16 邂逅
それは部屋の奥にいた。
「ドラゴン?」
マクリルが見たままを口にすると、連れてきた彼は頷く。
廊下や階段はひんやりと肌寒いほどだったが、部屋に入ったとたん逆にほんわり温かだった。
見上げた天井は部屋に灯されている明かりが届かないほど高く、そしてそこに模様が描かれている。陣の一種のようだったが近づいて見ない事にはマクリルにも正確な内容までは分からなかった。
部屋を見渡せば、僅かの隙間もないほどきっちりと積み上げられた白石の壁が周囲を囲み、所々にまた水晶が埋められている。
そして抱え込めないほどの太さの柱が四本。
その中央にとてつもなく巨大な赤竜が伏せた姿勢で今にも飛たたんばかりに両翼を広げて静かにマクリルを見つめていた。
この場へマクリルを連れてきた男はマクリルとして意識を持ったその日から手を引き寄宿舎へ案内し、その後も学校への送り迎えや仕事の依頼も現場への供もずっとしてきた彼だ。彼もマクリルと同じで必要以上は話さない。日常会話もあいさつだけで、世間話などはしない。多くを語らずマクリルを平然といろいろな場所へ導いてきた彼もやはり言葉にはしないが今日ばかりはさすがに体を震わせ目に見えるほど汗を滲ませて、状況の緊迫感を伝えている。
されどマクリルは全く警戒しなかった。
マクリルでもドラゴンは書物の中だけの生き物だと思っていて、それを目の前にして驚きと迫力に圧倒されていたが、恐怖はなかった。
それは赤竜からそういった気配を全く感じなかったからだ。
「こんにちは」
マクリルは何も気にせず話しかけた。会話ができる生き物かどうか定かではなかったが、言葉を掛けるのはごく自然なことのように思えたからだ。
赤竜はしばらくそのままマクリルを見つめていたが、不意に視線を逸らし、マクリルの傍に立っていた男をちらりと見やった。
すると男はその一瞬で体をこわばらせ、上手く回らない足で逃げるようにその場から立ち去っていった。
「あの人には一体君がどう見えているのか」
それはさっきとは違って独り言のように呟いた言葉だったが、赤竜はのっそりと立ち上がり猫が伸びをするように背中を反らし、翼を二、三度羽ばたかせた。
それにより微風とは言い難い風がほんのりと薄暗い広大な室内に吹き荒れたが、地下ということもあってか、柱や壁は何の影響なくその衝撃を受け止めている。
マクリルも一枚カーディガンでも羽織るような感覚で風の威力を弱める魔術を使い、赤竜の行動を見守った。
翼の次は首を回し小さいな耳をパタパタと動かし、最後にしっぽを大きく一度左右に振った。
そこまですると再びマクリルに視線を戻し、今度はにやーと鋭い牙を見せて笑った。
それでもやはりマクリルに恐怖心は芽生えなかった。
体はマクリルの五倍は優にあり金色にぎらつく目は人を襲う魔物となんら変わりない。それなのにマクリルには可愛い小動物でも愛でる様な気持ちにしかならず、自分自身でも少し不思議に思ったほどだった。
「なんだか申し訳ない、そこまでしてもらっているのに君が望む反応は返してあげられそうもない。僕はたぶん演技が下手だから」
マクリルは本当に申し訳なくなって、いたたまれず頭を下げた。
すると頭上遠くから豪快な笑い声がした。
「また面白い奴が来たな、ゴウツとはまた違った面白さだがお前のような奴に出会うのは久しぶりだ」
ゴウツというのは初めに亡くなった七魔道士の一人。知り合いなのかとマクリルは思ったが、それことよりも声に惹かれた。すっとやわらかくてそれでいて重みはあるが決して低くない声が意外で口を開け見上げたままマクリルは呆けてしまった。
「なんだその顔は、間抜け面め。力はあるがまだまだ餓鬼よの」
そしてまたケタケタと笑い出した。
その笑いざまがあまりに明け透けだったので、マクリルは気恥ずかしさと心根の気安さで一緒に笑ってしまった。
「クハハハハハ、あははは…………はははは、あー久しぶりに笑ってしまった」
マクリルはついそう言葉が漏れた。
「確かにあまり良い顔では笑えとらんのお」
「そうかい、笑うのも訓練が必要なんだな」
赤竜は首を下げマクリルの顔をまじまじと見つめる。マクリルは少し照れくさそうに赤竜の顔を見上げその瞳に自分の顔が移っているのを見た。
「……お前、大層な術を掛けられておるな」
唐突な問いかけにマクリルも一瞬動揺しかけたが、ドラゴンには何でもお見通しなのだと素直になる方を選んだ。
「そう、七魔道士総出で掛けてくれたようだ」
