心で、寄り合う
ふと仕事の手を止めファミアは明るい窓の外へ視線を向けた。身を乗り出して見上げると高い秋の空が広がっている。山間にあり標高が高い村よりも確実に冬の遅いここはまだまだ実りの季節だというのに、開けたこの場所では兎の一匹すら跳ねていない。人どころか獣一匹近寄らぬ場所、竜守りの縄張りというのは本当だったんだなぁとファミアは空と同じ色の目を伏せた。
「確かに寂しい場所ね。」
ここに来るまでにいくつかの街を通ったがとても賑やかな場所だった。喧噪の中から来た若い娘がこの静けさにほっと息を吐くことがあったとしても、きっと永遠に続く一人には耐えられないに違いない。日が沈む前にナウザーが帰ってくるとしてもそれまで一人きりだ。ファミアとて今は散らかり汚れ放題だった小屋の片付けや掃除で忙しなく働いているが、それが終われば日々の家事以外に特別することはない。春に向けて畑でも耕してみようかと、低い草ばかりの周囲を見渡した。
好きに過ごしていいと言われたので、昨日は開かずじまいだった寝室の隣の部屋を開けてみる。タンスや使われていない椅子などが大量に押し込められていてそこには埃をかぶった寝台もあった。婆は言っていなかったが、ナウザーはここで誰かと一緒に暮らしていた過去があるのだろうか。前のいなくなった女性が寝ていたのかもしれないと思うと、寝室に入れてもらえているわずかな優越感が湧いて俄かに心がざわつき頭を振る。自分をあさましいと思い、人には過去があるが、見えないものを考えても無駄だとファミアは黙々と作業を続けた。
ナウザーが帰ってくる前に食事の下ごしらえを済ませ風呂を沸かす。埃だらけだったナウザーの髪を思い出し、櫛ですいてやらねばと、なぜか食料庫で見つけた櫛も綺麗に洗ってエプロンのポケットにしまった。ナウザーの為に湧かした風呂だがきっと彼の後に入らせてもらえると、人生二度目となる湯船に心が躍る。
帰ってきたナウザーは風呂が沸いているのに驚いたようだった。入る前に髪をすくからといえばさらに驚かれるが嫌がられている様子はない。怖い印象を与える姿をしているがたった一日でファミアはすっかり慣れてしまった。硬い黒髪は頑固なまでにもつれて酷いことになっていたが、根気よく続けるとやがて櫛通りがよくなる。
「手伝いが必要ですか?」
片腕では不自由だろうと思い声をかければ、髭だらけの顔で面白そうに黒い目が細められた。
「一緒に入るか?」
「いえ、わたしは後でいただきますので、背中だけ流しますね。」
「ああ、そうか。なら、頼む。」
ナウザーはファミアが戸惑い赤くなるかと思ってわざと言ったのだが、当のファミアの方はナウザーの冗談を真剣に受け取ってしまい、逆にナウザーの方が戸惑いを見せファミアが首を傾げた。
「頭も洗いましょうか?」
「いや……ああ、まぁ頼むか。」
断ろうとしたナウザーだが、まあいいかと思いファミアの申し出を受け取って風呂に向かった。ファミアの前で堂々と裸になればファミアは視線をそらして俯き、ナウザーを視界に入れないよう気を付けている。初心なのかと勘違いしそうになるナウザーに対してファミアはその通り初心だった。ナウザーが風呂椅子に座るとかけ湯をしてやり、石鹸を泡立て丁寧に頭を洗ってから背中を洗い流す。ナウザーはファミアの奉仕を心地よく感じて冗談は言わず黙って受け入れていたが、捲り上げられた袖から覗く棒のように細い腕を見て、やはり痩せ過ぎだとファミアの育った環境を哀れに感じた。
生まれのせいもあるがナウザーは飢えを感じたことがない。何らかの障害で食べられずとも時間がたてば腹いっぱい食べられる。子供の頃から竜の声を聴き、竜騎士となるべく育ったおかげで体は鍛えられすっかり大食漢だ。だからと言って竜騎士を引退してからも無駄な肉がつかないのは、いかなる状況にも耐えられるよう常に己を鍛えているからだ。だがファミアの育った村は違う。食べられないのは常で、乳離れしたころより腹いっぱい食べた記憶などなかった。食事は楽しむ目的よりも生きるために食べる。豊かなはずのこの国にもそういう人々が沢山いるというのも分かってはいたが、妻として送られてきた娘を前にして、ナウザーはようやく己にかかわる現実として感じるに至ったのだ。
「十年、あんな状況だったんで見知らぬ家のようだな。綺麗にしてくれて感謝するよ。」
湯を終え食事の席に着いたナウザーから感謝の言葉をかけられファミアは思わず俯いた。自分は自分の役目をきちんと果たしただけだし、追い出されたくないという切羽詰まった事情もある。純粋なナウザーの言葉に後ろめたさを感じて俯いてしまったが、そのおかげでナウザーに感じていた恐れが一気に無くなった。見た目は大きく威圧感があって恐ろしくても、中身は気遣いのできる優しい人なのだろう。粗暴に感じた言葉遣いも穏やかになったように感じる。
