妻の謎
七日という日数をこれほど長く感じたことはない。ナウザーは日々眠れぬ夜を過ごしていた。
午前中はまだいい。竜たちの様子を窺いつつ距離を詰め信頼を勝ち取る努力を惜しまなかったが、昼になりファミアが持たせてくれる弁当を食べた後は寝不足がたたりどうしても昼寝をしてしまうのだ。なぜ夜眠れないのかなんて隠しても心で会話する竜には筒抜けでわかってしまう。
『おぬしが雌に捕われるのは初めてではないか。何処が特別なのだ?』
「さあな、俺にもよくわからん。」
ファミアの境遇を可哀想には思うが、側に置きたいという気持ちは同情からくるものではない。顔でもないが、まぁ正直見た目も多少は含まれるがそれ程重要でもなく。ただ一緒にいて邪魔にならないし、煩くもなく飯も美味いときている。気遣いも出来て働き者だ。妻にするにはうってつけの娘だが、やはりそれが決定打でもなかった。
一日、また一日と過ぎるたび早くファミアに触れたくてたまらなくなる。久し振りの女だからだろうかと考えるが、それなら遠慮する必要もない。けれどファミアの過去を知り大事にしてやりたいと思うのだ。そんなナウザーを長い付き合いの竜は喉を鳴らして笑う。むっとするが馬鹿にしているのではなく微笑ましく感じてくれていると解っているので、睡魔に襲われると同時にナウザーは遠慮なくハウルの腹に頭を乗せて寝転がった。
『わしが人ならな、おぬしの子を産んでやってもいいと思っていたんだが。その必要もなくなったようだ』
「いくら俺でも竜を相手には流石にできんぞ?」
『だから人であったらとの仮定だ。その雌に産んでもらえ』
「さて、産んでくれるかなぁ。」
産ませることは可能だがそれをファミアが望んでくれるかどうかだ。どのみち夫婦になったらやることはやるが、ファミアがナウザーと同じ気持ちでいてくれないのは十分に分かっている。それでもまぁ期限が来たら抱くのだろうがと、若造でもないのに己の余裕のなさに悪態をついた。
『若造だろうて』
「俺は立派な成人だ。三百年生きてるお前の寿命と同じに考えてくれるな。」
竜の寿命は長く、病や怪我を負わない限り四百年は軽く生きる。十年前の戦で重傷を負ったハウルは飛ぶのも億劫なほど弱り、今では動くのも稀で同じ場所で寝てばかりいるが、それでもこの先ナウザーよりも長く生きるのは確実だ。
ナウザーが冷んやりとしたハウルに体を預けていると、不意に他の竜の気配を感じ目を開けた。すると森でも比較的若い子供の竜が、大木に隠れきれていない体を隠してこちらの様子を窺っている。
「パウズか―――何か用か?」
動くと怯えるので寝たまま問えば、パウズと呼ばれた竜は身を翻して森へ消えた。いつもの事だったが何故か今回はまたすぐに舞い戻ってくると、大木の後ろで隠れるようにしてナウザーの様子を窺っている。
パウズはハウルの息子で五十年ほど生きる竜だが、人の年に換算すればまだ十三歳程度の少年だ。将来を見据え竜騎士の竜にと目をつけているせいか、なかなかナウザーに寄ってきてくれない竜だったのだが。今日はいったいどうしたんだろうと黙って様子を窺っていると、長い首をぬっと出して縦向きの細長い瞳孔をナウザーに向けた。
『雌がきてる』
ナウザーがこの森に来てパウズを知ってから初めて声をかけられたが、意味が理解できずにナウザーは首を捻った。するとパウズはナウザーと同じように首を捻る。
『雌がきてる。お前は雄だ。あの雌がどんなか見たい』
「ファミアの事か。彼女に会ってみたいのか?」
人の気配に敏感な竜だ、どの竜もファミアが森に居ついていると察しているはずだが、こうやって興味を持たれるのは初めてではないか。ナウザーが惹かれるように竜にも何かが感じられるのだろうかと思っていると、ハウルが笑いを押し殺し揺れた。
『雌を見てみたいらしい』
ハウルがパウズの希望を代弁する。人への興味を持たない竜が大半の中、やはりパウズは竜騎士の乗る竜になる素質を持っているとナウザーの心は踊った。
「立ち入りを許してくれるなら、彼女を連れてこよう。」
『雌、めすか? お前とどう違う』
「それは難しい質問だな。」
成人した竜は雄より雌の方が必ず大きくなるが、人間では必ずといった男女の現象ではない。けれどナウザーとファミアの二人に限れば、大きさの点でいえば竜と変わらない。人は体型的に大きな違いがあるが、竜は人の男女を見た目で区別できる能力がなかった。
興奮したのかパウズは同じ場所でぐるぐる回り、長く太い尻尾で木々をはたいて葉を鳴らしながら森の奥へと消えて行く。反対の言葉もなく浮かれた様子で消えたところを見ると、ファミアが竜の領域に入るのを了承したのだろう。ハウルも何も言わないところを見ると他の竜からも文句は出るまい。
