心地よい愛の重さ
マリエルとの結婚が許されたのは六年後だった。内々ではあるが、現伯爵である父がもう一人跡取りを設けて、適性があると判断されたのだ。そのため、僕は中継ぎの跡取りとなることが許された。
その間、順調にマリエルと交流をしてお互いの思いを通じ合わせていた。
マリエルはとても不安定な子供だったが、それは大人になっても解消されることはなかった。でも彼女も僕との結婚を許してもらいたいと思っていたのか、ある日突然態度を変えた。淑女らしい振る舞いをするようになったのだ。そして本来頭の悪い人間じゃなかったのだろう。やる気を見せた彼女は次から次へと知識を吸収し、社交も問題なく行えるようになってきた。
そうなると、湧いて出てくるのは彼女の美貌と国王のお気に入りの姪という後ろ盾を欲する男たちだ。同時に輝く彼女に嫉妬した女たちが嫌がらせをしてくる。
それを憂えた王家は彼女への無礼は許さないと事あるごとに態度に示した。マリエルは僕が一緒にいることを当然のこととして、公の場でも私的な場でも僕を頼りにした。
その愛らしい笑顔を見るたびに、嬉しさがこみあげてくる。
透明で澄んでいた眼差しは、次第に熱を帯び、今では嬉しさと愛おしさを混ぜ合わせたくすぐったい目を向けてくる。
彼女の気持ちを余すことなく表す眼差しを思い出し、自然と笑みが浮かんだ。その笑みをたまたま見た殿下がげっそりとして呟いた。
「うわ、気持ち悪い」
「気持ち悪いとは失礼ですね」
「マリエルのお前に向ける熱量もドン引きだが、お前がそれを喜んでいるところも理解しがたい」
「理解してもらおうと思っていないので、問題ありません」
澄まして答えれば、殿下は大きくため息をついた。
「お前たちは本当に似合いだよ」
「ありがとうございます」
「なんというのか……案外心が似ている?」
「心が似ている? 面白いことを言いますね」
そんなに似ているだろうか? と不思議に思っていれば殿下は続けた。
「まあ、いいや。お前が大切にしてくれるだろうと信じている」
「僕は嘘を言いませんよ」
「……嘘ばかりの間違いじゃないのか」
「マリエル様に関しては嘘をつきません。それ以外はそれが仕事なので」
なんだそれは、と投げやりに返された。
僕の日常はあの日まで愛に溢れていて、とても充実していた。
◆◇◇
「マリエル、愛しているよ」
「嬉しいですわ。わたくしも愛しています」
嬉しそうに微笑みながらマリエルも愛を返してくる。そして、愛おしそうに丸くなりはじめたお腹を撫でた。
「この子は女の子でしょうか、男の子でしょうか」
「君はどっちがいいんだい?」
「どちらでも、と言いたいところですけど、できれば女の子がいいですわ」
未来に思いをはせて楽しげに笑う彼女をそっと抱きしめた。
「君は……穏やかになって幸せ?」
「幸せですわ。こうしてウィレム様が愛してくださって、子供もできて。わたくしに家族ができるなんて」
僕はその言葉を聞いて絶望しか感じなかった。前のマリエルは家族なんて欲しがっていなかった。ただただ二人きりの世界で過ごしたいとそればかりを願っていたのに。
深く愛を向けてくれた彼女がいないことに苦しさを感じる。
こうなってしまったのは間違いなく、僕の責任だ。僕が珍しく友情というものに拘っていたから、何よりも大切なものを失ってしまった。
「あまり無理をしてはいけないよ。何か欲しければ家令に言えばいいし、困ったことは侍女に相談して」
「うふふ。心配性なんだから。大丈夫ですわ。わたくしは母になるのですもの」
いらない強さに苛立ちを感じた。
毒気の抜けたマリエルは本当にどこにでもいる美しいだけの女になっていた。恐らく誰もがこちらのマリエルの方が好ましいと思うのだろう。だが僕は深く愛を向けてくれたマリエルを愛している。
「……そうだ、ちょっと用事を思い出した」
「用事ですか?」
突然話題を変えた僕にマリエルが首を傾げた。さらりと美しい銀の髪が流れる。
「ああ。殿下に頼まれていたドレスが仕立て上がったんだ」
「もしかしたら商会で買った淡いピンクの布でしょうか?」
思い出したかのように目を瞬いた彼女に僕はうっすらと笑みを浮かべた。
「商会長から聞いたのかい?」
