく。
すると、岩場の中に明らか人口物と見える石の祭壇が防波堤を背にぴったり張り付くようにして存在するのに気が付いた。そこには別段何かを祀っている風にもみえず、何か文字が刻まれているわけでもなく……お供え物を置くためのくぼみがあるくらいのシンプルな場所であった。
「ここからもう少し行ったところに『海神窟』っていう場所があって、そこに棲む海の神様へお供えするための場所なんだ。」
「へえ、ご利益とかあるの?」
「うーん、どうだろう。その海神窟自体は一部の界隈じゃ有名なパワースポットらしくて、結構スピリチュアルな感じのひとも来るんだけど、地元だとちょっとした願掛けくらいの雰囲気みたい。」
美子は説明する傍ら、紙袋から最中の箱を取り出して豪快にびりびりと包装紙を破いていく。あわや紙袋が海風に飛んでいきそうになったりと大変そうだったので、傍によって手伝うようにゴミとなった包装紙類を受け取ってやる。
彼女はちょっと照れくさそうに「ありがとう」とお礼をひとつ、4個入りの最中のうちひとつを剣丸に手渡した。
「せっかくだから、一緒にお供えしようよ。ほら、ここにお供え物を置いたら手を合わせて、目を瞑りながらお祈りするの。」
鬼が神仏に祈るなんぞ、鬼ヶ島を獲った桃太郎が見ていたら笑うだろう。剣丸は祭壇をまじまじと観察したのち、リードされるがまま願掛けをする。
「(人魚のミイラが、早めに見つかりますように。)」
目を開けると、すでに願掛けを終えてこちらを見ていたらしい美子と目が合った。
「ふふ、人魚のミイラのことをお祈りしたの?」
「うん。そっちは?」
「私?私は――……大学受験、合格しますようにって。」
「大丈夫、きっと受かるよ。」
「うん、ありがと。」
その時である。――ふと、吹きさらす潮風の中に甘ったるい気を鋭く感じ取った剣丸は、その方向を素早く振り向いた。しかしそこに人影はなく、ただ同じような岩場が広がっているだけである。
「(妖力だ……。)」
場所から湧き出ているのか、存在から漏れ出しているのかはわからない。しかしここからほど近い場所に怪異的な力の源があるのは確かで、剣丸は自然と導かれるように歩き始めた。その方角は、彼女が『海神窟』として指し示した道なりに違いなく、着実に狭まる足場をものともせずに進んでいたのだが……。
「待って、そっちは行っちゃだめだよ!」
彼女の声にハッと我に返ると、剣丸は今まさに「立ち入り禁止」の文字が打ち付けられたフェンスを握っているところであった。
南京錠で厳重に施錠されたフェンスは何の変哲もない鉄製とみえたが、その手の平がわずか焦げ付いたようにシュウシュウと音を立てて煙を吹いているのを見て、慌てて手を引っ込める。よくよく見ればフェンスの下部、またフェンスの向こうの岩肌などそこら中に鬼や邪悪なものを除けるための霊符がびっしり張り付けられているのではないか。
「(おそらく冥道だ。こんなところにもあったとは……。)」
『冥道』とは端的に、冥土と現世をつなぐ出入口もしくは穴のことを指す。
かつて鬼はこの『冥道』を通ってこの世にわたり日ノ本に定着したとされており、その多くがかの鬼ヶ島に存在する最大規模の『冥道』からやってきたという。
『冥道』からは鬼の生命エネルギーの源となる妖力がこの世に漏れ出ており、出入口には使えないような小規模の『冥道』であっても鬼が回復・強化するにはじゅうぶんであることから、全国各地にあるこの『冥道』はほとんどが陰陽師もしくは桃太郎一族によって封鎖されている。
……この海神窟というスポットも、例にもれず封鎖された『冥道』であったということだ。
「ちょっと、八雲くん!急にどうしちゃったの?」
腕をつかみ心配そうにこちらの顔を覗き込む美子を、安心させるように照れ笑いする。
「あ、ああ……。ごめん、興奮しちゃってつい、はしゃいじゃった……。」
「もう……。この先は潮の流れが速くて危ないし、神聖な場所だから一般人は入れないんだよ。」
「そうだよね。ごめん、もうしないよ。」
それでも一瞬垣間見えた剣丸の鬼気迫る表情に不安が拭えないのか、美子は納得したようなしていないような……なんとも言えない態度で、しかし早急にこの場を離れようとする。
「とりあえず、いったんさっきの広場に戻ろうか。なんか空もほら……曇ってきて、雨降るかもしれないし。」
「うん。そうだね。……行こうか。」
剣丸は最後にちらとフェンスを一瞥し、ひとまずその場を立ち去った。