出会い
「大好きです、大好きです。誰にも見せたくないぐらい愛しています」
そんな呟きを初めて聞いたのはいつだっただろう。結婚してからしばらくは気が付かなかった。
彼女の本当の愛の言葉はいつだって眠っている間に囁かれる。
ゆっくりと髪を梳かしながら、柔らかな声で、切羽詰まった言葉を次から次へと音にする。
愛し合っている夫婦であれば囁き合うだろう言葉だったけれども、彼女の言葉は少し違う。
もっと愛が深くて、もっと重くて、狂気を感じるほどの深い感情。
普通の男なら逃げ出してしまうだろう。
でも、その重苦しいほどの愛を捧げられて嬉しい以外に何がある。
貴方を愛していますと囁きながら、女たちが見ているのは僕の持つ地位と財力。そして誰よりも美しいとされるこの容姿。
中には僕の容姿が一番だと考えている女もいるだろう。
だけど、マリエルの愛はそうじゃない。
僕にすべてを求めるけれども、彼女もすべてを捧げようとする。
彼女には僕がいないと駄目なんだ。僕がいないと世界が壊れると本気で考えている。
僕だけでいいなんて本気で考える女はそういない。そしてその重たく苦しいほどの圧力を感じる愛こそ、僕にとっては最高の愛だった。
だからいつも寝ているふりをする。
彼女の本当の気持ちを聞くために。
彼女の捧げる愛を受け取るために。
――だから、この状態は許せない。
あのクソ女と一緒にいるところを見られた日の翌日から、彼女は毎日繰り返されてきた夜明け前の儀式をぱたりとしなくなった。
◆◇
マリエルが感情に欠陥を持つ女性であることは出会った時から気が付いていた。広い屋敷に捨て置かれており、碌な愛情も手間暇も与えられずに大きくなっていた。
僕とはまた違う意味で壊れた存在だった。
主人である第二王子が困って声をかけてこなければ、あの存在を知ることはなかっただろう。
「お前だったらなんとかできるかもしれない!」
そんないい加減なセリフと共に連れていかれた温室にいたのは、人形のように整っている美しい少女だった。王族特有の銀の髪とアメジストをはめ込んだような紫の瞳、肌も陶器のように白く滑らかだ。
豪華なドレスを身に纏っていたが、体は誤魔化せないほど細かった。ドレスの袖口から見える手首は骨が浮いていた。僕の十歳年下――六歳の彼女はとても小さくてやせ細っていた。
ぼんやりと座るマリエルの側に寄ると、片膝をついた。下からのぞき込むようにして、彼女の瞳に目を合わせる。なるべく優しく聞こえるように意識して声を出す。
「初めまして、マリエル様」
ぼんやりした目が僕を真っすぐに捕らえた。うつろだと思っていた瞳は徐々に明るい光をともす。その変化は劇的で、人形が目覚めたような鮮やかさがあった。
「だれ?」
あまり声を出していないのか、かすれた小さな声であった。反応があったことに驚いて、ちらりと後ろにいる第二王子を見れば、こちらも信じられないといった顔をしている。とにかくこのまま話してみようと、自己紹介をする。
「僕はウィレム・ヒューレットと言います。ウィレムと呼んでください」
公の場では「私」を使っているが、今日は「僕」を使って名前を名乗る。マリエルは少しだけ考え込んでいたが、そっと手を伸ばしてきた。小さな手が頬にあてられた。その小さな手にすり寄れば、彼女の口元に笑みが浮かんだ。
「ウィレム……ウィレム様ね。よろしくね」
彼女の浮かべた透き通るような美しい笑顔に僕の眼は釘付けになっていた。
マリエルはこの日を境に、僕を探すようになった。僕は第二王子の学友ではあったが常に王城にいるわけではない。
マリエルはそのことを何度も聞いているはずだが、必ず城の中を僕を探して彷徨っていた。何度かそんな彼女を見つけて、気持ちの良い光の入るサロンへと連れていく。