「あの……毎日ちゃんとして帰りを待っていますから。」
精一杯務めると気持ちを込めてファミアは顔を上げた。夫婦となったのにお互い何も知らないが、会話を増やしてたくさん知って行けばいいだけの話だ。ファミアには同じ村で生まれ育って長年知ったつもりでいてもそうではなかった前例がある。ファミアは結婚式の日にいなくなってしまったグルニスの本心も何も知らないままで今日まで来た。笑顔で優しく接してくれるからと初恋の延長で結婚に至ったが、結局は何も知らない者同士だったのだ。今と状況は変わらない。
帰りを待つといったファミアにナウザーが薄く微笑む。髭だらけの顔にある漆黒の目が優しく細められ、ファミアは恥ずかしさから白い頬をほんのりと染め逃げるように背を向けると食事をよそった。
食事を終え片づけをしてからファミアも湯を浴びる。石鹸で頭と体を洗い温めの湯に沈んで肩までつかった。十四歳で初めて経験した風呂は結婚を前に緊張していたのであまりゆっくりした記憶はないが、今夜の湯はとても心地よい。全身を包む湯が疲労した体に癒しを与えてくれるのでつい長湯をしてしまった。あまりに長いので何かあったのではと気にしたナウザーが、風呂場の前で聞き耳を立てたのをファミアは知らない。
頭を風呂桶の縁に預けて高い天井を見上げる。小さく狭い生家と比べ、ここはとても大きくて広い小屋だった。ナウザーの体に合わせたのだろうかと思うが、彼がここに来たのは十年前というのは話に出てきたので知っている。小屋はそれよりも古い感じなので、竜守りは体の大きな人が多いのかもしれないと想像してみる。みんな髭をたたえているのだろうか。村でも無精髭を生やした人は多かったが、ナウザーのように顔全体を覆って熊のようにしている男の人はいなかった。
「ライズは元気になったかしら……」
生まれ育った家と家族を思い出し漏れた呟きは、湯気が上がる浴室にこだました。思いがけずここへ来たが、もともとは病気の姪の為に身売りすると決めたのが始まりだったのだ。夫に逃げられ家に戻ったファミアを優しく迎え入れてくれた両親と兄、そして陰口も叩かず優しくしてくれた義姉と生まれた子供たち。甥と姪はとても可愛くて、二度と会えないかもしれないが元気に暮らしてくれさえすれば満足だった。子供を失い泣く兄や義姉を想像するのは嫌だったし、二歳になったばかりの姪が幼くして亡くなるのも耐えがたい。一緒にはいられなくなったがファミアにとって兄家族は大切な家族だった。
それにファミアにだって穏やかな家庭を築けるかも知れない。ナウザーは見た目と違って優しいようだし、ファミアを気遣ってくれる節が所々に見受けられる。子供が生まれれば新たな本当の家族にもなれるだろう。
期待を胸に抱くファミアと違い、風呂場の前で聞き耳を立てていたナウザーは暗い気持ちでその場を離れた。ファミアが零した声を拾ってしまったせいで、前の夫を想って悲嘆にくれているのではないかと勘違いしたのだ。
ファミアが濡れ髪を乾かしてから寝室に向かうと扉から光が漏れていた。そっと開けばナウザーが寝台に腰かけ神妙な顔をしている。片腕がなく髭だらけの大男が薄暗い中で眉間を寄せている様は思わず足を止めたくなる迫力があった。実際ファミアは足を止め、一点を見つめたまま動かないナウザーの様子に僅かな怯えを抱く。何か失敗してしまっただろうかと不安を抱きながら扉を閉めた。
「座れ。」
ナウザーが腰掛ける寝台の左側を顎で示され、ファミアは恐る恐る腰を下ろした。蝋燭を手に持ったままでいると横からぬっと腕が伸びて回収される。風呂で温まった体が一気に冷える気がした。
「パシェド村に帰りたいか?」
「いえ、それはっ―――!」
「帰れないとかはなしで、お前自身は帰りたいかと聞いているんだ。」
追い出されるのかと不安に感じたファミアだったが、先ほどまでの態度から急変したナウザーの様子に戸惑いすぐに答えられなかった。だがナウザーは急かさずファミアの答えを待ってくれる。その態度から追い出したいのではないと解ったファミアは、骨ばった指を絡め胸の前で両手を固く握りしめた。
「置いてくださるのなら帰るつもりはありません。ここで家庭を築いていきたいです。」
ファミアの言葉にナウザーは硬く瞼を閉ざしてから深く息を吐くと、目を開いてファミアをじっと見つめた。嘘は見抜くといった感じの、最初にファミアが向けられた視線だ。
「置いてきた家族はいいのか。」