「ええ。ウィレム様がわたくしに用意してくださったドレスに気が向いてしまって、すっかり忘れておりました」
「あのドレスはしばらく着てもらえないんだよね」
「もう! 一ヶ月も前のお話なのにまだ根に持っていらっしゃるのね」
妊娠がわかって夜会の参加を見送った後、ずっとマリエルは屋敷で過ごしている。妊娠初期であったので、悪阻が重く外に出せる状態ではなかったのだ。
当然、用意したドレスは着ることはなく衣裳部屋にひっそりと飾られている。着てもらえなかったのは非常に残念だ。
「それで、そのドレスがどういたしまして?」
「うん、ああ。あれは殿下の思い人への贈り物なんだ」
「まあ、そうなのですか? そのような方がいらしたなんて、知りませんでした」
驚いたようにマリエルが目を見開く。殿下の婚約を曖昧にしており、恋人がいるような様子を見せていない。だから時々、僕が布を買って仕立てに出したり、小物を受け取りに行っている。
誰にも知られたくない相手だというのだから、こちらにもかなり迷惑が掛かっていた。
「もしかしたら……以前、殿下の代わりに買い物に行くことがあるとおっしゃっていたのは」
「はっきり言えなかったけどね。そういうことだ」
マリエルは少しだけ考え込んだ。だがすぐに、明るい笑みを浮かべる。
「殿下もいい年ですもの。愛する人がいてもおかしくありませんわ」
「そうだね。じゃあ、行ってくるよ」
屈んで、彼女の唇にキスをする。合わせるだけのキスのつもりが、彼女が腕を首に回してきたのでつい深くなる。
「……嘘はついていなかったのね」
唇が離れると小さな呟きが聞こえた。聞き間違いかと思い、顔を上げる。
そこには美しく微笑んだマリエルがいた。失ったはずの暗い熱がその目には宿っていた。もう一度抱き寄せ、至近距離から彼女の目を覗き込む。もしかしたら奥の方にあの熱があるかもしれない。
だが先ほど見えた筈の熱はなかった。自分の願望が見せただけだったのかと内心がっかりしながら、軽くキスをして離れた。
「行っていらっしゃいませ」
マリエルの見送りを受けて屋敷を出た。
◆
マリエルの話を総合すると、マリエルの心から狂気がなくなったのはルイーズ様が振舞ったというお茶が原因だ。
嘘の状況を作り上げてマリエルを追い込んだ忌々しい女を処分したり、子爵家に止めを刺さない程度の圧力をかけたりしていて、ルイーズ様との間に何があったか侍女の口を割るのに時間がかかってしまった。マリエルがルイーズ様を大切にしているから直接何かをすることはしないが、もう一人、事情を知っている人間がいる。
殿下の恋人に渡すドレスの入った箱を抱えて、彼の執務室に入る。
「お、受け取りに行ってくれたのか。いつも悪いな」
「そう思うのなら、そろそろ公にしてください」
「そうできるなら苦労はしないよ」
だるそうに呟くと、殿下は箱を受け取るために立ち上がる。僕は箱をテーブルの上に置き、箱の中から仕立てられたドレスを取り出した。
「いい出来じゃないか」
満足そうに呟く殿下に緩く笑みを浮かべると、そのドレスにペーパーナイフを突き刺した。普通のペーパーナイフでは凶器になりにくいが、僕の持っている物は少し刃が鋭い。上手く扱えばデリケートな布など簡単に裂くことができる。
殿下はその様子を見て青ざめた。
「おい、どうしたんだ、一体……」
「正直に話してください。マリエルに何を飲ませました?」
「は……?」
不思議そうな顔をしたので、笑みを消した。素のままの表情で殿下を見つめる。
「僕が嘘をついたと思って、マリエルは狂気に囚われてしまった。それは問題ありません。僕が彼女の希望通りに二人で過ごせばよかったのですから。僕としても二人でいられるのは本望です。足だろうと腕だろうと眼だろうと、潰したいというのなら潰してもいいと思っていました。そのぐらい僕は彼女を愛しているんですよ」
もう一度、ペーパーナイフで布を切り裂く。切り裂かれ哀れなドレスは悲鳴のような音を立てる。布を引き裂く音に気圧されたのか、殿下はほんの少しだけ後ろに下がった。
「ウィレム、落ち着け」
「非常に落ち着いています。この一ヶ月間、ずっと考えていたんです。どうして彼女から熱が奪われてしまったのだろうと」
間を持たせるために、ドレスをザクザクと切り裂いていく。
