1-2 人魚のミイラ
ドアノブをひねった瞬間、僅かに空いただけの扉の隙間から漏れでる強烈な殺意に……剣丸と浄蓮の両人が気づかないわけもなく。剣丸はそのまま古びた木製のドアをばっと開け放つと、部屋の中が視界に映るより先にもう片方の左手を前方に翳し――妖力を込めた真空波をまっすぐに放出した。
瞬間、射線上にあった荷物はもちろん、室内のあらゆる備品やそこそこの重量がある紫檀のローテーブルまでもが木の葉のように宙を舞い……やがて畳に着地して鈍い物音を立てる。
「――ッ!!!」
そうして息を呑んだのは、その向こうで間一髪剣丸の一撃を避けたとみえる謎の影が開け放たれた窓からずるんと滑り落ちるようにして逃げおおせたのを、その赤く染まった瞳に捉えたからである。
その数秒の間に相手の全貌を見ることは叶わなかったがどうも人間のかたちはしておらず、蛇のように体をぐったり曲げて移動したように見受けられた。
「旦那!?大丈夫ですか、お怪我は……!」
「大丈夫だ!……すまん、逃げられた。」
妖術を使ったため一時的に変化のとけた左手が、人ならざる鋭い爪を光らせて震えている。八雲本家の剣丸にこそ押し負けたもののおそらく相手も真空波を相殺すべく何か繰り出したのだろう。
浄蓮が先に部屋へと踏み入り、相手方が完全に撤退し部屋に危険がないことを入念に確認してから主人のほうを深刻な顔で振り向いた。
「呪いをかけられたやもしれません、一応診ておきましょう。」
「ああ、でも……みんなへの説明が先かな……。」
振り向けば、大きな物音をきいて駆けつけたのであろう受付の彼女らと、オーナーらしき初老の男性が階段下の曲がり角からこわごわとこちらの様子をうかがっている。
はっきりと鬼の存在を認知している人間はごく一部であり、また徒に鬼の存在を知らしめることはこの世のタブーである。
よって馬鹿正直に事の顛末を説明できない剣丸一行は、少々無理があることを承知で「強盗がきた」と虚偽の報告をせねばならなかった。
……
「盗られたものは……やっぱりなさそうっすね。」
あの後ものの数分で到着した警察に現場の状況を一通り確認してもらい、ホテルの皆が落ち着いたところでやっと自室に帰ってきた鬼の主従ふたりは、オレンジの和やかな照明の下、荒らされた現場と荷物のチェックと検証におお忙しだ。警察のほうは……鬼の存在を知る担当者が来てくれたこともあり、内々で話をつけると適当な手続きだけで帰ってくれた。一応、ホテルの備品がめちゃくちゃになったので(ほぼほぼ剣丸のせいだけど)被害届は出す方針だ。
なんにせよ、ホテルの防犯カメラに姿が映っていないあたり完全に鬼の仕業である。……現場に入って初日から、夜も安心して眠れない流れになってしまった。
「まだ何もしてないうちで相手に察知されるとは……。」
「まあまあ、これでチンピラの軽犯罪でした~っていうハズレ案件の可能性も消えたし!向こうから仕掛けてくるなら探す手間も省けるってもんです。」
盗られたものもなし、主人にかけられた呪いもなしですっかり安堵した浄蓮はむしろ上機嫌でキーボードをたたいている。それもそのはず、敵が出した尻尾をつかみ損ねたのは惜しいが、逃亡の際放った妖気の残り香や窓枠に染み出た海水から相手の種族は絞れたのだ。
「知能の高い鬼ならこんな下手くそなやり方はしません。おそらく、悪魚だなんだと呼ばれていた下級の一種でしょう。」
「人間の顔がくっついたあれか?」
「あれです。奴らは不定形なので魚の頭に人間の体のパターンもいます。」
悪魚とは、その昔各地方どこの海にもいた巨大な魚の姿をした鬼の総称である。もとからそういう種として冥土から来たのではなく、人間界で魚から怪異へ変化した鬼であるゆえに不定形で、人間が口伝するまま最も恐れられる姿で現れるという。基本形は女の顔に魚の身体、たまに魚の頭に人間の体が付随する。
普段は沖で暮らしているが、戦や内乱など国の空気が淀むと騒乱に乗じて盗みや人さらいなど悪さをするので、時の大名や武士、あるいは陰陽師に見つかり次第しばしば殲滅されているそうだ。
平均して人間に狩られる程度の強さとはいえ、現代まで生き残っているのはその中でも特別進化した……あるいは強い個体の可能性だってある。
絵巻物でのみ悪魚という種族を知っている剣丸は、うーんと首をひねってしまう。
