竜が求婚
書籍化お礼の番外編・その1です。
お楽しみいただければ幸いです。
竜の住まう森であっても、人の気配漂う丸太小屋周辺で竜が目撃されるのは珍しい。縄張り意識の強い竜は、小屋の周辺を竜守りの縄張りと認識しているのだ。
頻繁に姿を見せるパウズは例外である。
成竜には程遠い幼いパウズは、ハウルと血を分けたファミアを母親と混同していることもあって、竜守りの縄張りに足を踏み入れることに躊躇がない。しかし竜は本来縄張り意識が強いため、このようなことは滅多にないことだ。
竜騎士の竜とパウズ以外が小屋に近付くことはないとナウザーは言っていた。
ファミアはそう記憶していたのだが――
現在、どういう訳かファミアの目の前には、巨大な竜が黒い壁となって立ち塞がっている。
よちよち歩きの双子と一緒に、仕事にでかけるナウザーに手を振って送り出してから朝食の片づけをして、家族四人分の洗濯物を洗って干していた時だ。
青く澄んだ空を見上げ、今日も洗濯物がよく乾きそうだと思いながら、乱れた髪を束ね直したその時、大きな影が視界を塞いだ。
突然現れた、光沢のある漆黒の鱗に覆われた巨体。
目前に迫る鱗は優美な筋肉で盛り上がっている。
雌よりも小さいが、堂々とした立ち姿は凛々しく威厳に満ちて、まさに王者の出で立ちだ。
突然のことに驚いたが、ファミアには目の前に立つ竜に見覚えがあった。森の中でも最も力のある美しい竜だと、ナウザーが教えてくれたのだ。
ナウザーも、前任の竜守りも、そのまた前任者も王者の如き竜に見惚れ、幾度となく声をかけたが、ただの一度も声を返してくれない存在。
けして人に慈悲を与えず、竜としての誇りがとても強い。竜守りの甘い言葉にも、竜騎士の竜の誘いにも耳を貸さず森に君臨し続ける。
その竜が二本の足で地面を踏みしめ、なぜかファミアの目の前に立ち塞がっていた。
ファミアは、かつてこの竜が森を優雅に、堂々と歩く姿を目撃した。
その時は美しく、そして雄々しい姿に見惚れ、心を奪われ、同時に恐怖を抱いたものだ。
神々しい竜の姿に、けして踏み込んではいけない存在と感じた。
美しい鱗に指一本でも触れようものなら、人間など灰となって消えてしまうのではないかと、神秘に対する恐怖が湧き起った。
とても神聖な、世界を支配する神の如き竜だと、たった一度だけ見た偉大な雄の姿は今も脳裏に焼き付いていた。
その竜が、どういう訳か竜守りの縄張りと認められた場所に姿を見せている。竜はじっと動かず、高い位置から縦長の瞳孔でファミアを捉えていた。
森の支配者である、竜の中でも一目置かれる存在。けして人に靡かない、遥か彼方の存在である雄の竜がどうしてここに。
いったい何があったのだろうと、ファミアは双子の遊ぶ小屋を確認してから再び竜を見上げる。
太い足が緑の草を踏みしめ、羽は折りたたまれている。
隆起した筋肉が雌竜との力の差を語っているが、見下ろす縦長の瞳孔から敵意は感じない。人間が危害を加えなければ、竜も人に危害を加えないと信じているファミアは、急な事態に戸惑いながら口を開いた。
「夫に……竜守りに御用でしょうか?」
問うが、かつて森で遭遇した時と同じで返事はなかった。
竜から返事がなければ声を聞くことは出来ないが、彼がこうしてこの場にいるのは何かしらの意思表示があるからだろう。
代々の竜守りが憧れ、ふられ続けた竜が、自らこの場に姿を現し、何かしらの意思を伝えようとしている。
どうにかしてナウザーに知らせなければと思ったファミアは、ナウザーが竜伝手に聞いたとして教えてくれた竜の名を口にしてみた。
「あの……ムハルドさんですよね?」
恐る恐る名を呼べば、竜の目がかっと見開かれた――ような気がしたが、ムハルドと名のついた竜は微動だにせずファミアを見下ろしているだけだ。
「竜守りを呼んで来ますので、お待ちいただけますか。それとも一緒に行きますか?」
竜が悪さをするとは思わないが、小屋には歩き始めたばかりの子供たちがいる。子供たちの傍らに巨大な竜を残すのは不安だ。出来れば一緒にナウザーの所まで行ってくれないかなと思いながら問えば、ムハルドは身を屈めると、鈎爪のついた腕を伸ばしてファミアの脇に差し込んだ。
「え?」
脇に腕を差し込まれ軽々と持ち上げられる。地面から足が浮いて視界が一気に高くなった。
大人が子供を持ち上げて高い高いするようにして、竜がファミアを持ち上げている。
