第1話 記憶喪失の少年
冷たい頬の感覚で僕は目が覚める。
雨が少し重みを持って頬を打ち続けると、まるで起きろと言われているような気持ちになる。
…ここはどこだろう。
分厚い雲が月明かりを遮り、周囲は真っ暗闇に覆われている。
何も分からない。
何もない。
何も知らない。
何も見えない。
何も思い出せない。
まるで産声をあげたばかりのように、赤子のように僕は何もなかった。
いや、赤子ならば家族を持っているだろう。
だけど、僕には家族すらいなかった。
家族…
大切な意味のある言葉だ。
それは知っている。
だけど、言葉の意味を思い浮かべても誰も浮かんでこない。
僕にとって誰が家族なのか、まるで浮かんでこない。
言葉と人が紐づかない。
連想されない。
記憶がないのだ。
思い出せない。
本当に僕に家族なんかいたのだろうか。
そんな気持ちになるが、寂しさすら湧いてこない。
そんな自分に違和感を抱いた。
…手足が短い。
僕は子供なのか?
子供だったのか…?
奇妙な体の感覚だ。
記憶がないのだから奇妙に感じることも奇妙だが、思考の渦に飲み込まれそうな気配を感じると、僕は頭を振り払う。
そもそも、自分が誰なのかすら分からない。
…わからない?
「僕は…?」
…僕は誰だろう。
違う、名前は…
「レイ…ズ?」
…そうだ。
僕はレイズだ。
確かにレイズだ。
だけど、それ以外…
思い出せない。
レイズとはなんだ?
何をしてきたやつなんだ?
「…うぅ…ううう…」
理由はわからない。
だけど、無性に悲しくなった。
叫んで、暴れて、狂いたいぐらい。
僕の中には理由の分からない深い悲しみがあった。
先程までは何とも思わなかった家族という言葉に、異様なほどの重みと鋭さを感じる。
「僕は…1人だ…」
悲しみを口にしてみた。
言葉にしてみると僕の中で妙にしっくりとくる。
そうか、僕は1人で、寂しいから悲しいんだ。
1人でいることが、1人なのが、1人になったことがとても寂しい。
「はは…ははははは…」
理由が分かると自然と笑いたくなった。
何も現実が変わったわけではない。
記憶が戻ってきたわけでもない。
それでも笑が込み上げてくる。
喪失感に堪えかねて、悲しみを上書きするように僕は笑う。
きっと何かの心理的な防衛反応なのかもしれない。
頬を打つ雨に涙が混ざり始めると
「…っ!?」
地につけている手にほんのりと暖かくザラザラとした感覚がした。
気のせいかとも思うが、手先から伝わる温もりに僕はビクリと肩を震わせ、暗闇に包まれている地面を見つめる。
しかし、手元は真っ暗で何も見えない。
それを察してか、温もりの主は鳴き声で存在感を示す。
「にゃー!」
まるで「1人じゃない」と言いたいようにして、僕の指を何度も舐め回す。
指からザラザラとした暖かい感触が伝わるたびに、心の悲しさが晴れていくような気がした。
「…僕のこと知ってるの?」
「にゃー!」
…1人じゃなかった。
でも、僕は…
「ごめんね…僕、君のこと…覚えてないんだ」
「にゃー!」
僕がそう告げると、謎の存在は元気よく応えた。
まるで「そんなことは構わない」と言ってくれているようであった。
暗闇の中、手を伸ばすと濡れた毛むくじゃらの感触がする。
その毛むくじゃらをそっと持ち上げて優しく包み込むように抱きかかえた。
「…僕はキミが大切だったんだね…」
「にゃう」
謎の存在がこれ以上雨で濡れないようにと無意識に包み込んでいた。
どうやら覚えていないだけで、この謎の存在のことを僕は大切に思っているようだ。
「…キミは誰?」
「にゃうにゃう!」
レイズは顔を下へ向け、腕の中の謎の存在を見つめる。
暗闇の中、キラリと謎の存在の目が輝いた。
その目の輝きに反射して、自分の右腕の甲に刻まれた「ゼロの紋章」が煌めく。
右手の甲に刻まれた紋章は「契約不能者」を示す刻印であり、精霊との契約を果たせなかった者の印だ。
「…ゼロの紋章」
「にゃー…」
僕がゼロの紋章?