「鬼ヶ島の海岸にもよく来てましたよ~、そん時は流石に他種族の鬼には喧嘩ふっかけるタイプじゃなかったすね。対鬼なら無害でした。」
鬼ヶ島がすっかり桃太郎一族のものになり封鎖されてからの生まれである剣丸は、見たことのない在りし日の鬼ヶ島をまた想像してみた。
鬼ヶ島には様々な鬼の代表がそれぞれ一定数住まい、中心には最大規模の冥土への出入口『冥道』があったため、島の面積に対して人(?)口密度はなかなかのものだったという。そんなぎゅうぎゅうのコロニーみたいな場所の砂浜に、それとなく遊びに来る半魚人一行といった光景。
「まあ、鬼ヶ島なら浮かない……のか……?」
人間界での暮らしが長い剣丸は、鬼の楽園をイメージするたび複雑な気分になる。
加えて剣丸自身は赤鬼という、きわめて身体構造が人間に近い種であるため、こういう魚人とか怪鳥とかド人外な鬼の姿に内心ビビる節もある。かくいう目の前のハイカラな好青年然している浄蓮の正体も、過去に「土蜘蛛」とか「女郎蜘蛛」とか呼ばれた大きな蜘蛛の怪異なのだ。
「今はどうだかわかりませんよ。ただ、当時から群れの長にあたる個体は知能もあってそれなりに妖術も使えます。その群れってのも地方でそれぞれ分かれているらしくって、場所によっちゃ好戦的なのもいた記憶がありますねえ。」
「最近は異なる種族同士が結託して悪さをしている例もあるし……警戒しよう。」
下級の鬼だから弱い、なんて単純な話でもない。怪我のひとつもなく無事に手柄をとって帰還するのが今回の目標だ。
「とりあえず本部には報告しといたんで、俺たちは引き続き人魚のミイラを追いましょう。万が一のために援軍も呼んでおきます。」
「ありがとう。これでひとまずあんし……」
「ただ、援軍のほうは同じく一般道使ってくるんで早くとも明日の夕方くらいに到着だそうです。」
「…………」
父上の「この程度、ひとりでなんとかしろ」の圧を感じて剣丸は落ち着かずに、……改めてこの108号室を見回しゆっくりと歩いてみた。ホテルからは部屋交換の提案もあったが、何かあっては困るのであえて申し出を断った。現に、浄蓮の判断に誤りはなく危険な呪いや不浄な空気こそ滞留していないものの、天井……壁……鏡や襖にいたるまで、何かが這いずり回った跡が、鬼だけに判別つくレベルで残っている。
手足があれば手形や四肢を引きずった風になるところ、基本胴体をそのまま動かしたような跡に……なるほど、魚か蛇のシルエットを想像する。
奴が手をつけたのは剣丸と常連の荷物くらいで、ほかのアメニティや備品・水回りの装置には見向きもしていないようだ。
「(駅から降りてからあえて鬼の気配を残してきたにしろ……俺とわかって突っ込んできたのなら、そこそこ肝は座っているなぁ。)」
前述のとおり、鬼同士でありかつ一定以上の知能があれば相手が格上か、どういう種族の鬼かをうかがい知ることができる。特に八雲の鬼は、どんなに知能の低い鬼でも察知できないものはいないほど強烈で品位の高い妖力を放出している。よって、普通の鬼は勝算があっても回りくどい手を使ってくるものだ。それをこうも無鉄砲に突っ込んでくる輩というのは、箍の外れたやばいやつ、もしくは――。
「(よっぽど余裕がないか……。)」
……居間に戻ると、浄蓮が広縁から窓の外を眺めていた。
「何かいるのか?」
「いや。あいつ、あの後どこに逃げたのかな~って。」
「本当に悪魚なら海に戻ったんだとは思うけど……ここから海って結構距離あるぞ。」
「ホテルうをのめ」は山の中を少し切り開いた場所にぽつんと建っている。ふたりが海水浴場へのお出かけにわざわざ車を呼んだのもここから海までは車道でのみ通じているからで、それ以外のルートがあるとすれば山の斜面をひたすら転がり落ちるという力業だ。
「……あのまま追いかけていれば捕まえられたかもな。」
「相手が何仕掛けてくるかわかりませんし、辞めてくださいよそういうの~~。」
「というか、山の中とかこのホテルとか、まだ近くにいるんじゃ……」
「その可能性はありますね。落下地点の駐車場で妖力が消えてたあたり、身を潜めることくらいはできそうです。」
剣丸も一緒になって窓の外を眺めるが、鬼の眼力をもってしても、夜闇のなかに怪しいものは何も見えてこない。見渡す限りの緑のそのまた向こうに、ちっっっっちゃく水平線が垣間見えた。
これでオーシャンビューは詐欺である。
「万が一のこともあるし、交代で見張りでもやろうか?」