驚いて悲鳴を上げそうになり、慌てて口元を押さえると、竜が鼻先を寄せすんすんと匂いを嗅いだのが分かった。
「あのっ、きゃあ!?」
竜は無言で踵を返すと木々が生い茂る森に向かって歩き出す。竜の動きに合わせファミアの体はぷらんぷらんと揺れたが、ファミが悲鳴を上げると竜は一度立ち止まった。
竜は自分の目と同じ高さにまでファミアを持ち上げ視線を合わせると、ファミアを凝視したまま、そろりそろりと揺らさぬよう歩みを進めた。
*****
森の見回りをしていたナウザーは、両脇に我が子を抱えたパウズに遭遇する。
『我が子』はパウズの子ではなくナウザーとファミアの間に生まれた双子だ。
鈎爪を握り込んで右にファルス、左にリオを抱えるパウズは、酷く慌てて、ゼイゼイと息を乱しており、ナウザーは何かあったのだと理解して慌てて駆け寄った。
「いったいどうした!?」
子供たちを確認すると、双子はパウズに抱えられたまま穏やかに眠っていた。
反してパウズは、今にも爆発しそうな感情をどうしたらいいのか分からない様子だ。
鱗に滲む汗を拭ってやりながら落ち着くよう体を撫でてやると、パウズは喉に詰まった物を吐き出すようにして声を上げる。
『ムハルドがファミア持って帰った。巣穴に持って帰ったぞ!』
「なんだそりゃ!?」
『わからないわからない。でもファミア、ムハルドの名前呼んだ。そしたらムハルド、ファミア持って帰った!』
竜は気に入った物や隠したい物を巣に持ち帰る習性があるが、決して生きている物を対象としていない。生きている物で連れ込むのは番にする竜だけだが、ファミアは人間だ。竜が人に発情するなんて有り得ない。
「ファミアは傷つけられたのか?」
『大事に抱えていたぞ。熟した無花果みたいに大事に抱えてた!』
ムハルドはこの森で最も強く美しい雄の竜であり、代々の竜守りが語りかけても無視され続けた存在である。そのムハルドが何故ファミアを巣に持ち帰ったのか。
ナウザーに対して何らかの怒りを抱いたなら、ファミアではなくナウザーに直接制裁を加えに来るはずだ。竜は人と違って狡猾ではないので、人質をとったりするようなことはしない。
『俺みてたけど怖くて隠れた。ファミア連れていかれた。双子も持って行かれたら大変と思って連れて来た』
「えらいぞパウズ。俺はムハルドの巣に行ってくるから双子を頼めるか?」
『任せろ。俺、ナウザーより役に立つ』
「そうだな、お前は俺なんかよりもずっと子守りが上手い。ハウルの所で待っていてくれ」
双子をパウズに任せたナウザーは、障害物だらけの森を全力で駆ける。ムハルドの縄張りに入ると声を上げ竜を呼んたが、威嚇はなく排除にも来ない。縄張り意識が強いのに追い出しに来ないのはどういう訳か。森でとんでもないなにかが起きているのかと想像して胸が騒いだ。
ムハルドはどんな理由でファミアを攫ったのか。
竜守りの妻は森に住まうことが許されているし、何よりもファミアはハウルの血を受けている。それもパウズが母親と慕う程に強くだ。異質な侵入者として殺されるようなことにはならない筈なのだ。
「まさか、ハウルの血が関係しているのか?」
隠れ家でもある巣に近付かれるのを嫌う筈なのに、ナウザーが音を出して気配を露わに近付いてもムハルドは姿を見せない。
ムハルドの巣は洞窟だ。
踏み込んだナウザーは慎重に足を進めた。
竜守りとはいえ、無断で住処に入り込んではただでは済まないだろう。相手は雄の、人に心を開かない誇り高い竜だ。命を取られるようなことになるかも知れないが、ファミアを助ける為なら惜しくはない。
奥に進むにつれ竜の気配を感じる。留守でないのは確かだ。
ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえる位置に立ったナウザーは、暗い洞窟の中で目を凝らす。竜の血を受けたナウザーは、暗闇の中でもある程度見ることができる。
特別な目で見た光景にナウザーは息を飲んだ。
驚きのあまり大きく目を見開いて凝視する。
驚き過ぎて声が出ず、更に目を開いて情報を得るが、捉えた光景が信じられなくて、さらに大きく、もうこれ以上開かない目をさらに開けて、口まで大きく開いてしまった。
驚愕――以外に例える言葉がないが、後にも先にもナウザーがこれ以上驚かされることはないだろう。そんな光景が目の前に広がっていた。
「……幻?」
ナウザーは目の前の出来事が信じられなくて目をごしごしと擦る。幾度も瞬きをしてみたが、目の前には変わらぬ光景。
