プロローグ 伝説の正体は
私の生まれ故郷では、一人で遊びに行くと鬼が攫いに来る……なんて言い伝えがある。なんでもあの有名な桃太郎伝説に因んだ土地であるから、滅ぼされた鬼ヶ島の残党が人間への復讐、はたまた仲間を増やすために子供を誘拐するのだという。もちろん、実のところは水難事故や盗賊による人攫いを警戒した現地の大人による躾の一環に過ぎないのだけど、当時まだ小さかった私は夕暮れどきまだ遊びたいとごねるたびにそう脅されてたいそう怖がったものだった。
「よくあるやつっすね。昔から人は、病気とか災害とか身の回りの脅威をばけもんに例えがちですもん。」
うんうんとややオーバーに頷きながら、彼は運ばれてきた瓶ラムネを豪快にらっぱ飲みしてみせる。……いまどき珍しい詰襟のシャツに七分丈のズボン、そのうえに藍色の羽織を重ねた独特のスタイルは、少なくとも海水浴場に訪れる人間の出で立ちではない。
「海の家」といったって半分吹きさらしの藁葺き屋根に空調らしい空調があるわけなく、日向よりちょっとマシ程度のもったりした暑さがこの空間を包んでいた。「暑くないのかな」なんてまっとうな心配からそれとなく横顔を覗き込んでみるけど、不思議なことに汗はかいていないようだった。
「鬼なんかはそれの最たる例でね。なにかといっちゃあ鬼の仕業!毛唐の人攫いも、盗人の人殺しも鬼に押し付けるんだからやってらんないっすよ。その前は天狗の役回りだったのに。」
「はぁ……。」
「その点現代はいいですよねえ。ばけがく?……かがく?ってもんが発達して、ちゃんと悪い奴が捕まる!もっと早くこういうもんがあればなぁ。」
鬼や妖怪がした苦労を、まるで自分がしてきたみたいに語るこの人は学者さんか小説家だろうか。暇つぶしに投げかけた昔話をまさかこんなに真剣に受け取られるとは思わなかった。
「ああ、すいません熱くなっちゃって。……で、そのお姉さんの地元では、実際に神隠しにあった人はいたんですか。」
「まさか。ただの言い伝えですし、私の周りじゃ物騒な事件はありませんでしたよ。」
「そりゃよかった。」
「顔見知りしかいない田舎より、ここみたいな観光地のほうが怖いです。お互い、だれがだれだかわからないですし。」
腑に落ちたような、落ちてないような絶妙な返事をひとつ。彼は日差しで照りかえる眼前の海に目を細めた。
潮の流れもそう早くない遠浅のこの海は、ファミリーから若者グループまで多くの海水浴客が押しかける名所だ。最初こそ小さな民泊や船貸ししかなかったところバブルを期にホテルが乱立し、それに連なってちょっとした飲み屋街や大規模なモール、遊園地ができたという。
その後バブルがはじけていくつかは廃墟になったけど、観光地としてのポテンシャルは今も残っているし、その廃墟がマニアや心霊系の需要を生んだりもしているらしい。
「お客さんも観光ですか?」
「いやぁ、ほぼ仕事っすね。」
「お仕事?」
「じゃなきゃこんなド平日に海水浴場なんか来ませんよ。」
言われてみれば、大人?が週の真ん中……しかもこんな格好で海に訪れる人はそうそういないと思うけど、かといってここに用がある仕事とはいったいどんなものだろう。いっこうにつながらない情報の連続に、根掘り葉掘り聞きだしたいのが本心だが。……適当に煙に巻かれるのは想像に易かったからやめておいた。
つかみどころのない問答から間もなく浜辺のほうでばしゃばしゃと水音があったと思えば、水着姿の男の子がげっそりした顔でこちらに手を振っていた。ようやく海水浴場らしい格好の彼は、私と同い年もしくはそれ以上くらいに見える。
羽織姿の青年は立ち上がって「旦那、どうでしたか?」なんてこれまた奇妙なあだ名で少年を呼んだ。
「全然ダメ……。なにも感じない。というかめっちゃ海汚くて何も見えないんだけど……」
「こら旦那!現地の人の前ですよ!」
「あっすいません!」
「あはは、……元々ここの人間じゃないんでお構いなく。それにほら、事実ですし。」
「海水浴シーズンですもんね」なんて苦笑いでごまかしながら、男の子は手にもっていたゴーグルを羽織姿の青年に預けた。
「……それじゃ、いったんホテルに戻りましょうか。」
「改めて作戦会議だな。」
何やらしょぼくれた様子の二人は、そう言って海の家「さざなみ」を後にする。他人の事情に首を突っ込むもんじゃないというのが信条の私もたまらず……「あの」とその後ろ姿に声をかけた。
「何か、探し物ですか……?」
ふたりは顔を見合わせてちょっと考えるような間をおいてから、男の子のほうが口を開いた。
「盗まれた人魚のミイラを探してるんです。ほら、この街で有名な海尊寺のミイラ。」
「ええ、一応……盗まれたんですか?」
「つい最近ね。オカルトサイトでも有名だったから、その手のマニアが盗んで伝説の再現でもしようとしてるんじゃないかと。」
私も当然、人魚のミイラのことは知っていた。厳密に言えばこの町にルーツがあるわけではないのだが、件のミイラが奉納されたのち、しばらく一般公開をして全国から人が押し寄せたのを覚えている。
土気色の肌に苦悶に満ちた表情、ぼさぼさの黒髪……赤子のように折り曲げられた体は30cmもなかったように思えて、あんまり思い出したくはない。
ちなみにその「伝説」とはこんな具合のものだ。
――そのミイラは、かつて会津の海でその土地の名士に捕らえられた「八難」という人魚である。
この変わった名前はこの人魚が如何様な死に方をしても、海に帰ることで8回まで生き返ることができ、またその度に災害や疫病、もしくは呪いを振りまくという特質から与えられたという。
そこでその名士とときの高僧は人魚をミイラとして保存し、誰も復活させることができないようどこかの寺院へ保管した。
……突っ込みどころや矛盾はあれどそれこそ青年が言っていた「あらゆる自然災害のメタファー」として捉えればなんとなく考察できそうなこの話を、まさか本気で信じる層がいるだなんて。
「普通に売り飛ばされただけのような……。ほら、海外でもそういうマニアはいますし」
「うーん、詳しくは言えないけど、その可能性は今のとこ低いんですよ。彼女はまだ、この街にいる……。」
そう深刻な顔をして間もなく、彼はひょいと顔を上げると今度こそ次を急ぐといった感じであわただしく去って行く。
「とにかく、もし人魚のミイラの話を聞いたら……俺に教えてください!ここ一週間はむこうの『ホテルうをのめ』にいますから!」
コイン式のシャワールームへの道を駆けていく奇妙な二人組。水着姿のほうは裸足だからか、熱された砂利のうえを痛そうにぴょんぴょん跳ねて進んでいる。
「あ……!俺、八雲っていいます!」
最後に慌てて名乗ってくれたけど、こんなに濃い二人組なら名前を知らなくっても探しにいけるだろう。
私はふうとひと息ついて、ビンの片づけでもしてしまおうと中へ戻った。キッチンでは紫髪のオーナーが煙草を片手にスマートフォンの動画を眺めている。その背後の水槽では、ボラによく似た小汚い魚が一匹、泳ぐでもなくぷかぷかと浮かんでいたが……やがてその濁った眼球をぐりんとこちらに向け私の名前を呼んだのだった。