無事に見つけられるのはいいが、大きくなってもこのままでは非常に困る。マリエルは心が壊れてしまっているが、国王の姪で非常に大切にされていた。このことを知っている人間は今は少ないが、いずれ広く知れ渡る。そうなった時に、無理やり関係を結ぼうとする人間も出てくるはずだ。
だから、どこにもいかないように待っているようにしなくてはいけない。考えた末に、約束をすることにした。
「マリエル様、僕が貴女を見つけます」
「……?」
言っている意味がわからなかったのか、マリエルは首を傾げた。
「僕も早く貴女を見つけたい。だから、マリエル様のお気に入りの温室で待っていてくれませんか?」
「本当に見つけてくれるの?」
「ええ。毎日、お昼の時に必ず」
「……でも約束って破るものでしょう?」
どうやら約束を守られたことがないようだ。ごく自然に約束は破るものと思っている現実に、舌打ちしたい気持ちになる。愛らしい彼女が受けてきた仕打ちに、悔しくなりながら微笑んだ。誰にも見せない心からの笑顔だ。
「僕はマリエル様との約束を破らない」
「……嘘はつかない?」
「絶対に。約束します」
マリエルは太陽のように輝く笑顔になった。
「ウィレム様、信じます」
その約束をした日以降、お昼から一時間、二人の時間を過ごす。
ゆっくりと庭園を歩いたり、お茶を飲んだり。その時間はとても穏やかで、心が満ち足りる。
「ウィレム様、大好きです」
十歳を過ぎた頃、マリエルは会うたびに嬉しそうに微笑みながら素直に思いを告げてくる。その気持ちはとても澄み切っていて、普段僕に向けられる汚い欲を含んだ思いとは違っていた。
「僕もマリエル様が好きだよ」
「ふふ、嬉しい」
そう返してあげれば、嬉しそうに笑い抱き着いてきた。城に来てから4年も経っていたが、マリエルの体はとても華奢で壊れてしまいそうだ。苦しくならないように気を付けながら、ゆるりと抱きしめる。
「ウィレム様とずっと一緒にいたいなぁ」
それには同意も否定もできなかった。ただぎゅっと抱きしめる腕に力を入れた。
僕は伯爵家の跡取りで第二王子の側近ではあったけれども、王族の血を引くマリエルを手に入れるだけの力はまだなかった。僕だって彼女から向けられる純度の高い愛を手に入れたいと思い始めていた。
どうしたら手に入る?
何をしたらいいのか、必死に考えた。マリエルを手に入れることはとても大変で、そして手に入れた後も大変なことはわかっていた。
マリエルはそれだけ貴重な存在だ。
問題だらけであっても、王家の姫を母に持ち、公爵家の血を引いているかもしれない存在。そして何よりも、母である姫の残した財産が国内外に有ってその額は眩暈がするほど凄まじい。
あれほど関心なく放置していたにもかかわらず、マリエルの母はすべての財産を娘に残していた。今はもう公爵家とは縁切りをしているので、その財産は今王家が管理している。このことを知っているのはごく少数で、僕もつい最近知った。きっと周囲に知られたら欲にまみれた人間に食われてしまうだろう。
マリエルを手に入れることだけを考えていたある日、第二王子殿下にそう聞かれた。
「お前は結婚しないの? そろそろ周囲の圧力があるんじゃないのか?」
読んでいた書類から顔を上げれば、執務机にだらしなく肘をつき頬を支えている。王族であるから彼も紫の瞳を持っていたが、髪の色は銀ではなく淡い金色だ。王族の色と言われている銀髪と紫の瞳を両方持っているのは、第一王女であるルイーズ様とマリエルの二人だけだ。
「結婚はそのうちする」
「そうはいっても、お前の家は特殊だから許されないだろうが」
「伯爵家を継いでからでも遅くない」
殿下はちょっと嫌な顔をした。
「なあ。気のせいだったらいいんだが……お前、マリエルを娶ろうとか思っていないか?」