竜の森の支配者とも言えるムハルドがひっくり返って腹を曝し、小さな人間の女に降参のポーズを取っていた。
*****
『よいか娘。これは負けを認めた竜が取る姿であり、我が腹を曝したのは成人してよりこれが初めてだ。故に我はお前に危害を加えるつもりは毛頭ない。理解できるか?』
竜の声が音ではなく直接ファミアの頭に響く。
脇に腕を差し込まれ、抱えられたまま洞窟の中に連れて来られて流石に怯えたが、竜は怯えるファミアの前でひっくり返ると、腹を上にしてキュウキュウと鼻から音を出した。
まるで子犬が甘えるような声だが、竜はひっくり返ったまま頭の位置をファミアのすぐ側に変えると、縦長の瞳孔で下から睨むように見上げて『危害は加えない』と言ってきた。
「あの……理解できますが、どうしてこんな場所に?」
『こんな場所だと!?』
「ひっ!」
怒号に驚いたファミアが悲鳴を上げると、竜は腹を上に向けたまま慌てて『すまぬ』と即座に謝罪する。三本の鈎爪だけでなく、上を向いた両足の爪までが何か触れるものを求めるように蠢いてた。
『ここは我の巣だ。森で最も深く美しく優美なる洞窟だ。森の王者だけが住まうのを許される巣だ。娘、人であるお前には理解できぬかもしれぬが、我だからこその住いである』
ここがいかに素晴らしい洞窟であるのかを聞かせる竜はひっくり返ったままだ。ファミアはよく理解できなかったが、竜にとってはお城のような場所なのだと思って「素晴らしいですね」と返事をした。すると竜は機嫌が良くなったようで、うんうんとひっくり返ったまま頷く。
「あの……それで、わたしはどうしてここに連れて来られたのでしょうか?」
『我はお前と番たく、我が巣に連れ込んだのだ』
「番っておっしゃいますが、わたしは人です」
『人の姿を取ってはおるが、竜でもある』
「この体に竜の血を取り込んでしまったことを仰っているならその通りですが、わたしの体は人です。竜と番って子供を作ることはできません」
『時間はいくらでもある。奇跡が起きるやも知れぬぞ』
「人間は百年足らずで死んでしまいます」
『なんと!?』
ムハルドは目をかっと見開いたが、長く生きる過程で知り得た過去を思い出すと、『そうであったな、人はあまりにも短い命しか持っていない』と悲しそうに呟いた。
「それにわたしには夫がいます」
『竜守りであろう。だが竜守りと子を成した。次は我の子を生んではくれぬか』
「ごめんなさい。夫は生涯一人きりです」
『なんと!!』
ガーン……
衝撃を受けた竜は口をぱっかりと開いて硬直した。
美しく雄々しい森の支配者であるムハルドに乞われた雌は、迷いなく平伏しムハルドを受け入れる。ムハルドが生を受けてより数百年。長い時を生きているが、番に望んだ相手に振られたことなどただの一度もない。断られることなどまったく予想していなかったムハルドは、ショックのあまり固まり動かなくなってしまった。
「ムハルドさん。あのっ、ムハルドさん!」
反応を失くしたムハルドの鱗をファミアが綿毛のような頼りない力で叩く。
「子供達が心配なので家に帰ってもいいですか?」
『ここまでした我を置いて行くというのか!?』
ひっくり返ったまま睨み付ける縦長の瞳孔は恐ろしいが、頭に直接響く声からはショックが伝わって来る。
竜の森で最も雄々しい竜の懇願に戸惑うが、ファミアはよちよち歩きを始めた双子が気になって仕方がない。いつものようにパウズが来て相手をしてくれているだろうか。
『我を前にして他の雄など考えるな!』
くわっと口を開けて威嚇をするが、威嚇はファミアではなく、ファミアの思考の中に存在するパウズに向けられていた。
それでも大きな竜の威嚇を受けたファミアは驚いて尻もちをついてしまう。
慌てたムハルドは手を伸ばそうとして半身を起こしたが、ここで巣に侵入してきた不届き者にようやく気付いて動きを止めた。
ムハルドの視線の先には竜守りの姿が。
ファミアへの求婚に夢中になるあまり、侵入者に気付くのが遅れたムハルドはおもむろに二本足で立ち上がったが、全てを見られた気まずさのあまり、侵入者に攻撃を仕掛けることも忘れ、鱗に脂汗を滲ませた。
*****
ひっくり返って腹を曝したムハルドは、何やら必死になってファミアに話しかけているようだが、ナウザーに声は届かない。それでもファミアの返答のお陰で、ムハルドがファミアに求婚しているのは理解できた。
竜が人間に求婚?
