桜町恋物語 外伝~兄と妹の年越し~
「お兄ちゃん。年越しそば、作りたいんだけど」
十二月三十一日の昼下がり。三日をかけて一通りの大掃除を終えたあと、優花が突然宣言した。
「なんだよ、いきなり」
数馬はまくり上げていた袖を戻しながら眉をひそめる。大学が冬休みに入ってから今日までの三日間、数馬は家の掃除しかしていなかった。今しがた、家中全ての窓をみがき終わったところだ。思った以上の汚れとの奮闘の後だったので、できることならゆっくり休みたいと思っていたのだが。
「冷蔵庫見たら材料が全然そろってない。買い物行こうよ」
妹は元気な様子でそう言った。優花も一緒に掃除をしていたのだが、九つ年下のこの妹はまだ小学五年生なので、大した戦力にはなれない。どうしたって高い位置の掃除や力仕事は数馬にしかできなかった。特に今年からは両親がいないので、数馬がやるしかなかったのだ。
「今からか? 絶対混んでるぞ、どこもかしこも」
「しょうがないよ。だってないんだもん。ね? 行こう」
「んー。でもなあ」
正直言って、気が進まなかった。もうこれ以上の労働はしたくなかった。別に大晦日だからといって、わざわざ年越しそばなど食べなくてもいい。家にあるもので食事を済ませたって、年は越せるのだから。
「ねえ、お願い。今年は私が作るから。お母さんと同じにはできないけど、がんばるから」
珍しく優花は食い下がってきた。優花は普段ほとんどわがままを言わない。欲しいものがあっても、遠慮して何も言わない。この間のクリスマスだってそうだ。「別に何もない」と言って、欲しいものを教えてくれなかった。両親が生きていたら、普通に言っていたのかもしれないが……。
「わかったよ。買うもの買ったらすぐに帰るぞ」
数馬はため息交じりに頷いた。すると、優花は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。その可愛らしさに、数馬はつられて笑顔になってしまった。近所でも評判の美少女である妹の笑顔の破壊力に、いつもそばにいる兄であってもやられっぱなしなのだった。
兄と妹は商店街まで並んで歩いていった。道の途中の家々には、門松やしめ飾りが飾られていた。すれ違う車の中に、しめ飾りをつけて走っていくものがあった。毎年、しめ飾りを知らぬ間に両親が用意して玄関に飾っていたことを思い出す。
(でも、今年は用意しないほうがいいんだ。まだ一年経ってないし)
両親が交通事故で亡くなったのは、今年の二月のことだ。一周忌が過ぎるまでは喪中であると聞いているので、喪中はがきを送ったのは十二月の初めのことだ。親戚に言われて、両親の年賀状リストからも喪中はがきを送った。知らない親戚、長らく年賀状のやり取りだけだった友人など、両親の死が伝わっていない人がいる可能性があるからだった。それもまた数馬がほとんど一人でやらざるを得なかった。
(俺、まだ二十歳になったばっかりなんだけどなー)
何度そう思ったかわからない。葬式の準備から、四十九日のこと、様々な相続の手続きなどなど。数え上げたらきりがない。いろいろなことの責任が、数馬の肩に大きくのしかかっていた。
特に、優花のことは責任重大だった。親戚に引き取られるはずだった優花と二人で暮らしていこうと決めたのは数馬だった。しかし、保護者としての役割が思った以上に多くて、今年一年は大変だった。学校に提出するプリントなどは必ず目を通したし、授業参観や運動会なども保護者として参加した。数馬だけ若いのでかなり浮いていたけれど、優花は嬉しそうだったから報われた。
「で、なに買うんだ?」
隣を歩く優花に尋ねた。優花は慣れた仕草で買い物メモを取り出して読み上げる。
「まずおそばがないでしょ? それから長ネギ。かまぼこ。ついでにお肉とか買っていきたい」
「軽そうでよかったよ」
米など重いものがあれば自動的に自分が持つ羽目になる。まずそれに安心した。そして数馬にはもう一つ気がかりがある。
「でも、優花はそばなんて作ったことあるのか?」
「ないけど……本見たら、簡単そうだった。去年、お母さんを手伝ったし。あ、それに、めんつゆ使うし」
「それなら、味は問題ないな」
そばのゆで過ぎがなければ。その辺は一緒に見ていてやろうと数馬は考えた。
「来年はちゃんと出汁とって作ろうかなー。昆布とか、かつお節とか」
「そこまで本格的にやらなくてもいいよ。めんつゆとか、粉末の出汁で十分おいしいって」
