契り
冬はそこまで来ている。
冷たい風が吹き付ける中、ファミアは漆黒に染まる闇の世界に身を投じていた。
陽射しのある昼間とは打って変わって夜は冷え込む。いつもなら二人で夕食を取っている時間だというのにナウザーは帰って来ず、不安に駆られるファミアは、小屋と外を行ったり来たりしてナウザーを待ちわびていた。
昼間あんなことがあったから帰って来ないのかもしれないと、声を荒げた後に深い後悔の色を瞳に宿したナウザーを思い出す。けれどもしそうでなかったらと、ファミアの胸を不安が支配した。竜に何かあったのか、もしかしたらナウザーが思わぬ事態に陥っているのかもしれない。怪我をしていたらどうしよう。もしかして動けない状態なのだろうか。あの人だから心配ない、でも―――と、様々な憶測がファミアの脳裏を駆け巡る。
沸かしていた風呂の湯もすっかり冷えてしまっていた。ファミアは溜息を落とすと寝室へと足を運び、長い息を吐きながら寝台に腰を下ろした。
このまま見捨てられたらどうしようという思いがわき起こる。ナウザーに限ってそれはないと思うが、愛想を尽かされたらと不安しか思い描けなかった。追い出されても行き場がないからではなく、ナウザーと離れるのが嫌だと感じるようになっていた。大きくて威圧感のある、けれど優しい彼を思い浮かべると目じりに涙が滲む。
「ナウザー……」
恋しくて名を呼んでも答えてくれない。ファミアは寝台に顔を伏せ嗚咽を堪えた。
日を跨ぐ時刻になって慎重に小屋の扉が開かれる。侵入したのは大きな黒い影。静まり返った部屋の様子を確認するとそっと扉を閉めた。
怒号を上げいたたまれなくなったナウザーはハウルの元へと逃げ出した。陽の高いうちは捨ておいてくれたハウルだが、陽が沈みあたりが暗くなると鬱陶しそうに尻尾で何度も叩かれる。一人にして不安がらせるなと、血を分けた相手だからだろうか。ハウルはファミアの身を案じ、離れた場所から顔をのぞかせているパウズに至っては、ナウザーに向かって威嚇の音を鳴らす始末。二人の竜に背中を押されようやくたどり着いた我が家だが―――気まずい。きっとファミアの事だ、食事の準備をして自分を待っているに違いないと、そっと中の様子を窺えば、明かりはついているもののそこに目的の人の姿はなかった。
「いないのか?」
まさか愛想をつかして出て行ったのではないかと急速に血の気が引くが、台所にはきちんと食事の用意がされていて一先ずほっとする。だが手を付けられた様子はなく、栄養不足で育ったファミアの体が心配された。あれはきっと竜の血のおかげで生きてこられたに違いない。今更だが、あれだけ痩せているのに貧血もなく、疲れも忘れ元気に動き回れるのを何故不思議に思わなかったのか。ナウザーは緊張しながらファミアを求め寝室の扉を開いた。
寝台の上ではファミアが体を折り曲げて眠っていた。両脚は寝台に垂らし、起きてナウザーを待っていてくれた様子がうかがえ心が温かさに包まれる。同時にファミアの目じりに涙の跡を見つけ、もっと早く帰宅すればよかったと後悔した。夢でも妄想でもない、ここでファミアが、自分の妻が夫の身を案じて待っていてくれたのだ。そう思うと愛しさがとめどなくこみ上げてくる。
「悪かった―――」
竜騎士が抱く特殊な感情を押し付けてよいはずはない。本当に悪かったと、ナウザーが優しくファミアの頭に手で触れる。と同時に、閉じられていた薄い空色の瞳がぱっと開かれた。ナウザーは思わず伸ばした手を引っ込めるが、その手を追うようにファミアは身を起こすと、両腕を広げナウザーの首に縋り付いてきたのだ。
「ナウザーっ!」
「うおっ?!」
思わぬ反応にナウザーは後ろに倒れそうになるが、持ち前の俊敏さと力でファミアを受け止めた。
「よかった、帰ってきてくれないかと―――!」
「あ……ああ。遅くなって悪かった。」