流石のナウザーも初めて目撃する状況だし、聞いたこともない現象だ。夢でも見ているのかと思い髭を一本抜いたら頬に痛みが走った。どうやら現実らしい。
「発情か……」
きゅんきゅん鳴いているムハルドの姿に、困ったことになったと、ナウザーは腕を組んで天を仰いだ。
竜の繁殖期は個体別のうえに、数十年から数百年と開きがある。ナウザーもムハルドが数年前より繁殖期に入っていることは知っていたが、この森で繁殖期に入った雌は確認されていなかった。
竜守りに手を貸す竜の中で繁殖期に入っている雌はいるが、人を嫌っているムハルドが森を出ることがないせいで、繁殖期に入った雌に出会う機会を失っているのだ。
竜守りに手を貸してくれる竜は圧倒的に雌が多く、そのせいで竜の森では雌の竜よりも雄が多くなっている。
繁殖を進めるために雌を戻すことも考えたが、一度人に力を貸すと決めた竜は、繁殖よりも人といることを望んでくれる。手っ取り早いのはムハルドに森を出てもらうことだが、ナウザーの話など聞いてくれる気配はないままだ。
「それにしてもなぁ。ハウルの血があるとはいえ、人間に盛るってのは理解できないな」
どうしたものかと観察していると、くわっと口を開いたムハルドが体を起こしてナウザーに気付いた。竜守りであっても許可なく巣に立ち入っては殺される危険がある。咄嗟に身構えたナウザーだが、対するムハルドは暫くナウザーを凝視した後、のそりと巨体を起こして二本足で立ち上がったが、攻撃を仕掛けてくることなく眼球をくるくると回していた。
どうやらかなり気まずいらしい。
それもそうだろう、森の王者とも言えるムハルドが、人間の女に腹を曝し、何振り構わず求婚する様を目撃されたのだから。
人間に例えるなら、美丈夫であらゆることに優れた若く気高い王が、嫌がる女の足に縋り付いて涙と鼻水を垂らし、「結婚してくれないと死んでやる!」と泣き脅しをしているようなものだ。
同じ竜にすら腹を曝したことのないムハルドが、人間の女相手に情けない姿を曝しているのを見られて、今更恰好つけてもなかったことには出来ない。
ここはムハルドのためにも見なかったことにするべきだろうと思っていると、鱗に脂汗を滲ませたムハルドは視線をナウザーに固定したまま、ファミアの胴に尻尾をくるりと巻き付け所有権を主張した。
「いや、お前にはやらねぇよ」
『ケチな男は嫌われるぞ』
思わず突っ込めば、人生初の返事を頂戴してしまう。しかし状況のせいで感動はない。
「誇り高い竜が女を無理に従わせるのか?」
『無理ではない。そのうち娘自ら腹を曝すようになる。現に曝しそうになっていた』
「声に驚いて尻をついただけだ」
『いや、間違いなく腹を曝そうとしていた』
「慌てて助けようとして腕を伸ばしただろうが。ちゃんと見ていたぞ」
『うぬぬ……』
悔しそうに声を漏らしたムハルドの後ろで、尻尾に捕らわれたファミアがその尾を叩く。
「わたしも竜のことが好きです」
『なんと、それは良い。我を好きか!』
「竜の皆のことが好きです。パウズもハウルも、他の竜もみんな好きです。ムハルドさんの気持ちも本当に嬉しいです。でもわたしは竜守りの妻で、二人の子供がいます。ムハルドさんのお気持ちに応えることは出来ません」
ごめんなさいと謝罪したファミアが見上げると、ムハルドは尻尾でファミアを捕まえたまま、額を地面に叩きつけ岩を砕いた。
本日幾度目かのショックで気絶してしまったのだ。
巨体が傾く前に、ナウザーがファミアをムハルドの尻尾から助け出す。
「どうして竜でなくわたしだったのでしょう?」
「さあな。人間にも変わった奴がいるだろ。それと同じかもな」
ある程度の予想はつくが正解はナウザーにも分からない。ファミアも重大な事案と捉えていないので、大雑把な性格のナウザーはこの件を放置することにした。
その後、ムハルドの繁殖期が終わるまでファミアは付き纏われることになる。
ムハルドは日々、一日も欠かすことなく、隠しきれない巨体を木に隠して小屋の様子を窺っているのだ。
そんなムハルドにパウズが威嚇しては、威嚇し返され、逃げる姿が目撃される。
やがてムハルドはパウズを真似て森の恵みを貢ぐようになる。時には色とりどりの石を球体に加工して差し出し、双子と触れあったりと様々あるのだが、あの日以降、ナウザーには二度と言葉を送って来ることはなかった。