恐れと不安
予定を違え昼過ぎに戻ったナウザーの様子にファミアは眉を顰める。風呂敷には持って行った弁当が手を付けられずに残っていた。
「話がある。」
いつになく神妙な様子に緊張が走った。今朝方パウズが持ってきてくれた栗を日陰で剥いていたファミアは屑を払いナウザーの後に続いて小屋に入る。何があったのかと不安だけが募った。
ナウザーはテーブルを挟んで座るファミアの様子に、眉間の皺をさらに深くする。座るのに何の支障もないのは喜ばしい限りだが、これからを想像すると諸手を上げて喜んでばかりはいられなかった。
怪我した当初は歩くのも困難だったのに、家に戻ってからはいつもと変わらぬ家事をこなした。一晩明ければ痛みはすっかりとれたという。実際に怪我したばかりの患部を見たわけではないが、一晩で癒えてしまうような状態ではかなったはずだ。ナウザーは自分の、竜騎士の家系に生まれ、竜の声を聴く力を持った我が身の特性とファミアの状態を見比べ、とても似通っている、同じだと結論を出さずにはいられなかった。
ハウルもファミアと接触したのは昨日が初めてで間違いなかった。過去誰かに血肉を与えた経験もないし、ファミアの生まれ育った村に降り立った記憶もない。竜騎士の竜として森を出てからはずっと騎士に従い過ごしていた。だが間違いなくファミアはハウルの血を体内に宿しているという。これはあくまでハウルの憶測だが、竜の血肉を受け入れても生きていられる人間が存在し、それがナウザーら竜騎士と呼ばれる者たちの祖先にあたるのだろうと。そしてファミアはそれと同じ状態にあるのだ。
だがそんな事実は語り継がれていない。もしそれが今現在に語られていたらどうなるのか。確実に減少する竜騎士の血筋を保つため、多くの犠牲を強いられる惨劇が起きてしまうのではないかと、それが竜とナウザーが抱く大きな懸念だった。
ファミアを怖がらせるつもりはない、だが話しておかなければならない事実だ。どこでどう漏れるかわからない秘密をファミアは知らずに抱えている。怖い思いや心配をさせたくなかったが、事はファミアの家族にまでかかわるのだ。隠しておけるわけがない。しかしナウザーは不安そうに自分を見つめるファミアになかなか本題を言い出せず、いつまでも不機嫌そうに顔をしかめていた。
「あの……何があったんですか?」
いい加減いたたまれなくなってファミアの方から声をかける。ナウザーはファミアが言葉を探しているときは根気よく待ってくれているが、ファミアは陰鬱な空気に耐えられず、気が付けばナウザーを急かすように声を出してしまっていた。
「お前は、自分が竜と会話できる状態を不思議に感じなかったか?」
誰もかれもが竜の声を聴けるわけではない。ナウザーの父は竜騎士だったが、声の聴けない兄と弟にはその資格がなかった。
「そうですね、確かに。どうしてわたしには竜の声が聞こえたのでしょう?」
訊ねられ初めて疑問に思うあたり、ファミアの中では自然だったということだ。ナウザーは大きく息を吐いて背を椅子に預けた。
「竜の声を聴けるのは竜騎士の家系に生まれる男子だけ、それも血を引いていれば必ず聴けるというものではない。ファミア、お前の家系に竜騎士はいるか?」
いないと解っていてあえて尋ねれば、ファミアは頭を横に振った。
「竜騎士になった人はいませんけど、もしかしたらどこかで血が混ざっているのかもしれません。」
もしそうなら村はきっと大騒ぎになるだろう。村から竜騎士を出せる可能性があるのだ。特に男の子にとっては夢の職業。もしかしたら夢で終わらないかもしれないと、俄かに顔色をよくしたファミアに、ナウザーは黙って首を振った。
「勿体ぶらずにいうとな。お前はハウルの血を受けている。」
「ハウルって、あなたの竜?」
ファミアは昨日見た神々しいまでの美しさと威厳を放つ漆黒に輝く竜を頭に浮かべるが、その血を受けているという意味が分からず黙って首を捻った。
