女神様から授かったスイーツレシピブック
最初はただツイていないだけかと思っていた。貧しくても家族三人で細々と暮らせるなら幸せなのだと。
しかし、母と父が一年前に他界。町外れの古びた一軒家に残された私は、母の形見である銀時計を常にポケットに入れて必死に生きてきた。
働く先のお店は潰れたり、遠くの町へ移転したり、因縁をつけられてクビにされたりと、なかなか定職につくことが出来ない日々。
今日もまた働き口がなくなった。理由は姪が働くようになるから人手はもういらないとのこと。ようやく仕事に慣れ始めた洋服屋だったのに。
本日分の、とは言うが実際は朝から昼までの数時間分の微々たるお給金を受け取り、とぼとぼと自宅へと帰る。足が重い。
なかなか進まない足は、町を出て少し先にある大きな川の前で立ち止まった。
十メートルの深さがあるらしい川に映る自分は酷いほど沈んだ顔付きをしている。
ぼーっと眺めていたら、給金の入った麻布を手から滑らせてしまい、川に落としてしまった。
「あっ!」
微々たるものとはいえ、一日を食いつなぐためには必要なもので、慌てて手を入れても硬貨どころか麻袋すら見つからない。
流されたのか、深く沈んだのかわからず、もう少し手を伸ばしてみようと思ったら、バランスが崩れてそのまま川に落ちた。
また、ここに落ちてしまった。
お金を落とすよりも大きな音を立てて川に飲み込まれた私は死を悟る。
泳げないし、身体が思うように動かないため、静かに沈んでいく。
(死ぬつもりはなかったのにまた川に落ちてしまうなんて、本当に運がないなぁ……)
苦しくて、でもどこかで諦めた私はそのまま意識が遠退いていくのを感じた……そんな時だった。
「っ!?」
ぐんっと何かに引っ張られるかのように身体が勢いよく浮上する。
バシャンと大きな水飛沫を上げて高く舞う身体はのちに川岸へとゆっくり着地した。
「げほっ! げほっ!」
びしょ濡れでへたり込む私は何が起こったのかわからずに咳き込む。……私、助かったの?
「あらあら、大丈夫かしら?」
鈴の音が転がるような声が聞こえて、慌てて顔を上げる。そこにはエメラルドグリーンの髪をなびかせる綺麗な女性が佇んでいた。
スラリとした汚れを知らないシルクの白いワンピース……というには上品ではあるがドレスにしては落ち着いたお召し物を纏っている。まるで天からの使いが来たようにも思えてしまう。
「はぁ……ッ、あ、あなたは……?」
「うふふ。こんにちは、イル。私はイストワール。この世界の女神様よ」
「女神、様……?」
イストワールという女神はこの世界の創造主として語り継がれている。もちろん信仰する人も少なくはない。
しかし、彼女は私達には見えない存在である、はずなのだけど……。
「あら? 信じられないって言う顔ね。溺れているあなたを助けたのも私なのよ?」
「えっ!? あ、ありがとうございます!」
思わず正座をしてしまう。本当に女神様かどうかわからないけれど、本能というか、彼女の雰囲気が人間とは違う存在だということがひしひしと伝わる。
「今回ね、あなたの前に姿を現したのにはワケがあって」
「ワケ……?」
「実はね、イル。あなた、ステータスを見る限り、運のパラメーターが-100なのよ」
ま、-100!? 運ってあの運だよね? 幸運の運。それが0じゃなく-100もあるっていうの!?