思いがけないことだったが、パウズがファミアに興味を持ってくれたおかげで交流が持てた。ファミアを連れてきたらパウズは再び顔を見せるのだろう。
「ハウル、いいか?」
森は竜のものだがこの一帯はハウルの縄張りに等しい。
『幼竜は敏感だからの。あれが何に惹かれるのか知れぬが、わしもおぬしを捉えた雌をみてみたい』
それならと、ナウザーは早速ファミアを誘ってみることにしたのだが。帰宅し食事の席で話を持ち掛けると、ファミアの瞳に戸惑いの色が浮かんだ。
まぁ当然かと、ナウザーは食事の手を止めずに話を続ける。
「怖がるなよ、別にお前を取って喰おうって訳じゃないんだ。まだ子供の竜でな、人間の雌というものに興味をもったみたいなんだ。」
「いえ、あの……」
食べ続けるナウザーと違い、ファミアは食事の手を止め膝の上に両手をそろえて姿勢を正した。
「怖いというのではなくて、竜は神の御使いと呼ばれる神聖なものだと聞いたことがあります。竜に触れられるのは竜騎士となった男の人だけだって。だからわたしのような人間が近づいていいのかと不安で。」
「確かにそうだが、向こうが会いたいって言ってるんだ。気にするな。」
「そう言いますけど、ナウザーさんは竜に慣れているから……」
ナウザーはファミアが見せる態度にようやく食事の手を止めた。
いつもナウザーに対して拒絶の色を見せたことなどなかったのだがいったいどうしたのか。ファミアの真意を探ろうとしてじっと見つめると、さっと視線を外して俯いてしまう。
「何が不安だ?」
竜を知らない人間が初めて竜を目の当たりにすると恐れをなすのが普通の反応。けれどファミアは竜に会うのが怖いのではないという。竜を恐れていないわけではないのだろうが、ナウザーが誘ったことで恐怖の対象としての心配はしていないのだろう。信頼されているようで嬉しいが、では何が問題だと探れば、ファミアは唇をかんでからようやく顔を上げた。
「森から―――ここから出て行けと言われるんじゃないかと。」
ナウザーがいてもいいと言ってくれても、竜から拒絶されてはこの森では暮らせまい。追い出される懸念に怯えるファミアに、ナウザーは馬鹿な心配だと喉の奥で笑った。
「追い出されるわけがあるか。そもそも竜が人間に興味を持つなんて珍しいんだ。俺の嫁だから興味を持たれたのかも知れんが、相手の竜は本当にまだ子供だ。パウズというんだがな、そのパウズに出て行けと言われたとしてもその必要は全くない。竜守りの妻はここに住まう権利を竜たちにも認められているんだからな。」
大丈夫だと笑うナウザーからファミアはそっと視線を外す。明日はファミアがここに来てから七日目、本当に竜守りの妻となる日なのだ。怖いとか嫌だとかはない。多少の不安はあるが、ナウザーはファミアにとって良き夫となってくれるだろう。会話の中で明日だと暗に確認を取られた気分に陥り、ファミアは再び俯いてしまった。そんなファミアにナウザーは温い眼差しを向ける。恥ずかしがっているのだと解ったからだ。
この夜ナウザーは久しぶりにぐっすりと眠れた。ファミアに拒絶されていないと解ったのが大きな要因だ。恥ずかしそうに俯いたファミアのしぐさ一つで心が満たされる……なんてお安いのだろうと年を感じるが、長く一人だった後遺症だと己に言い聞かせた。
翌日ファミアは黙ってナウザーの後を追う。森に入って初めてのお出かけだ。森の外に出る訳ではないが、許されていなかった場所への外出にファミアの心も軽く、良い気分転換になったのではとナウザーも髭だらけの頬を緩めた。
昨日と同じ場所を目指すナウザーの後ろで、茶色になった食べごろの毬栗を見つけたファミアが腰を折り手を伸ばす。それを大きく太いナウザーの手が拒んだ。
「悪いが採取は禁じられている。森の食いもんは竜の物だ。」
「竜が栗を?」
「肉も食うが基本的に菜食だ。竜の許しがあれば狩猟もできるが、俺がいないときに勝手に手を出さない方がいい。襲われはしないだろうが不快な印象を与えてしまうからな。」
自分のものを勝手に奪う者がいたら確かにそうだと、ファミアは素直に頷いて立ち上がった。
高く生い茂る木々の間を迷いなく進むナウザーを追いかける。ここでナウザーに見捨てられたら間違いなく遭難すると負の想像ばかりしていると、鬱蒼と生い茂るばかりだった森に光が宿った。大木が生い茂るが適度に場所が開けており、きらきらとした木漏れ日が暖かく舞い降りる。その先に大きなものをみつけ、ファミアは言葉を無くし息を飲み込んだ。
竜だ。
