みつぎもの
竜守りでも、まして竜騎士でもないファミアに竜の声が届いたのには驚いたが、真っ直ぐで純粋な好意を向けられ、認めてもらえたのだと思うとファミアはとても嬉しかった。
竜守りの妻はこの森に住まうのを認められているから大丈夫だ、と話してくれたナウザーを疑っていたわけではない。けれどファミア自身を認めてもらっているわけではないのでやはり不安があった。
呼び出された理由が雌への興味といわれてもピンとこず、だからこそ頭の中に直接響いた幼竜の言葉が本当に嬉しくて。けれど初めての経験と合わせ心躍らせたせいで罰があたったのか。背中に乗せてやるという幼竜の感情を受けとりはしたが、ファミアにはどうしたらいいのか全く分からず。ファミアがナウザーに了承を取る前に幼竜は首を伸ばし、突然の行動についていけなかったファミアは竜の首を通り過ぎて一回転し地面に落下してしまった。
そのせいで右の臀部を強打し、痛みで上手く歩けない状態だ。抱えて戻ると言ってくれたナウザーの提案をファミアは遠慮し、唯一ある右腕を杖替わりに借りて自分の足で小屋に戻った。
一方ナウザーは、自分が目を放したせいでファミアに怪我をさせてしまったと己を責めていた。運よく骨は折れていなかったが、打ち付けた尻を痛がるファミアを抱いて運んでやれないのも悔やまれる。無駄な肉など全くついていない細く小さな体だ。当然腕一つでも軽々抱えていけたが、何しろ臀部を打っているので、一つしかない腕に抱えればその尻が当たってしまう。荷物のように抱えるのも憚られ、腕を貸し時間をかけて小屋へと戻ってきた。
パウズに悪気がなかったのは解っている。ただ喜び興奮し過ぎたパウズはファミアを背に乗せ、喜んで貰いたかっただけなのだ。けれどファミアは竜の背に乗るための手順を知らず、そのままパウズの背を通り越えてしまった。自分のしたことに驚いたパウズは、謝罪を促すナウザーを前に我に返ると一目散に逃げだしてしまったが、恐らく今頃は深く反省し拗ねたように巣に籠りきりになっている頃だろう。ナウザーしか相手にしていなかったせいでパウズは人の脆さを知らないままだ。パウズには後できっちり謝罪させ、ファミアへの接し方を教えるとしても、やはり今回の事故はナウザーの不手際だ。ナウザーは痛みを堪え台所に立つファミアの後ろに項垂れながら足を進めた。
「何か手伝えることはないか?」
問いかけに野菜を切っていたファミアが首だけで振り返りそっと頭を横に振る。
「大丈夫です、ナウザーさんは座っていてください。」
「だが―――」
口ごもるナウザーを前にファミアは微笑みを浮かべた。
「座ると痛むので立っている方が楽なんです。でもどうしてもとおっしゃるなら風呂を沸かしてくれますか。水は朝のうちに溜めて薪の準備も済ませていますから。」
解ったとナウザーは請け負い頷く。一日くらい風呂など入らずとも平気だが、地面に転げたファミアは汚れを落としたいはずだ。きっとナウザーが風呂など入らなくてもいいと言っても、ファミアの事だ。自ら沸かすに決まっている。それなら手伝ってしまう方が賢明だと、ナウザーは外に向かいかけて足を止めた。
「俺のことはナウザーでいいからな。」
「えっ、でも……」
「なんなら俺もファミアさんって呼んでやろうか?」
髭だらけで表情のない顔で問えばファミアは大きく頭を振った。いつまでもさん付けで呼ばれるのは他人行儀だ。試用期間ともいえる七日は終わり。今日からは夫婦だから追い出される心配など本当にする必要はないのだと解ってほしい。と、考えながら薪に火をつけたところで、男としては仕方のない疚しい思いがナウザーの脳裏に浮かぶ。