「試しにステータスって言ってみて。心で唱えるだけでもいいわ」
よくわからないまま、言われた通り『ステータス』と心の中で呟いてみる。すると目の前に薄らと画面が表示された。
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イル (21歳)
レベル 0
体力 17
魔力 4
攻撃力 3
防御力 3
素早さ 6
運 -100
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絶句した。本当に運が-100と有り得ない数字が記載されている。
「そのステータスは魔道具を使わない限り見ることがないのだけど、特別に見られるようにしておいたわ」
「え、と……いりますかね、これ……? こんなに数字が酷いだなんて……」
「そうよね、運にも驚くんだけど、まさかレベルも0だとは思わなかったのよ。最低でも1はあるものだから」
「えっ……じゃあ、私めちゃくちゃ弱いじゃないですか!?」
むしろよく生きていたのでは? 女神様はわざわざこんな現実を伝えるために現れたのだろうか。さすがに落ち込んでしまう。
「そう悲観しないで。私ねぇ、ずっとあなたを見てたんだけどさすがに可哀想に思ってね……」
女神様に同情されるくらいだと言うのはよくわかった。むしろ納得が出来る。今までの運のなさを思えば嘘だとは思えない。
「だからささやかなプレゼントを用意したの」
にっこりと笑う女神様は何もない所から本を出現させた。赤い色の分厚い本。それを私の前に差し出した。
「あの……これは?」
「スイーツのレシピブックよ」
「レシピ、ブック?」
「ただのレシピブックじゃないの。これを見て出来上がったスイーツを食べれば、なんと! レベルアップが出来ちゃいます! 更に魔法やスキル取得などのボーナス付き!」
じゃじゃーん、という音が聞こえてきそうな迫力に思わず後退る。
というか、作って食べてレベルアップ……?
「最初は難しくても、続けていけばいつかイルの不運がなくなるはずだから! ね?」
「でも、どうして私にここまでしていただけるのです?」
「私、人間が好きなの。時には困難や試練は必要なのだけど、イルの場合はステータスが異常だから幸せになってもらいたくて」
女神様の好意だというのに気が進まなかった。私以上に大変な思いをしている人はいるはずなのに、よくわからないプレゼントをいただいてもいいのかな?
「……私がイストワール様のご加護を受けてしまっていいのでしょうか?」
「ご加護だなんてとんでもない。イル、私はきっかけを与えただけ。これをどう使うかはあなた次第なの。もちろん持っているだけじゃ何も効果はないし、頑張り次第で未来は切り開かれるものよ」
きっかけ。確かに私がただ持っているだけでは宝の持ち腐れなのかもしれない。
受け取ったレシピブックを胸にぎゅっと抱えて、私は意を決した。
「わかりました。有難く頂戴します!」
「ふふっ、そうこなくっちゃ! では、レシピブックの注意点を伝えるわね」
イストワール様の説明によると、一つ目はレシピブックに書かれている通りにスイーツを作ること。これはアレンジをしたら何も効果が得られなくなるためである。
二つ目は作ったスイーツをちゃんと自分でも食べること。一口も食べずに誰かに全て食べてもらってももちろん効果はない。
三つ目は効果を得るのは新しく作ったスイーツだけ。同じスイーツを作ってもレベルやスキルなどを取得するのは最初の一回のみである。
「とりあえずそんなところかしら。あぁ、あとはそのレシピブック、必要じゃない時は収納するイメージをして。そうすればその本はパッと空気に分解されて消えるからずっと抱える心配はないわよ。逆に必要な時はレシピブックと唱えれば現れるから」
なんと便利なレシピ本なのか。思わず感嘆の声がもれる。
一度試しに本を消してみたり、出現させてみたりすると簡単に出来てしまった。凄い。
「それじゃあ、イル。私の用件は以上よ。これからは幸多き人生を」
そう言うと、彼女の姿は幻のように消え去っていった。まるで最初から誰もいなかったかのように気配も消え、辺りに優しい風が吹く。
私は聞こえるかわからないけれど、ありがとうございますと頭を下げた。
まるで夢のようなひとときだったせいか、未だに女神様からの授け物を受け取った実感が湧かない。
そのプレゼントも今は手の中から消え、空気に分解されている、はず。
空気中には魔法が発動するための魔力の粒子が漂っているため、恐らく魔法のレシピ本も粒子になっていると思われる。
「……っへくしゅ!」
急に寒気が襲ってくる。それもそうだ。春になったとはいえ、まだ肌寒い季節の中で川に落ちたのだから。しかも、何も拭う物も持っていない。
家に帰るよりも町に戻って、タオルを借りる方が早いと判断して、再び町へと戻った。