「せっかくだからやってみたいなーって思って」
優花が料理をし始めたのは今年の四月からだった。本格的に二人で住むことが決まってから、優花は優花なりにできることをやろうとしたのだろう。初めて作った料理はチャーハンで、それはそれはひどい代物だった。見た目もひどかったが、味もひどかった。味のないところ、やたらとしょっぱいところ、焦げたところ、なぜか冷たいところ……。優花はものすごく落ち込みながらそれを出してきた。そんな妹を見ていたら健気に思えてきて、数馬は全部食べた。優花も全部食べた。不味いと二人で言いながら、完食した。それからあとは、優花もさすがに学習したらしく、本を見ながら一つ一つ丁寧に作るようになった。今では危なっかしいことはほとんどなく、手際よく作業を進められるようになった。
(お父さんとお母さんが見たら、びっくりするんだろうな)
末っ子で甘ったれだった優花が、料理をしっかりこなすようになるなんて。この成長を、数馬は兄としてよりも親に近い感情で嬉しく思っている。
それから、二人で人ごみの中商店街のお店を回り、必要なものを買ってすぐに帰宅した。家に着いた頃にはもう日が沈み、辺りが暗くなり始めていた。
「じゃあ、作り始めよう」
家について休憩もそこそこに、優花は台所に立った。そば以外のおかずをまずは作り始めるようだ。数馬も手伝おうとしたが、「お兄ちゃんは休んでて大丈夫」と言って追い返された。ちょっと心配だったが、しかたなく休憩しながら優花の様子を観察することにした。
(へえ。また手際よくなってる)
小さい体であちこち動き回っているが、ほとんど無駄がない。小五ながら、もうすでに立派な主婦に見えてきた。
「あ、お兄ちゃん。お姉ちゃん、今日来ないの? 三人分作ったほうがいい?」
お姉ちゃん、とは数馬の彼女の藤波佳代のことで、高校の時からの付き合いだ。数馬は苦笑いしながら首を振った。
「来ないよ。佳代のうちは厳しいんだ。大晦日正月は家族で過ごすっていうのが決まりなんだから」
佳代の父親は厳格な人だ。何回か会ったことがあるが、笑顔など一度も見たことがない。デートするにも門限が厳しくて早く帰らなければならなかったほどだ。近頃、二人とも二十歳を過ぎてようやくその門限が延びてくれた。母親はおおらかな人で、いつもにこやかに数馬を迎えてくれるのだが……。
「ふうん、お兄ちゃん寂しいね。お姉ちゃんに会えなくて」
さらっと優花が言った言葉に、数馬はドキッとした。
「べ、別に平気だって」
「だって、普段だってあんまり会えないでしょ? 学校も違うし。ちゃんと連絡取らないと、お兄ちゃん捨てられちゃうよ」
「メールとか送ってるから、まあ大丈夫だって……」
「もう。付き合い長いからって、油断しちゃダメなんだから。そうやって大丈夫とか言っているときが一番危ないよ」
妹のませた口調にびっくりして、数馬は何も言えなくなってしまった。確かに、佳代とはもう三年付き合っている。友人だった頃も含めれば五年だ。そしてつい最近、高校時代からの友人にも今優花が言ったこととほぼ同じことを言われたばかりだった。
(いつの間に、こんな口きくようになって……)
変なところで再び妹の成長を実感する数馬だった。
特に観ているわけでもない紅白歌合戦の歌をBGMにして、兄妹は年越しそばを食べた。味は母親と同じとまではいかないものの、無難に収まっていて、問題なく食べられた。それから片づけをして、順番に風呂に入り、何ともなしにまたリビングに二人で過ごしていた。
(去年は、俺は友だちと年越しカラオケしていたな)
高校時代の男友達だけで集まって、夜中歌って騒いでいた。本当は佳代と過ごしたかったけれど、佳代の家が(特に父親が)許すはずもなかった。友人同士でばか騒ぎするのも楽しかったから、それはそれで良かったのだが。
今年は、それをすると優花が一人ぼっちになってしまうので、誘いは全部断った。友人たちも事情を分かってくれているので、それ以上何も言わなかった。いろいろ事情に気をまわして最初から誘われないより、誘ってくれただけありがたかった。
(さて、あと三時間で年越しか)
優花をちらりと見た。優花はぼんやりとテレビを見ていた。テレビは相変わらず紅白歌合戦のままだ。知らない演歌歌手がちょうど派手な衣装で歌い始めたところだった。
「優花、眠くないのか?」
「眠くないよ。去年だって、私年越しまで起きてたんだよ」
「へえー。すごいんだな」
感心していると、優花はむっと口を尖らせた。