「いいえ、いいえごめんなさい。わたしが悪かったんです。本当にごめんなさい。だから何処にもいかないで。おいて行かないで!」
すがるファミアを前に、どうしてすぐに戻ってこなかったのかとナウザーは更に深く後悔した。ナウザーが戻らないのではと不安でいてくれたのだ。追い出される心配ではなく、ナウザーを求めて心を痛めてくれていた。
こんな風に女に追いすがられた過去は一度もない。竜騎士という花形の職業でそれなりにもてたナウザーは、ここに来るまでは常に恋人と呼べる存在がいた。不誠実にも婚約者がいるというのにだ。だがナウザーの肩書と見た目に寄ってきたその恋人たちも、華やかな印象が濃いくせに異常なずぼらさを見せるナウザーに早々に愛想をつかすと、他の竜騎士へと標的を変えていた。ナウザーも次から次に現れる女性を前に去る者は追わず、一時の快楽に身を投じてきたのだ。たとえ喧嘩をしたり怒らせても宝石一つで許された。
けれどファミアは宝石など一切求めず、ただナウザーの名を呼ぶ。ごめんなさいと、怯えさせたのはナウザーの方だというのに自分に非を見つけて謝罪を口にするのだ。
「悪かった―――」
後悔と申し訳なさ、同時に喜びを感じ、ナウザーはファミアを片腕できつく抱きしめた。左腕がない分より強く。苦しいはずなのにファミアもナウザーに腕を回して自ら距離を縮める。それに後押しされるようにナウザーはファミアを寝台に押し倒すと耳元で苦しそうに宣言した。
「抱くからな。」
応えるようにファミアの腕にじんわりと、けれど確かに力が籠められる。そのままナウザーはしばらくファミアの耳に鼻を寄せていたが、ゆっくりと顔を上げ真上からファミアを至近距離で見下ろした。
空色の瞳が揺れているが不安や恐れを感じてではない。ただ未知の経験に躊躇しているだけだ。ナウザーに都合のよい勝手な解釈だが正解だった。ファミアはじっとナウザーを待っている。最初にファミアに触れたのはナウザーの髭だ。伸ばし放題の髭が邪魔をしファミアにくすぐったい感覚を与えたせいで、ファミアの手が思わずナウザーの背から胸へと回った。
「嫌でも抱くからな。」
「嫌じゃ、ありません。」
覚悟も必要ない。そうなりたいとファミア自身が望んでいた。ナウザーの唯一の手がファミアの髪紐を抜き金色の髪をなでつける。同じようにファミアもナウザーの硬い黒髪を整えるようになでつけた。
二人とも鼓動が早鐘を打っている。つい最近まで見知らぬ者同士であったが、こうなることに何の迷いもない。諦めや妥協ではなく、互いが互いに惹かれ合っているのだ。
恐らく惹かれる強さには違いがあるだろうが、ナウザーはそんなつまらぬ事など考える余裕はとうになくしていた。触れたくて抱きしめたくて、一つになりたくてたまらないのだ。男の性だがそれだけじゃない。これまで妻として送られた娘の誰一人として床を交わしてなどいないのだ。けれどファミアには初めから持って行かれていた。ファミアが欲しかった。
髭に埋もれるようにある唇がファミアの柔らかな唇を捉える。怖がらせないようそっと探れば拙く返され、突き付けられる初心さに大きな体が震えた。
「酷くはしない、大丈夫だ。」
何が大丈夫なのか。けれどファミアはナウザーの言葉だけを信じて全てを受け入れる。
この夜、二人は身も心も夫婦になった。
常の習慣通り空が白む頃ファミアは目を覚ました。目を覚ますと目の前にはナウザーの裸の胸があり、まどろみも何もなく一気に現実に引き戻される。
昨夜は大きな逞しい体に翻弄され、気付けは朝だった。始まりは覚えているが終わりがいつだったのか全く記憶がない。当然ナウザー同様にファミアも裸で抱き寄せられていた。