「家族は―――ええ、送り出してくれました。」
渋りはしたが、妹想いの兄は結局現実を受け入れ見送ってくれた。
「子供はいなかったのか?」
「子供―――」
答えを求めようとするナウザーの強い視線を受け、ああそうかと、ファミアは自分の事情をきちんと話していなかった事実を思い出す。
「子供は一緒に住んでいた甥と姪が。それから二人の父親である兄と義姉が一緒に暮らしていました。」
「夫はどうした?」
硬い声色にファミアは胸の前で組んだ手に無意識で力を籠める。
「夫……夫は―――彼は――――」
六年前の結婚式がグルニスを見た最後だ。つい先日までグルニスは書類上ファミアの夫であったが、今の夫は隣に座るナウザーである。
「夫はナウザーさん、あなたです。」
「村に残してきた夫がいるだろう?」
グルニスの事だと確実に問われ、ファミアは反射的に顔を上げてナウザーを仰ぎ見る。震える唇が色を失くしていた。
「恋しいか?」
色を失くしたファミアの様子に、きつく言い過ぎたかとナウザーは意識して声色を和らげた。するとファミアはゆっくりと首を横に振る。
「そういえばこの六年、恋しいと感じたことは一度もありませんでした。悲しみよりも驚きの方が強かったのかもしれません。初恋の人だったのに―――」
どうしてだろうと首を捻るファミアにナウザーは疑問を感じて眉を寄せる。
「いなくなってしまったんです、女の人と。同じ村に住む未亡人の年上の女性でした。」
「いなくなった?」
言葉を繰り返すナウザーにファミアは頷いた。疑問に満ちた漆黒の瞳が真っ直ぐに注がれているだけでそれ以外の感情は窺えない。価値のない女と、落胆させるのではという不安が少しだけ緩んだ。
「いつ?」
「六年前の、結婚式を終えた後に。」
「はあっ?!」
突然上がった大きな声にファミアはびくりと肩を震わせたが、ナウザーは半立ちになって目を見開きファミアを睨むように凝視している。
「式を終えて初夜も迎えずに未亡人の女と逃げたってのか?!」
なんて勿体ない―――とは、かろうじて口にしなかったが、ナウザーはファミアの言葉が信じられなかった。
ファミアの様子から嘘をついているのではないと解るが、それでもこの美人を捨てて結婚式の後に女と逃げたなんて馬鹿げた話はあまりにも荒唐無稽で。勿論女は顔ではないが、顔を度外視してもファミアが良き妻になるだろうというのは一日一緒にいれば簡単にわかるようなことだ。
ナウザーの叫びにファミアは肯定しながらすっかり気落ちして背を丸め俯いてしまう。
「申し訳ありません……」
「いや、あんたが謝るようなことじゃないだろう?」
つい手を出してしまわないようにと腕の無い左に座らせたが、気落ちするファミアを慰める目的でなでつけてやれない態勢にナウザーは心で舌打ちする。
細すぎるがどこからどう見ても美人で出来た娘だ。こんな娘を捨てて逃げるなんて余程趣味の悪い男か―――結婚前から女と出来ていて逃げるしかない事情に追い詰められたかだろう。式を済ませたのは祝い金目的かと色々声に出して言いたくなったが、これ以上ファミアを傷つけるようなことはしたくない。
「まぁその……なんで白い結婚を主張しなかった?」
「教会に支払うお布施が準備できなくて。先日婆が払ってくれました。」
ああそうか成程とナウザーは天井を仰ぎ見た。
もしかしたらシグ婆はその時よりファミアに目をつけていたのかもしれない。貧しい村だ、ファミアに懸想した男がいなかったわけでもないだろうが、離婚するために教会に支払う金や、婆に託すにしても手間賃を取られるので金銭が準備できないであろうことは容易く想像できる。それがなぜ今なのか。六年前ではたとえ美人でも十四の娘ではナウザーの食指は動かない。十四のファミアを婆が連れてきていたら間違いなく竜の背に乗せ村へ強制送還しただろう。だから二十になったファミアだったのか。これはすべてナウザーの予想だが、今のナウザーにファミアを追い出すつもりはこれっぽっちもない。
「じゃあライズというのは―――」
「姪です。二歳になる、兄の娘です。」
ナウザーの呟きを拾ったファミアが何の疑問も抱かず素直に答えれば、己の情けなさにナウザーは額に掌を当てて息を吐き出した。
「嫌な話をさせて悪かったな。」
「いいえ。きちんと話しておくべきことです。」
「そうだな。それじゃあ明日は俺の話でもするか。」
もう遅い、今夜は休もうとナウザーが寝台に上がればファミアもそれに従う。この行動も本当の意味で男を知らないからだと思えばしっくり来たが、ナウザーは隣の部屋にある寝台を勧めず黙って端に寄りファミアに場所を開けた。