「いえいえご心配なく!ちゃんと対策を考えておりますんで!」
「対策?」
「明日からが本番、ちゃんと寝とかなきゃあぶっ倒れますよ~!」
怪訝な顔をする剣丸を置いてけぼりに、自信ありげな浄蓮は羽織を突然脱ぎ捨てたかと思えば……いつの間に持ってきたバスタオルを「ほい!」と押し付けてきた。
「な、なんだよ急に。」
「何……ってあなた、あと1時間もすれば夕飯が来ちゃいますよ。ここのホテルは部屋食なんですから。その前に風呂を済ませとかなきゃあいけないでしょ。」
「大浴場行くの!?襲撃されたのに!?」
留守中に部屋を漁られてなお、できるだけ空けないようにしようとかいう努力が見えない部下の態度には「いつもは気を抜いてると怒る側のくせに」と思わず非難めいた声が上がるが、これにはちゃんと訳があるらしい。
「大丈夫ですよ。部屋には罠を張っておいたんで、逆にもう一回来てくれたらそれはそれで好都合です。……それに、相手が水棲の鬼である以上、水場はチェックしておきたいってもんです。」
「うーん、なるほど……?」
「それに、仮に近くにいるんだとしたらこっちの隙を適度に見せておいたほうが相手を泳がせられるじゃないですか。」
なんかこじつけっぽい説明であるが、若干お疲れモードであった旦那そのひとはそれ以上追及する気もなく、彼の言葉を信じて言いくるめられることにした。
……そうして結局、浄蓮に促されるまま大浴場に向かって広々とした源泉かけ流しの湯を堪能し、普通に豪華な夕飯を食らってそのまま眠りについたのだった。
外観と立地、客室こそちょっとヤバい「うをのめ」であったが、地元の新鮮な魚に料理人の確かな腕、恵まれた泉質により風呂と飯は文句なしの上物だ。これなら一週間は耐えられるなと内心安堵した剣丸であったが、もう一つ肝心の寝床のほうは……やっぱりというかカビ臭さからの予感は的中し、なんとなく湿っぽい敷布団にこれまた重たい掛け布団とハズレにぶち当たることとなる。
――ホテルが用意した薄手の寝巻に身を包み、それでも文句なしに就寝の態勢に入った剣丸を待っていたのは、浄蓮による天才的アイデアの発露であった。
「……なあ、浄蓮。」
『はいはい、なんですか旦那。』
「これがその、対策ってやつ……?」
剣丸が瞼を開ければ、視界いっぱいに広がる巨大なクモの巣があった。天井一面に張り巡らされた巨大な蜘蛛の糸はまるで蚊帳のように連なって、文字通り変な虫を主に寄せ付けないといわんばかりに部屋を包囲している。
……そして極めつけは、その巣にふさわしいサイズ感の巨大蜘蛛が、真上から見下ろすようなかたちで天井にはりついている。これこそが、浄蓮の真の姿だ。
『その通り!この前映画で観たレーザートラップから着想を得ました。」
「ははあ、これで侵入者や室内の不審な気配を察知できるってわけ……。」
確かに自身の能力を生かした発想には感心する。しかしながら、窮屈なのは守られている側の剣丸も同じことで、夜間もしトイレに起き上がろうものなら蜘蛛の巣に絡めとられてしまいそうだ。
『そこは旦那の腕っぷしでなんとか!旦那になら一思いにちぎられたって構いませんから。』
「……それはそうとして、真上で大蜘蛛に睨まれながらってのもきついんだけど。」
『ええ~、そろそろ慣れてくださいよ。こっちの俺も好いでしょう?』
赤く光る八つの目が、じっとこちらを見つめたまま離さない。こういうのを見るたびに、こいつも鬼なんだよなぁと鬼らしからぬ心持で再認識する。事実、人間の姿に化けたほうがどの鬼も理性的になるそうだから、鬼の姿とのギャップは剣丸に限らず抱くものなのやもしれない。
『ふふ、おやすみなさい。旦那様……。』
あきらめて、布団をかぶり眠りにつく。……翌朝、天井に大蜘蛛の姿はなく、代わりに隣の畳で青年姿の浄蓮が寝転んでいるだけだった。
…………
「昔っからここに住んでるひとっていやあ、館長さんくらいしかおらんわなぁ」
翌朝、朝食をお膳に乗せて部屋まで運んでくれた女性スタッフに聞けばそんな返事があった。もともとこうホテルがたくさんできる前は釣りで来るお客様向けの民泊がある程度の小さな町で、人が増えたのも最近だというまあ予想していた経緯を聞き、浄蓮が「ですよね~!」と軽快なリアクションをとる。
その唯一のアテとなる館長さんも昨日の強盗騒ぎのために今朝から署へ出かけたそうで、帰ってくるのは夕方以降になるそうだ。