それはマクリルの一番初めの記憶のことだった。
成長したマクリルはあの時何が行われていたのか分かってしまっていた。あの時自分の座る周りに描かれていた陣を正確に記憶していたために理解してしまったのだ。
だからマクリルにはそれ以前の記憶がない。記憶だけではない、感情も消されてしまっていて、あの時からマクリルは七魔道士の人形になったのだと知っていた。
別に調べていたわけではない。知識を持ってあらゆる書物を手にするうちに古代秘術も当たり前に習得していた。その過程で見覚えのある陣を見つけただけだった。
「解けぬのか?」
赤竜にもその術が如何なるものか分かったのだろう、ならば当然の質問だった。
「いや、たぶん解こうと思えばできる」
「なぜせぬ」
「こういう感覚なんていうんだろう」
マクリルの中にはっきりとした理由があるわけではなかった。そもそもそういったものを全て封じてしまう術をかけられ、その後も情緒を養う機会も与えられていなかったので、自然に沸き起こる感情らしきものを自分でも汲み取ろうとはしてこなかった。
どうしてか。
何も分からない頃は考えると酷く疲れるから考えなかった。その疲労感は術のせいだったが、自分に何が起こっているのか理解してからもわざと無視した。
あえて説明すれば術を解くことが必要だとは思わなかったからだ。それが掛けられた術のせいなのか、自分の性質なのかはマクリルでもはっきり区別できなかった。
とにかく解かなかった。
「変な奴だの、自分の事を知りたいとは思わぬか。その年頃なれば尚更だろうに」
自分が今どんな年頃なのか今一つ理解し切れていないマクリルは赤竜の言葉を飲み込めなかったが、それなのに素直に頷いて見せた。
「君がそういうなら時間ができたら考えてみる」
「なんだ、適当にあしらいおって。そんなに面倒か」
「違う、自分の事を知る必要なんてないと思っているけど、君が言うなら知ってみるのもいいと思ったんだよ」
それはマクリルの紛れもない気持ちだった。
マクリルはあまり人を疑うことをしないが嘘や皮肉や嫌味の類は簡単に見抜ける。その上で全てを受け止めてきた。それは決して信用することではなく、実質的な害がでないものであるなら放ってきた。つまり無関心だったのだ。
しかし今目の前にいるその生き物にはとても興味を持った。それは赤竜が稀有な存在で神とも等しいと言われているからではなく、そんな伝承や価値観ではなく、今目の前にいる生き物そのものに酷く魅力を感じるのだ。
沢山話をしてみたいと思ったのはマクリルが始まって初めてのことだった。
自分でも少しおかしいと思うくらい胸を興奮が駆ける。
それが表情にも出てしまったようで、その顔を見た赤竜は怪訝そうに目を細めた。
「何がおもしろいのだ?」
「僕、笑ってるか?」
マクリルは自分で自分の顔をペタペタと触ると、赤竜は金色の目を細め眉間のシワを深くさせた。
「は? 自分で分からんのか?」
マクリルはさらに何処からともなく丸い鏡を取り出し、まじまじと見つめ始めた。
「笑った記憶なんてないもので。そうか、本当に僕は笑えるんだな」
「ほんに変なヤツじゃ」
「ところで君の名前は?」
鏡で自分の顔をあらゆる角度から見ながら、脈略もそして興味もなさそうにマクリルは聞く。
けれどそれはマクリルが、唯一礼儀としていることで、無意識に大切にしていることでもあった。
「唐突だのう…………、名などない」
「え? 呼び名くらいあるだろう」
鏡をしまったマクリルは、元の無表情に戻って赤竜の方を見て首を傾げていた。
「ない。我を呼ぶときは皆ドラゴンとしか言わぬ」
「へー、じゃあ僕が付けてもいいのか?」
「まあー、構わん」
「ではアカ」
「嫌じゃ」
「え?!」
驚くマクリルに赤竜の方が驚く。
「そんな名で了承するとなぜ思える」
「それなら、ベニはどう?」
「嫌じゃ」
「どうして?」
「単純すぎる」
少しは考えろとあしらうように尻尾を数度振り回す。
「そうかー、じゃあグレンはどうだ? 紅蓮、燃えるような真紅って意味で君にぴったりだと思う」
ちょっと考えれば少しはまともな事も言える癖に、と思う赤竜だったが、口には出さず仕方なさを装って頷いた。
「…………仕方ない、それで許してやろう」
マクリルは覚えたばかりの笑顔でニコニコしたまま尋ねた。
「じゃあグレン、僕はどうしてここに来たのかな?」
赤竜は呆れを通り越して、頭を抱えた。