木漏れ日の中で漆黒の鱗を輝かせる、まるで宝石のように美しい竜。少女の頃にみた大空を飛ぶ黒い影の正体はただの塊ではなく、とても美しくて言葉を失うほど強烈な印象を与える。その地面に横たわり首をもたげる竜の目は鋭く、縦長の瞳孔が巨大な爬虫類を思わせ恐ろしさを抱かせるが実際に恐怖は湧かない。輝く鱗をまとう大岩の如き巨体は貫禄があり、その佇まいは神々しさを感じさせた。太い後ろ足に比べ、前足は短いうえに細くて三本の指しかない。天空を舞わないときは二本足で地を這うのだろう。背中の高い位置から二枚の大きな羽が生えており、いくつかに折りたたまれ背中に鎮座している。
神の御使いとはよく言ったものだが、これは神を守る聖獣ではないかと、ファミアは少ない知識の中で言葉を探し感嘆していた。そこへ森が震え、新たな竜が顔を出す。
鎮座する竜とは異なり体の大きさはナウザーよりも一回り大きな程度だ。予想通り二本足で歩いており、背中の羽はまだ小さい。この竜が教えてもらったパウズだろうかとファミアが言葉を失っていると、パウズは一気に距離を縮めファミアの目の前で急停止した。
『これが雌、ナウザーとどこが違う』
「あっ、えっと……!」
くんくんと鼻を寄せられファミアの体は後ろへと押された。がっつくパウズの首をナウザーが捉え引き剥がす。
「挨拶もしないで何やってんだ!」
子供の竜、しかもか弱い人間の女にどう接すべきかなど学んでいない。ファミアを怖がらせてはいけないと間に入ったが、接触を受け後退したファミアはナウザーの予想に反し、多少驚いてはいるようだがまったく竜を恐れてはいなかった。パウズの方も嬉しすぎて興奮を隠せず、ナウザーに首を捕われているというのに嫌がる素振りもない。
『雌、雌を確認したかった。おまえ雌か』
興奮したパウズが声を上げると、ファミアは瞳を輝かせ笑みを浮かべた。
「はい、雌で名前はファミアです。お招きありがとうございます。」
その言葉にハウルは寝そべるばかりの上半身を起こし、驚きで目を見開いたナウザーはパウズの首を解放してしまう。
何故―――と、パウズの言葉に的確な答えを返したファミアに両者が驚きの視線を向けていた。
『雌、ハウルと同じ匂い。俺の母親だ』
興奮するパウズは羽をばたつかせ巨体を揺するが、ファミアは恐れることなく笑顔でそれを見ている。その様子をいったい何故とナウザーは驚愕で言葉を失っていた。
『この雌、どうやらわしの血を受けておるぞ』
「まさか!」
ナウザーだけに直接語りかけられた声に、ありえないとナウザーは声を上げる。どうしたのかとファミアの視線が移り、聞かれたくなくてナウザーはハウルのすぐそばに寄った。
「どういう事だ?」
『幼竜は敏感だ。わしと同じ匂いにつられてお前の雌に興味を持ったのだろう。あれがわしと同じ匂いというなら間違いない。わしの血をあれが飲んだのだ』
ありえないとナウザーはまたもや言葉を失う。
竜にとって人の血肉は万病の薬だが、人が竜の血肉を口にすれば猛毒の役目を果たし命を失う。だがファミアは生きてこの場所にいるのだ。そもそもいったいどこでどうやって竜の、ハウルの血をファミアが口にできたのか。ナウザーもハウルもこの森でファミアに初めて出会ったが、その間にファミアがハウルから血を受ける機会など一度もなかったのだ。ナウザーの内に疑問が次々と湧き起こる。同時に不安と懸念も。いったいどうなってるんだと、垣間見てしまったパウズとファミアのやり取りがただの偶然ではないかという希望を抱いた。だがしかし、パウズは初対面の人間に会えて嬉しそうに、本来なら有り得ない反応をみせているのだ。ファミアに母竜の匂いを感じ、新たなもう一人の母親として認識しているのか。ハウルにじゃれる時のような興奮と無邪気さを開放させている。
不意にパウズが首を下げファミアの足の間に顔を突っ込んだ。ナウザーが「あっ」と声を上げた時すでに遅く、ファミアの細く小さな体が竜の首を越え反対側に落下する。やばいと感じ走ったが間に合わず、ファミアは硬い土の上で体をくの字に丸めていた。
「大丈夫か?!」
駆け寄ったナウザーはファミアに怪我がないかを確認する。ファミアは痛みに呻いたがナウザーの手を借り体を起こして臀部を抑えた。
「痛い……痛いけど、大丈夫です。」
空色の瞳に涙をにじませているが平気だと訴える。ナウザーはそんなファミアの体に遠慮も何もなく触れ、折れた個所はないか確認した。初めて触れるファミアは見た目以上に細く、けれど柔らかくて。ナウザーの知る女たちのように、腰にコルセットなどしていないのだと思い至り慌てて手を引っ込めた。
「どこも折れてはいないな。打ったのは尻だけか―――」
ほっとして傍らの竜を見上げると、ナウザーに睨まれたパウズは一目散に逃げ出した。森の奥へ消えて行く黒い影にナウザーは大きなため息を落とす。
「あのっ、あの子が悪い訳じゃないんです。」
幼竜を庇うファミアに、ああここにも大きな問題があったのだとナウザーは頭を抱え、ハウルは縦長の瞳孔を広げてじっとファミアを観察していた。