そう、ずっと考えていた。あの重苦しい愛をどこで失ってしまったのだろうと。原因があの友人の義妹に会ったことは間違いない。だが彼女の行動だけでは熱を失うわけがない。逆に暴走して、足や腕を壊されるはずだ。
だけどそうはならなかった。
彼女は僕に対する熱を失い、ただ日だまりのような緩い感情だけを抱きしめていた。
そのきっかけとなったあの日。
そこにいたのは誰か。
狂気を見せたマリエルに寄り添っていたのはルイーズ殿下だ。
もちろんすべての愛が失われたわけではない。今の彼女も前よりも熱がないだけで僕を愛している。でも僕はもうあの程度の愛では満足できない。
「確かに嵌められた僕に隙があったのは認めます。まさか同じ日に同じ色の布を同じ商会で購入するなんて思ってもいませんでした。気が付かなかったのは、完全に僕の落ち度だ。毎日が充実していて、浮かれすぎていた。ですが、彼女からあの思いを消し去るのは相手が誰であろうと許せない」
「……マリエルの狂気は王家の持つ狂気だ」
観念したのか、大きく息を吐くと疲れたように椅子に深く沈み込む。だらしなく体を預けると、座るようにと手を振られた。ぼろ布になったドレスをペーパーナイフと共に箱に入れると、対座に腰を下ろす。
「マリエルの母の話は聞いたことがあるか?」
「ええ。酷い癇癪持ちで、護衛騎士をすべて殺したと」
殿下の問いに手短に答えた。
「癇癪持ちというのは正しいが、暴れていた理由がある。叔母の愛した男を取り上げたからだ」
そこからは知らない話ばかりだった。
マリエルの母は幼い頃に友人になるようにと紹介された三歳年上の令息を気に入っていた。その令息は王家に言われて側に侍るようになる。
初めはお気に入り程度、徐々に愛情が加わり、執着に変わる。令息はその執着に恐れを抱き、逃げようとした。当然捕まる。狂った彼女は十本の指を折り、さらに動けないように足を切り裂いた。
彼女の行動を危険視した王家は彼女と令息を引き離した。
「助け出された彼は叔母に恐怖していた。治療と同時に色々と王家の過去を調べた結果、時々そういう執着をする人間が生まれるらしい。原因はわからないけどね」
「それと薬を飲ませるのと何の関係が?」
マリエルの母のことなどどうでもいい。関係ない話で誤魔化されるつもりはない。
「……お前はマリエルの狂気が怖くなかったのか?」
「少しも。心地よいとすら感じていました」
「……はあああ」
殿下は大きく息を吐いて項垂れた。
「対応を間違えたのは私たちか」
「ようやく納得いただいたようで。それで、戻すにはどうしたらいいんです?」
「あの薬は秘薬中の秘薬だ。取り除かれた感情は決して元には戻らない」
「そうですか」
予想していたが、いら立ちが募る。暴れる感情を抑え込もうと拳をテーブルに叩きつけた。大きな音がして、びくりと殿下の体が揺れる。
「では、離宮に二人で籠る許可を」
「は?」
「マリエルは僕と二人きりの生活を送りたかったそうです。それならば、僕がその状態を作ります」
「何言っているんだ、お前は」
ひくりと顔を引きつらせた殿下に厳しい目を向けた。
「あの離宮はマリエルの母が封じられていた場所ですよね? 丁度いいではありませんか。僕と二人きりなら彼女は母のようにはなりませんよ」
「いや、しかし」
「伯爵家の爵位を父に戻します。僕よりも優秀な後継はいますので、十年ほどかかるかもしれませんが父もまだ元気だ。問題ありません」
「そこまでもう手を回しているのか」
殿下は肩を落とした。
「わかった、手配しよう。色々とすまなかったな」
「こちらこそご期待にそえず、申し訳ありません」
言いたいことは沢山あったが、もうどうでもよかった。
マリエルが望んだ二人きりの世界。
それが実現すればもしかしたら彼女の心が蘇るかもしれない。
秘薬中の秘薬と言ってもあの熱量を消すことは不可能だと思っている。
でも。
戻ることはなくても、同じような深い愛を彼女に注げばいい。僕の愛を注げば、再びあの想いが生まれるかもしれない。試すだけの価値はある。
二人きりの生活に思いを馳せ、口元が緩んだ。
Fin.
最後までお付き合い、ありがとうございました。
誤字脱字報告も本当にいつもありがとうございます。とても助かります。
皆様の愛に感謝を(*´ω`*)