ナウザーは顔だけではなく、裸の胸にも毛が生えていた。髪を洗い背中を流しても恥ずかしくて裸を見ないように、いつも視線を外していたせいで知らなかった事実だ。とても大きな一線を越えたのだと実感する。グルニスとの婚姻は本当に紙だけの形式上の物だったのだと、ようやく夫婦の何たるかが少しだけ解ったような気がした。
そっと抜け出そうとすると回された腕に力が込められた。
「まだ早い―――」
「でも、もう夜明けです。」
恥ずかしくて完全に部屋を陽が照らす前に服を着たかったが、ファミアの身動きのせいで目覚めたナウザーが引き止める。無理に胸を押すと脚まで回されしっかりと抑え込まれてしまった。
「あ、だめ!」
「―――駄目だと?」
寝ぼけ眼だが、半眼開いた視線は鋭くファミアが息を呑むと大きな体がファミアを抑え込む。こうなると全く身動きができなくなるから厄介だ。
「ご飯の用意をしないと。」
「今日は休みだ。」
「えっ、あっ?!」
休みなんて聞いていないし、休みだろうと何だろうと食事の用意はしなければ。そう訴えようとしたファミアの口が髭だらけのナウザーによって塞がれる。どうして、朝なのにとファミアが混乱している間にナウザーによって抱かれてしまった。
結局二人が寝台を出たのは陽が昇ってから。だが昨夜の料理がそのまま残っていたので何時もとさほど変わらぬと言ってもいい時間である。
起き出して顔を洗ったナウザーは鏡を見ながら髭を触っていた。
「剃るか?」
森に来てより身なりなど全く気にしなくなったナウザーから独り言が漏れるが、剃ろうかと思ったのは身なりの為ではない。昨夜ファミアからくすぐったがられたし、何よりも裸のファミアに触れるのに邪魔だとナウザー自身が感じたからだ。阿呆である。だが結局そんな理由で髭を剃ったとファミアに知られるのが恥ずかしくてやめておいた。食事の席に着くとスープをよそうファミアのうなじに視線が行って外れなかった。知る前はどうにかなったのに、知ったせいで体が疼くのはどうしてか。さっきもしたばかりなのに、今度は別の意味で妻に逃げられるぞと、ナウザーは朝から一人笑えない冗談を頭の中で口走っていた。
「今日は本当にお休みなんですか?」
「あ、ああ。昼過ぎに食料が届くからな。」
「それじゃあわたしは―――」
「悪いが、寝室にでも籠っていてくれるか?」
竜騎士と話をしても大丈夫だが、竜に気付かれると厄介だ。申し訳なさそうに眉を下げるナウザーにファミアはあえて微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あなたの言う通りにするのが一番です。」
「いつも小屋に入ってくるから今回もそうなると思う。さすがに寝室は覗かんだろうが―――嫁をもらったと感付かれるだろうなぁ。」
部屋を見渡しながらナウザーは唸った。
あれほど散らかり放題だった小屋が綺麗に片付いているのだ。感付かれない方がおかしい。いつまでも隠していられないのでこれはしょうがないが、顔を見せない嫁に不信感を抱かれるだろう。ファミアの株を落とすようで申し訳ないと項垂れるナウザーに、そんなことはないとファミアは笑った。
「人嫌いだとでも言って下さい。閉鎖的な村から来たので信憑性もあるんじゃないでしょうか?」
「悪いな本当に。ああそれから一度ハウルの様子を見てくるが、昼までに戻るから心配ない。」
何があってもナウザーは日に一度はハウルの様子を窺うようにしていた。長年の習慣であったし、怪我をして以来あまり動かなくなったハウルが心配でたまらないのだ。竜騎士時代のナウザーがハウルの事ばかりかまっていると、付き合いのある娘らは腹を立てたが、ファミアにはそんな素振りすらない。行ってらっしゃいと今日も笑顔で送り出してくれた。この暮らしは絶対に手放せないと、ナウザーは森に入る前に一度振り返る。すると気付いたファミアが手を振ってくれたので、照れながらナウザーも手を振り返し、ハウルに頼んで栗を拾わせてもらおうかと考えた。