「それは」
不意に聞かれた問いに、言葉が咄嗟に出てこない。そんな僕の様子からマリエルに向ける感情がわかってしまったようだ。殿下は重いため息をついた。
「そうだよなぁ。あんなにも懐いているし、人嫌いなお前が毎日会いに行っているんだ。少し考えればお前がどう思っているかなんてわかってしまうよなぁ」
「……許してもらえるのなら、マリエル様を妻にしたい」
「でも、お前の家は正妻の他に高級娼婦に子供を産ませるだろう? そんな環境に嫁に出したら、ようやくまともになってきたのにまた心が壊れてしまう」
ヒューレット伯爵家の特殊性を問われて、唇を噛みしめた。
ヒューレット伯爵家は表向きは温厚な中立派の家であるが、実際は違う。王家の影を務める家系であり、護衛や諜報活動を主にやっている。必要があれば拷問や暗殺なども請け負う。
当然、ヒューレット伯爵家の当主になる人間はかなり過酷な教育を施される。陰からの護衛はまだいい方だ。諜報になると、情報を引き出すために老若男女問わず、篭絡する必要がある。人当たりのいい人として接していればいい時もあれば、体から落としていく場合もある。
僕の場合は生まれ持った顔の良さがあったため、体から落とすような諜報活動をあてがわれていた。何度もやっているが心が疲弊する仕事だ。他にも拷問や暗殺も数回であるが補助を経験していた。補助のため見ていただけなのに、確実に精神を折ってくる。
「伯爵家を継がないのが一番なんですが、そうするとマリエル様を娶れなくなる。伯爵家を継いだ場合、もしかしたらマリエル様を娶れるかもしれないけれども、他の女に継嗣を産ませる必要が出てくる。正直八方ふさがりです」
「待て、待て、待て! マリエルはまだ十歳だ。それなのにそこまで考えていたのか!?」
「当然です。うかうかしたら他の誰かに目が向いてしまうでしょう」
冷静に答えれば、殿下は頭を抱えて唸った。
「お前も十分におかしいと思うんだが……。いや、仕方がないのか? そうしているのは王家だから、あああああ」
「殿下が悩むことはありません。僕がマリエル様を娶るのにどのような条件をクリアしたらいいのかさえ教えてくれたらいい」
はっきりと言えば、殿下が止まった。ゆるゆると顔を上げこちらを見てくる。その表情はいつもよりも真剣で、顔色さえ悪かった。
「お前は……いざという時にマリエルの側にずっといて、自由を拘束されてもいいと思うか?」
「ええ」
「自由を拘束されるということは、体が不自由になるかもしれないし、人と会うことはできなくなるかもしれない。好きなことをやることも不可能になる」
不思議なことを問われて首を傾げた。
「殿下は知りませんでしたか? 我が家の教育には拷問に耐えられるための指導があります。肉体的な苦痛は一通り経験しております」
「――聞かなきゃよかったよ。そうか、そうだったか。本当にお前たちの一族には申し訳なさばかりがあるな」
魔法薬と言われる不思議な薬があるため、傷を負っても何をされても綺麗に元に戻る。諜報に生きる人間が簡単に口を割るわけにはいかないのだから、当然の教育なはずだ。
「それで、どうなんでしょうか?」
「うーん。今すぐには結論が出ないが……。お前が跡取りを作らないのであれば、許可されそうな気がする」
「随分とあいまいですね。父もまだ現役ですし、もう一人、跡取りを作ってもらえば問題ないということでしょうか」
苦々しい顔をしながら殿下は頷いた。
「はあ。こういう話は胃に来るな。でも、お前たちがいるからこの国は表向きの平和が享受できるのであって」
「難しいことはわかりませんが、今後もずっと王家を支えていきますよ」
当然のことを言葉にすれば、殿下はまたもや呻いた。