幸せな毎日
まだ陽が昇りきらない朝の時間。
ウィレム様の寝顔をじっくりと眺めた。隣で気持ちよさそうに眠ってる彼を起こさないようにそっと体を起こし、何の憂いもない穏やかな顔を見つめる。
澄んだ緑の瞳は瞼に隠れ、長いまつげが影を作っている。癖のある金の髪は乱れて、額に落ちていた。その髪に触れようと、手を伸ばした。
少し長めに整えているものの、少し伸びすぎている。忙しいのはわかるが、そろそろ散髪する必要があるだろう。優しく指にからめとり、眠りを妨げないように顔から払った。
「ウィレム様、大好きです。誰よりも何よりも愛しています」
小さな、小さな声で呟く。彼を愛している気持ちは伝えていても、どれほどの重さの愛であるかは伝えていない。自分の彼に向ける愛情が人よりも数倍重く、彼に向ける感情が異常であることを理解していた。
どうして彼にこんなにも愛を傾けてしまったのか。
きっかけはすでに忘れてしまった。覚えているのは、初めての出会い。幼かったわたくしに優しく声をかけてくれた時のこと。
公爵家の次女でありながら、後妻の娘であるわたくしは誰からも見向きもされず、一人放置されていた。母は王族の姫でありながら問題の多い人で、おおよそ王族の姫とは思えないほどの振る舞いをしていたそうだ。特に癇癪がきつく、一度激昂すると手を付けられないのだそう。
当然、感情の起伏の激しい母を娶りたいという奇特な人間は存在せず、政略に使うにもかえってトラブルを起こしかねない。
そんな事情で、婚約者もないまま護衛を付けられて離宮で暮らしていた。離宮に籠ったことで、好き勝手始めてしまった。具体的に何をしたかは知らないが、護衛が数人、亡くなっている。
このまま放置はしておけないと結論が出され、監視の意味を込めて二十歳も年の離れた公爵に嫁がされた。当然王侯貴族の結婚であるから、年の差など関係ない。公爵家にとっても大きなメリットがあったのだろう。王家の姫から公爵夫人になった母はそれなりの扱いをされている。
ところが母はその窮屈な環境が不満だった。不満だけを抱えるような性格ではなく、状況を変える方法を探し当てていた。
貴族夫人としての役割を果たせば、愛人を持つことも問題はない。たとえ眉を顰められても、貴族社会では暗黙の了解とされていた。
行動力のある母は老公爵をまんまと寝室に引き入れ、妊娠した。生まれた子供は二番目の兄。公爵家の血を継ぐ男子は政略の駒としても価値が高く、非常に喜ばれた。
母は王族の姫として、貴族の妻として役割をしっかりと果たし、自分の権利を手に入れた。
それから母は好き勝手生きていった。王族の姫だったから浪費も激しかったが、実はかなり頭のいい人だ。自分の持っていた財産をまっとうな方法で倍々に増やしていったのだ。
貴族夫人としての立場を揺るぎなく、財も持っている母は自由気ままに愛に生き始めた。沢山の顔のいい男たちが母に群がり、皆が愛を囁きながら傅いた。
貞淑な貴族夫人ではない母は社交界では陰で笑われていたが、それも気にしないほどの強いメンタリティ。
不満に思うだけで行動に起こせない貴族夫人たちの僻みと言って逆に嘲笑っていた。
沢山の男たちに囲まれて生活しているある日、彼女は妊娠した。
その時に生まれたのがわたくしだ。
当然、誰が父親であるのかわからない。母は王族の姫であっただけあって抜け目のない性格をしている。公爵とも定期的に寝室を共にしていたのだ。
生まれた子供が公爵に一つでも似ていたら、もしくは愛人の誰かに似ていたらよかったのだろう。不幸なことに、生まれ落ちたわたくしは月の姫と称えられた銀髪に紫の瞳の母に瓜二つで、誰の血を引いているのかもわからないほど王家の姫の姿を持っていた。
そんな血筋が不明な子供は政治の駒としても使い勝手が悪く、誰からも放置された。もちろん最低限の生活の面倒は見てもらったが、兄のように公爵家の一人としての教育は全く受けていないし、家族としての触れ合いもほとんどない。当然、捨てられた娘に対する使用人たちの態度も酷いものだ。
わたくしの異変に気が付いたのは、伯父である国王だった。兄はよく王城に連れていかれていたが、わたくしは屋敷で一人放置されていたから。
大人たちの間でどんなやり取りがあったかは知らない。結果的に国王は幼いわたくしを保護し、王城に引き取った。そこからは王族と同じ教育を受けるようになった。母はそれっきり会うこともなく、数年後に病気で亡くなったと聞いた。
王家に引き取られた時、わたくしは六歳になっていて、大人なんて信じられない生き物でしかなかった。