「私だってもう十歳なんだよ。十二時までくらい、起きてられるんだからね」
子ども扱いされたのが気に入らないらしく、優花は腕を組んでむくれて見せていた。そういうところが子どもっぽいんだと思ったが、口には出さないでおいた。
「でも、ずっと紅白見てるんじゃ飽きて眠くなりそうだけどなあ」
思ったこととは別のことを言ってみた。と、少し優花の表情が暗くなったのに気付いた。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。不安になって様子を見ていると。
「……去年は、お父さんとお母さんと一緒に、ずっとゲームしてたの」
ぽつり、と優花は言葉を落とすようにつぶやくと、そばにあったクッションを抱えて顔をうつむかせてしまった。
「おそば食べたあとね、紅白見ながら、トランプとか、人生ゲームとか、いろいろやったの。そしたら、いつの間にか年越してた……」
そのとき、数馬は初めてわかった。優花がどうして年越しそばを作りたいと言い出したのかを。
(お母さんたちが生きていたときのことを、やりたかったんだ)
去年とは、置かれた状況が全く変わってしまった。甘えられる両親はいない、兄と二人だけの年越し。この一年、兄と二人だけでずっとやってきた。だからこそ、変わらない何かを優花は欲しかったのだろう。せめて、年越しそばだけでも、と。
数馬はしばらく考えてから、優花の隣に座った。
「……トランプ、やるか?」
少しうるんだ瞳で、優花は顔をあげた。数馬は小さく微笑んでうなずいた。
「二人でやると、ババ抜きくらいしかできないけどな」
すると、優花ははにかんだ笑顔を見せてこう言った。
「神経衰弱もできるよ」
トランプだけでは時間が持たなくて、結局オセロや人生ゲームも引っ張り出して全部やった。人生ゲームで優花のコマが結婚のマスに入ったとき、ちょうど新年の時報が鳴った。
「やったー。私のほうが先に結婚ね。あ、もしかしてゲームじゃなくてホントに私のほうが先に結婚しちゃったりして!」
「なっ……。冗談じゃないぞ。そんなわけあるか」
「じゃあ、早くお姉ちゃんにプロポーズしちゃえば?」
優花が目をキラキラさせながらしてきたとんでもない提案に、数馬は思わずしどろもどろになった。
「ま、まだ学生なんだぞ。俺たち」
「えー? だって、学生結婚する人だっているんでしょ?」
「そんなの少数派だ」
「じゃあ、結婚したくないの?」
「それは……」
考えたことがないわけではない。ただ、まだ現実味を帯びたことがないだけだ。でも、優花の中ではおそらく、付き合う即結婚する、という図式ができているのだろう。
(そういう思考回路は、まだ小学生だよなー)
数馬は苦笑いしながら優花の提案をのらりくらりとかわし、適当なところで話をまとめた。兄がはっきりしたことを言わなくてちょっと不満そうにしていた優花だったが、仕方なさそうにうなずいた。
「もう。とにかく、お姉ちゃんを泣かせたら、私が許さないんだからね」
この言葉にはさすがに呆れつつ、一応数馬は頷いて見せた。
(これで結婚まで行かなかったら、優花にすごい怒られそうだな)
そんな不安が一瞬よぎった。とりあえず、佳代にちゃんと新年のあいさつの電話くらいしておかないと。うまくいけば、初詣くらい一緒に行けるかもしれない。すべてはあの父親の許可が出るかどうかにかかっているが。
「よし。さっさとゴールして寝るか」
「うん。負けないからね」
兄妹は再びサイコロを振り始めた。結果は、優花がそのまま一着をキープしてゴールした。人生ゲームの中の優花は、順調そのものの人生だった。
(この先の優花の人生も、そうであってほしいな)
一着でゴールして喜んでいる優花を見て、数馬は思った。これから、両親がいないことでする苦労はまだまだたくさんあるに違いない。自分だって、まだやっと二十歳になったばかりの学生だ。正直、この家を守っていくにしても、優花の保護者としても、不安しかない。それでも、自分でやっていくと決めたのだから、頑張っていかなければならないのだ。
「あ、そうだ。お兄ちゃん」
急に思い立ったように優花がぱっと顔を向けた。そして満面の笑顔で言った。
「今年もよろしくね」
花の咲いたような輝く笑顔。両親の自慢の……兄の自慢の妹だ。少なくともこの笑顔だけは、守ってやるのだ。絶対に。
「よろしくな。優花」
強い誓いを胸に、兄は可愛い妹と共に新しい年を迎えたのであった。