「ハウルが言うには、お前はハウルの血を飲んで竜と意思の疎通がはかれるようになったと。パウズがお前を慕うのは、お前にハウルと同じ血が流れているかららしい。ハウルはパウズの母親で、パウズはお前に母親を重ねているんだ。」
「そんなこと言われてもわたし―――竜の血なんて飲んだりしてません!」
竜を傷つけてなどいないと声を上げるファミアに、解っているとナウザーは頷いた。
「お前がここに来るまでに見た竜は空を飛んでいたのが一度きりだ。そもそもハウル自身がお前に血を与えた記憶がない。お前を疑っているんじゃない。何処でどうやってハウルの血がお前の体内に取り込まれたのかは分からないが、入っているのは事実なんだ。」
そうなのかと、ファミアは首を捻りながら喉元を抑える。
竜の血に限らず血を飲むといった行為は恐ろしい印象を与えた。けれどファミアはかつて竜どころか家畜の血すら啜ったことはない。この件においてファミアが竜の、ハウルの血を飲んでなどいないとナウザーが信じてくれるのならそれでよかった。
「あの……それで何か大きな問題が?」
ファミアにはどうしてナウザーがこんなにも難しい顔をしているのか分からない。ファミアに竜の声が聞こえたからといっても竜騎士は男しかなれないというし、竜守りの役目を担う必要があるならどの道ここに住んでいる。竜守りの妻としてできることは何でもするつもりだ。おずおずと様子を窺うように訊ねれば、ナウザーはさらに難しそうに顔を顰め首を振った。
「人にとって竜の血肉は毒にしかならないと思われていたし、実際毒薬として保管されているものもある。だが、その血肉を使って竜の血を引く騎士を生産できるとなるとどうなるか。パシェド村の人間が真っ先に実験されるぞ。」
ファミアは息をのみ言葉を失った。
人にとって毒となる竜の血肉。どこでどう口にしたかしれないが、ハウルによるとファミアは間違いなくそれを口にしたのだ。血を体内に取り入れ生きている、しかも女でありながら竜と対話ができるとなると、竜騎士を生み出すために竜からは血が採取され、それを飲まされる人間が現れる。その標的として真っ先に上がるのはファミアの家族、それから同じ村に生まれ育った村人たちだろう。パシェド村は閉鎖的で村内での婚姻を繰り返し、元をたどれば誰もかれもが血の繋がりがある。ファミアの様になれる確率が高いと考えられてもおかしくないし、たとえ失敗して村人全員が死んだとしても、辺境の小さな村一つ無くなったとて困りはしない。非道と罵られるのを恐れるなら隠蔽するにもうってつけだ。
「わたしっ……聞こ、聞こえません!」
怯えるファミアにナウザーは頷く。
「ここにいる限り漏れる可能性はないが、十日に一度物資をもって竜が飛来する。その時は悪いが隠れていてくれないか。お前は嘘が苦手そうだ。」
小屋へと通じる道は細く荷馬車は入れない。なのにどうして新鮮な食材が豊富なのかという疑問はこれで溶けた。竜騎士が竜に乗り届けてくれているのだ。小屋の周りが開けているのも竜が降りやすいように。
竜騎士を乗せてやってきた竜とファミアが会話をすれば瞬く間に竜騎士にも判明してしまう。竜騎士の素質は男子にだけ受け継がれる特性を、女であるファミアが持っていてたらすぐに興味を惹かれるだろう。
「知られたら報告されるんですか?」
「んな訳があるかっ!!」
ドンと机が叩かれ怒号が飛んだ。驚いたファミアはびくりと椅子から飛び上がる。
「俺たちは竜を敬愛し命より大事にしている。だからこうなったんだ!」
声を荒げるナウザーは袖だけの左腕を掴む。ハウルを死なせないために自ら犠牲にした左腕。失っても後悔なんてしていない。ハウルが大空を飛ぶのを望むならこの命を差し出しても悔いはないのだ。それほど大切に思う竜から血を採取するなんて行為をナウザーが、竜騎士が許すはずがない。そう強く力を籠め訴えナウザーははっと我に返る。目の前ではファミアが蒼白になっていた。