「『さんご通り』の向こうっかわ……山の上に向かう道にも店とか食堂があるんだけど、そっちなら比較的前から住んでる人だと思いますよ。古いおうちも多いし。」
「ありがとうございます。行ってみます。」
剣丸は退室する女性へ丁寧に感謝を述べた後、改めて運ばれてきた朝食を見遣った。……海が近いからか、パッと見でも海産物の目立つラインナップだ。
炊き立ての白米に岩のりの味噌汁、みっつならんだ小鉢にはそれぞれきんぴらごぼうとしらす大根が、生卵がちょこんと収まり、続く小皿にはかわいいピンクのかまぼこと沢庵、メインディッシュとみられる長角皿にはぜいたくにもウナギの白焼きがひときれ乗っている。
「そういや土用の丑の日も過ぎましたね。」
「うちじゃなぜかビフテキが出たっけ。」
飯にありつきながら、雑談もほどほどに今日の予定を話し合う。ひとまず現地住民に聞き込みをする傍ら、例の悪魚(と思しき鬼)がどのあたりをうろついているのか、海辺の様子を見に行ったほうがよさそうだ。
「それじゃ手分けしましょう。俺が山の上のほうまで聞き込みに行くんで、旦那はもう一度海水浴場の方面をお願いします。」
「わかった。何かあったら連絡してくれ。」
「念のため言っておきますけど、何か見つけても絶対一人で突っ込んでいかないでくださいよ。」
「俺がそんな無鉄砲なやつに見えるか?」
「いやいやいや!あなた結構無茶してますから!」
心外といった風に目を丸くする主人の顔に、胡坐をかいた膝のうえに頬づえした浄蓮がため息をつく。本人に自覚はないが、その妙な負けず嫌いと若さゆえに、いつだって八代目は家臣の肝を冷やしてきたのだ。いつぞやの戦争に出兵したときだってあわや帰らぬひとになりかけたし、終戦後に本腰を入れ始めたこの稼業でも、何度胃を痛めたかもはや覚えていない。
長い前髪から片方だけ覗く瞳は珍しく剣丸を咎めるような視線を飛ばしており、それを当の本人はみそ汁をすすりながらに平然と観察しているようだ。
「お前に迷惑をかけるつもりはないよ。」
「どういう意味です、それ~~……。」
「独断で行動しないってこと。可能な限り、次の一手はふたりで決めよう。」
「その言葉、信じてますからね!」
まだ安堵しきれないとみえる浄蓮もそれ以上追及することはせず、残りの皿を片付けにかかる。……3名いる剣丸直属の側近のうち、一番過保護なのはこの浄蓮かもしれない。
浄蓮の健気さに免じて、剣丸はいっそうおとなしくしようと決意を新たにするのだった。
――そうして朝食が済んですぐ、ふたりは迎えにきた車に乗り込み海水浴場前の広場へ向かった。地元のお土産さんらしき出店にのぼりが見えて、朝食に出たそれとそっくりのかまぼこに剣丸はちょっとだけはしゃいだりする。ドライバーの鬼はくすくすと笑った。
「かまぼこなんてどれも同じ見た目でしょうに。」
昨日に続く快晴でかんかんに照らされた石畳の上へ降り立ったふたりは、車をしばらく見送りやがてあたりを見回した。
中央に植えられた南国っぽい雰囲気の木が、はるか頭上で海風に葉を揺らしている。
「それじゃ改めて……、俺はあっちの山の上を調べてきますから。旦那は海水浴場と、こっちの『さんご通り』をお願いします。」
あっち、と示された常連の担当は、車道を挟んで向かい側の通りから坂を上った住宅街。歩道に面したところでは住宅の一階部分やテラスをお店にしたような飲食店もちらほら見えるが、そこを登り切ってしまえばそのまま山の入り口に続いているような規模感だ。
対する剣丸の担当する海水浴場はむこう数キロは続いているかのようにも見え、広場から海水浴場に沿って伸びる緑道からY字に分岐した片方には例の「さんご通り」と掲げられたゲートがどんと構え、その向こうにお店屋さんがひしめき合っている。
「終わり次第、俺もそっちに合流します。……あ、無駄遣いしちゃダメですよ!」
最後にそう言い残して、浄蓮は一瞬のうちにひゅっと消えてしまった。ただ一人広場に取り残された剣丸は、朝に話した「無茶をしない」よりもたった今の「無駄遣いをしない」のほうを強く刻み付けて緑道を歩き出した。
透き通るような青色に大きな入道雲の浮かぶ夏の空。数年前、……いや何十年前のあの日からまるで変わらないこの季節独特の景色に、ふと感傷的な気持ちが沸き上がってきたところ――聞き覚えのある少女の声が剣丸を呼んだ。
「あれ、八雲……さん?」
見れば、先日の少女がそこに立っていた。