涙ながらに辛かったわね、と言われてもよくわからない。もっと思っていることを言えばいいと言われても、特に何も思っていないから伝える言葉が見つからない。
膜につつまれたようなぼんやりした毎日の中、わたくしはウィレム様と出会った。彼は第二王子の学友で、将来側近として働くことを約束された優秀な人だ。
引き取られたわたくしの扱いに困った従兄である王子たちが、人当たりがよく優しげな容貌を持ったウィレム様に泣きを入れたのだ。
引き合わされたウィレム様は膝をついて、わたくしの目の位置で話しかけた。
――初めまして、マリエル様。
簡単な挨拶。
でも、その目の奥にあった空虚を見つけて。
彼を信用することにした。そこから彼への深い愛情に変わるまで時間がかからなかった。転がり落ちるように彼に心を奪われ、毎日彼を探して城の中を彷徨った。
「大好きです。本当は誰にも触れてもらいたくないし、微笑んでもらいたくないし、ずっと側にいて欲しい」
小さな小さな声で、囁きかける。ウィレム様は目覚めることなく、寝息を立てている。そのことを確認して、わたくしは自分の気持ちを音にして落としていく。
「でも我慢します。わたくしはウィレム様に素敵な妻だと思ってほしいから。だから、どんなことがあっても、わたくしに嘘をつかないで。今はそれだけで我慢するから」
気持ちをすっきりと告白して、ほうっと息を吐いた。本人には伝えていない重いほどの気持ちをこうして寝ているとはいえ告げられた。すごく満足だ。
でも、いつか。
わたくしの目を見つめている時に伝えたい。
――大好きです。大好きです。誰にも見せたくないほど大好きです。
――だから、ウィレム様も。
――わたくしだけを見て、わたくしだけ想って、わたくしだけを好きでいて。
――誰にも微笑まないで、誰とも話さないで。
「マリエル?」
美しい金のまつげが震えると、緑の宝石がわたくしを捕らえた。わたくしはすぐにどろりとした感情を隠し、にこりと微笑む。
「おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「いいや。美しい妻がいるのにいつまでも寝ていられないだろう?」
少しかすれた声でそう囁くと、腕を引っ張られた。強い力でバランスを崩し、彼の上に乗り上げてしまう。
「ウィレム様!」
「おはようのキスを」
そう強請られて、困ったように笑みを浮かべる。でもキスをするのは当然のことで、恥ずかしいと思いながらも嬉しくて、そっと彼の唇に自分のを合わせた。
「昨日はごめんね」
彼の唇から自分のを離すと、すぐに強く抱きしめられた。薄い寝衣から彼の体温がじんわりと伝わってくる。その温かさにうっとりしながら、彼に自分の体を強く押し付けた。
「何がですか?」
「庭での様子を見ていただろう?」
「ああ」
どうやら彼の方もわたくし達に気が付いていたようだ。
「本当にああいう仕事はもうやめて欲しいんだけどね。自分だけで令嬢達をさばけないからと僕を連れまわすのは本当にどうかと思う。第二夫人なんて娶るつもりなんてないのにわざわざ噂まで立てて」
「お仕事ですから、と言いたいところですけど、わたくしも不愉快ですわ。まだわたくしたちは結婚して半年なのに」
ぎゅっとさらに力強く抱きしめられた。彼がわたくしの首元に顔を寄せる。その子供っぽい仕草に思わず目を細めた。
「誤解されてしまっているんじゃないかと心配だった。僕は君がいればいい」
「知っておりますわ」
「そうだね。信じてくれてありがとう」
ほっとしたのか、彼の腕から力が抜けた。わたくしの強い執着にも似た愛ではないけれど、夫婦としての愛を向けられていることに嬉しさがこみあげてくる。伏せられた彼の顔を覗きこんだ。
彼はすぐにとろけるような笑顔を浮かべた。
昨日の庭で浮かべていた笑顔とは全く違う、彼の心からの笑み。
「でも、そういう笑顔はわたくしだけのものですわ」
「そうだね、わかっているよ」
「今度のお休みにはわたくしとずっと一緒にいてくださいませ」
「休みのこと、知っていたんだ」
「ルイーズ様がついうっかりと口を滑らせましたわ」
「そう、驚かせたかったのに。まあ、いいか」
少しおどけたような様子で彼はわたくしの頬にキスをした。そんな甘いじゃれ合いをしていれば、ノックの音が部屋に響いた。どこか苛立ちを含んだ叩き方に、二人で顔を見合わせる。
「旦那さま、奥さま。そろそろ起きてください。お出かけの時間になってしまいますよ!」
どうやらいつまでも起きてこない夫婦に家令がしびれを切らしたようだ。窓へと目を向ければ確かに先ほどよりも外が明るい。
「仕方がない、起きようか」
わたくしの唇にしっかりとしたキスをしてから、ウィレム様は寝台から降りた。