「あ、いや……そのっ―――」
つい興奮したが、けしてファミアがナウザーを疑ったわけではない。ただ報告するのかと、生まれ育った村を案じて聞いたに過ぎないのだ。竜騎士についてファミアは何も知らない。けして彼らの竜に対する愛情を疑っているのではないのに、はき違え興奮したナウザーは頭を掻きむしった。
「ごめんなさい、わたし―――そんなつもりじゃ……」
「ああ、解ってる。俺が悪かった。」
怯えさせたと、蒼白になったまま瞳を揺らすファミアを前にナウザーは肩を落とす。
「竜や騎士らは秘密を知ったとて漏らしたりはしない。だが興味は持たれる。いつどこで誰が聞いているかもしれないんだ。秘密ってもんはどっからか漏れるに決まっている。だからなるだけ知られない方があいつらの為にもなるんだよ。」
竜も騎士もファミアの秘密を知っても漏らしたりはしないが、竜騎士同士では話題に上るだろう。それを誰かに聞かれないとも限らないし、ファミアに興味を持った奴らが竜に乗って度々やってくるようになると国もおかしく思うに決まっている。一番危険なのは業突張りのシグ婆だ。これまでは嫁を紹介するために森へ足を運んでいたが、その仕事が終了したとしても二度とここへやってこない保証はない。あの婆は金の為なら何でもやるのだ。金に通じるものなら驚くほど鼻が利く。ファミアと会話し何かを感じ取られては厄介だった。
唯一ともいえる外界との繋がり。ハウルと話し合った時点よりそれを禁じることに、ナウザーは後ろめたさを感じていた。竜と心を通わせる者たち、その矜持にかけ秘密の露見はない。だが森はともかく、竜騎士らが住まうのは人の大勢集まる場所だ。そこには自身の欲の為に常に目を光らせている輩も多い。もし知られたらどうなるか。竜が傷つけられる心配もあるが、ナウザーは同時にファミアを奪われる恐怖を感じていた。
それなのにと、蒼白になりぎゅっと手を握りしめているファミアを見つめる。声を荒げ怯えさせてどうするのか。
「俺は、竜と同じでお前も大事だ。」
繕うような文句だが言っておきたかった。だがこの言葉が瞳を揺らすファミアに届いた様子はない。自分にあきれたナウザーは首を振ってゆっくりと椅子から立ち上がる。
「何処に?」
慌てたファミアが追ったが、ナウザーが振り返るとすぐに動きを止めた。驚かせないようゆっくりと手を伸ばし、置いたままにしていた風呂敷を取るとすぐに背を向ける。
「もう一度ハウルと話してくる。」
それだけ言い残すとナウザーは小屋を出て行ってしまった。後ろ手に閉じられた扉に不安を感じてすぐに後を追ったが、ナウザーの背が森に消える瞬間をとらえただけに終わる。ファミアはナウザーが怒ったのは自分のせいだと深く沈んでいた。
怒号を上げたナウザーは、熊を思わせる大きな体に慣れたファミアにも恐れを抱かせた。信用されていないと勘違いして怒ったのだと、ファミアは自分の発した言葉を後悔する。
竜の声を聴き竜騎士となり、そして竜守りへ。幼少期よりナウザーの側には常に竜がいた。自分の腕を与えられる程の思いとはどれ程のものか。命がかかっているとしても即決断できる強さに驚かされる。そんな心根を持つナウザーがファミアを売るなんてことはあり得ない。分かってはいるが、他の竜騎士をファミアは知らないのだ。だがそれを理由に許してくれとは言えなかった。ナウザーと同じく竜と共に暮らす彼の仲間を疑ったのはファミアだ。怒られてもしょうがない。怒らせたのはファミアなのだから。
ナウザーのいなくなった小屋を出て、途中で中断していた栗剥きを始める。今朝パウズが持ってきてくれた栗だ。あの時は嬉しくて、暖かさに涙を流したというのに。
今ファミアの頬を伝う涙はとても冷たかった。寂しくて、けれど原因は自分だ。涙をぬぐい栗剥きを再開する。夕方までに部屋を整え食事と風呂の支度を済ませてナウザーを待ったが、日が暮れても夫は帰っては来なかった。