「まぁ、今夜は無理だな。」
怪我をしたファミアを無理やり組み敷くほど鬼畜ではない。残念ではあるが我慢だと、怖い顔をしながら風呂を沸かした。
食事の時になってファミアが椅子に座れない事態に陥る。これまでも立ったままだったが本当に痛みで座れないのだと知りナウザーは情けなく眉を下げた。
「俺の上に座るか?」
邪な考えなどまるでなく問えば、ファミアは驚いたが当然首を横に振る。
「行儀が悪いんですけど、靴を脱いでも?」
「ああ、何でもいいぞ?」
何をするんだと様子を窺えば、左の靴だけを脱いで膝を曲げ、痛くない方の尻だけを乗せて体重をかけると肘をテーブルに付いた。どうやら痛む尻を椅子から浮かせて食事をとるらしい。行儀の悪さを気にしたが、ナウザーからすると全くどうでもいい事だ。この十年、幼少期より仕込まれたテーブルマナーなど守った記憶は全くないのだから。
この日ファミアは風呂沸かし以外の家事をすべてきちんとやり通した。どうせ座ると辛いのだ、立っているならやってしまおうという考えで動いていたが、ナウザーからはとても心配されてこそばゆく感じた。大きくて病知らず、屈強な彼なら怪我もなかなかしないのかもしれない。やせ細ったファミアが尻を打っただけで死んでしまうとは思わないにしても、同じ程度には感じてしまっているのではないだろうか。結構丈夫なのになと思いながら、それでも心配される心地良さをファミアは味わった。
休む時分になり何度目かの謝罪をナウザーが口にする。パウズに悪気がないのは解っていたので気にしていないと、やはり同じ答えを返した。
寝台に上がり痛む右を上にして横向きになると、必然的にナウザーと向かい合わせで眠ることになった。恥ずかしいと感じるが恥ずかしがってばかりではいけない。ナウザーの言った期限は過ぎたし、今度こそ妻になるのだという気概もあった。けれどナウザーは大きな掌でファミアの頭を一撫でするとすぐに仰向けになる。
「あの……ナウザーさん。ナウザー?」
返事がないので言い直せば、ぎろりと漆黒の瞳だけがファミアに向く。空色の瞳を捉え、ファミアの言いたいことを察してくれたのか。太い右腕がファミアの首の下に回され引き寄せられた。
髭だらけの顔でこめかみに唇を落とされる。ぎゅっと瞼を閉じ体を固くしたファミアの額がナウザーの胸に押し付けられた。
「今夜は休め。」
「あの、でもっ!」
顔を上げようとするファミアの頭をナウザーは力で己の胸に留める。
「もう……あまり痛みません。」
「そんだけ痛々しいくせして嘘をつくな。申し出は有難いが、ここでやったら壊してしまいそうなんでやめとく。どうせ先は長い、一生夫婦でいるんだろ? 傷が癒えるまでは待つさ。」
回された一本だけの腕が労うようにファミアの背中をたたく。背中からは優しさが、押し付けられた胸からは同じ石鹸の匂いが漂い、ファミアは心に広がる温もりを感じた。
ファミアは自由な両腕ですがるようにナウザーの服を掴む。腕を回してナウザーに抱き付くのは恥じらいが邪魔した。けれどこの恥じらいが今夜はナウザーの救いとなる。腕を回されていたら理性が決壊したかもしれないからだ。
翌朝いつもの時間にファミアが目を覚ますと目の前にナウザーの硬い胸板があった。眠りに落ちた時と同じ体勢で、ナウザーの腕を枕代わりにしたまま眠ってしまったようだ。ナウザーの腕を痺れさせてしまったのではと案じ、起こしてしまわぬようそっと様子を窺えば、いつもはまだ眠っているはずのナウザーはすでに目を開いていた。
「あ、わたし―――」