何だろう、この喪失感…
「……」
「にゃー!」
「わわわっ!」
謎の存在が僕の頬を何度も舐め回す。
自分に魔法の才能がないと落ち込んでいる僕を励ますようだ。
「ちょ、ちょっと!くすぐったいよ!」
「にゃうにゃう!」
「え、頭を下げるな…胸を張れって?」
「にゃー!」
「…そうだね」
「にゃう!」
「わわわっ!くすぐったいってば!」
「にゃー!」
「…そんなに舐めてばかりなら、ペロって呼ぶよ!」
「にゃう!」
「え、それが自分の名前なの?」
「にゃうにゃう!」
「…僕、そんな安直に名付けたんだね」
「にゃー!」
「そっか、ペロ…か、すごく温かくなる響きだね」
「にゃー!」
ペロと一緒なら、僕は寂しくない。
そうか、ずっとペロと僕は一緒だったのかもしれないね。
「ペロ、ありがと」
「にゃう!」
「…そうだね。風邪をひく前に行こうか」
「にゃー!」
帰る場所なんてない。
向かいたい場所もない。
目的地なんて気の利いたものはないけれど、それでも僕とペロは歩き続ける。
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生茂る森の中
無数の葉が屋根の代わりとなり、照りつける日差しが地面まで届かず、いくらか真夏の暑さを忘れさせてくれていた。
「グルルル…」
そんな深い森の奥に、金髪の青年と虎のような動物がいた。
虎のような動物が地面をクンクンと嗅ぐと、微かな音量で唸り声を金髪の青年へと響かせる。
金髪の青年はレイズ、虎のような動物はペロだ。
2人は逞しく成長していた。
「……」
ペロの言語なき言葉に対してレイズはコクリと頷いた。
同時に、腰のあたりにある小さな鞘から短刀を抜き放つ。
臨戦態勢であり、彼らの脅威が近くにいる様子である。
地面の草木に細心の注意を向けながら、レイズは森の中をゆっくりと進む。
数分ぐらい進んでいくと、木々の奥から開けた場所が見えてきた。
「……」
「グルル」
レイズとペロは頷き合う。
彼らの視線の先、森の中の開けた場所には、小さな女の子が横たわっていた。
一瞥した限りでは、大きな怪我はなさそうであるが、意識がないのかピクリとも動かない様子である。
そして、少女の周囲の地面には、異様に小さく盛り上がった箇所が点在しており、その周囲だけ紫色に土が滲んでいた。
レイズは背荷物を地面に下ろすと、中からハンカチのような布を取り出す。
布を小さく短剣で千切ると、唾液を含ませ、両耳へと突っ込む。
続けて、背荷物から液体の入った瓶を2つ取り出す。
一つは赤色、一つは黄色だ。
両方の瓶の蓋を親指で弾くように開けると、黄色の中身を赤色の中へと注ぎ始める。
すると、中で混ざり合った赤と黄の液体がブクブクと泡立ち始める。コーラにメントスを入れた時のような反応だ。
そして、勢いよく泡立つ瓶を、少女がいる場所へと投げ込んだ。
瓶が地面に落ちると同時に、真っ赤な炎が開けた場所を覆う。
少女を巻き込んで燃え盛る炎の中から、この世のものとは思えない絶叫が轟いた。
「…ぎゃあうらぁうべぇあたあぁぁああああああああ!!!!!」
絶叫が聴こえると同時に、レイズは地面に伏せる。
すると、彼の頭上を、炎に身を包まれた少女が勢いよく通り過ぎる。
すぐに短剣を構えながら背後を振り返るレイズ
彼の後方で着地した少女は、人ならざるものの姿をしていた。
目に瞳はなく、大きく口が裂け、牙のようなものが生え揃い、手足の爪は鋭い。
彼女の背からは根のようなものが生えており、その先端は地面に続いている。
そして、彼女の額には「α」と刻まれた紋章がある。
「あるぁああるぅ!!!べたぁあああ!!!!」
再び絶叫を轟かせる少女
木々を震わすほどの爆音だが、耳栓をしているレイズには効果がなかった。
鼓膜を破りかね無い大音量を前にしても怯まず、レイズは少女へ向けて短剣を突き出して突進する。
「ぎゃぅ!?」
「…っ!!」
しかし、そんなレイズの足元を地面から生えてきたツタが巻き付くと、足元をすくわれるように転倒してしまう。
そして、倒れたレイズへ向かって、少女がものすごい勢いで駆け寄ってくる。
「……よし」
迫り来る少女の姿を見て、レイズはしたりと笑う。
そして、レイズは右腕を上げた。
腕の先は近くにある大きな木へ向けられている。
「っ!!」
レイズがグッと力を腕に込めると、右の手首にある大きな鉄製の腕輪からワイヤーが放たれる。
狙いを定めていた木にワイヤーの先端が突き刺さると、レイズは腕輪を指で押さえてワイヤーを引き戻す。
木に刺したワイヤーの先端に引っ張られるようにして、レイズの体は勢いよく木まで飛んでいく。
同時に彼の足に絡まったツタがズルズルと地中から引っ張られ、地面がボコっと盛り上がると、やがて地中の本体が釣り上がる。
「ぎゃぅあらあぁぁるぅべぇぇたぁぁあああ!!!」
地中から現れたのは紫のトマトのような物体だ。
目や鼻はないが、口だけは備わっており、大きく開けた口からは少女と同じ声で絶叫が轟く。
「ぎゃぅぁるぅべぇ…」
しかし、その絶叫は急に途絶える。
なぜなら、トマトのようなものに黄色い影が見えると同時に、左右に真っ二つで切り裂かれたからだ。
「ペロ!!!……やったね!」
レイズがそう叫ぶと、ペロは胸を張るようにして佇み、空を見上げる。
「にゃぅぅぅ!」
ペロが勝鬨のように唸り声を森に轟かせていた。