起きる時刻を間違えただろうかと慌てるファミアにナウザーは緩く微笑む。
「おはよう。」
「おはようございます。」
「ちょっと様子を見てくるからお前はここにいろ。」
ナウザーは腕を抜くとファミアを超えて寝台を降りる。その動きに合わせ体を起こしたファミアは、寝室を出て行くナウザーを黙って見送った。
何かあったのだろうかと不安に感じながら、言いつけ通り寝台の上で黙って待つ。昨日あれほど痛んだ臀部は普通に座ってもほとんど痛みを感じない位に回復していた。
ファミアを残して寝台を後にしたナウザーは迷いなく外へ通じる小屋の扉を開く。そこで見たものに思わず苦笑いを漏らすと、そのまま無言でファミアの待つ寝室へと戻って声をかけた。
「ちょっといいか?」
「はい。」
手招きされたファミアは寝台を降りてナウザーを追う。途中で先にと促され外へと続く部屋へ入り、目の前の光景に驚いて一瞬息が止まった。
外へと通じる玄関扉が開かれ、そこから大きな頭が、頭だけが室内に侵入していた。人とは違う竜の頭部。縦長の瞳孔がファミアを捉えると更に首が伸ばされたが入り口で肩をつっかえさせ、仕方なくといった感じで竜は頭を抜いた。
「パウズ?」
ファミアが竜を追うとパウズは一歩後退し二本足で立ってファミアを見下ろしていた。爬虫類を思わせる顔立ちだが、どことなくしゅんとして項垂れている。前足にあたる三本の鉤爪には毬に包まれた栗が一つづつ、潰してしまわぬよう細心の注意をもって握られていた。その毬栗がファミアの目の前にぬっと差し出される。
「えっと、わたしにくれるんですか?」
昨日の様に声は届いてこなかったが、動作からそうではないかと感じたファミアは両手を広げて前に出し、パウズはそっとファミアの掌に二つの毬栗を乗せた。栗の毬がちくりと掌を刺す。
「どうもありがとうございます。」
礼を述べパウズを見上げると、大きな頭が上を見て、下を見て、左右を見て。それから一度だけファミアに視線を合わせると、体格に似合わぬ俊敏さで回れ右をして一目散に森へと消えてしまった。残されたファミアは毬栗を手にしたまま瞳を瞬かせる。弾けたばかりの毬には美味しそうな栗がいっぱい詰まっていた。
「謝罪のつもりなんだろう。」
「なんだか、人間臭いですね。」
無言の竜からは後悔と照れと居心地の悪さ。それから温もりがとても深く感じられ、ファミアはパウズが逃げるように去って行った森をじっと見つめ続けた。
深く雄大な竜の住まう森。竜守りが守る森は人がいなくてとても寂しいように感じるが、けれどそうではなかったと、ファミアは遠い村に残してきた兄に心で語りかけた。妹を案じつつ貧しさゆえに仕方なく送り出した兄に、ここはとても愛情深い場所だと教えてやりたい。きっとファミアを行かせた我が身を心の内で責めているに違いないのだ。
ぽたり、ぽたりとファミアの頬を涙が伝う。驚いたナウザーは慌て、違うのだとファミアは首を振って泣き笑いをみせた。
「ここはとても暖かいところです。」
急に泣き出したファミアを案じるナウザーが不意にパウズと重なった。二人とも優しいと感じるたび、次々にあふれる涙が頬を伝う。涙を流しながら笑っているファミアを前にナウザーは、どうしたものかと思案しつつ、小さな掌に乗ったままの毬栗を受け取ってファミアを室内へと促した。
後日ナウザーはパウズに、あの時なぜ毬栗を持ってきたのかと問うた。するとパウズは、雌の機嫌を損ねた時のナウザーは、雌の気に入る品物を持ってお宅訪問をしていたと聞いたからだと答える。ナウザーは渋い顔でハウルを睨んだが、ハウルは欠伸をして地面に喉を押し付けていた。