後日談 その2 気弱な彼3
水が滴るドレスを抱え途方に暮れるリオに、弁償するからと申し出たイサークは『馬鹿言わないで!』と雷を落とされた。
「弁償すればどうにかなるってもんじゃないの!! これはね、お母さんがお父さんと結婚したときに着たドレスなの。ああそれよりも何よりも、ドレスを返しに行ったときにお婆さまがどうなさるかを想像するだけで震えが起きるわ……」
「火熨斗屋に持って行けば何とかなるんじゃない?」
「こんな時間に開いてる火熨斗屋ってどこよ!?」
世間はすでに夕食の時間は過ぎ、明かりを落とそうかという時刻。火熨斗屋なんてどこにあるか知らないし、自分で火熨斗を当てた時点でドレスを駄目にしてしまうと解っているので取りあえず自然乾燥を施そうと試みる。吊るしたドレスに団扇で仰いで風を送ってみるが、無情にもぽたぽたと滴る水が揺れているだけだ。半泣きになるリオにイサークが恐れを抱きながら遠慮がちに声をかけた。
「あの、リオ。僕の母が衣装屋をしてるんだけど、社交シーズンを前にもしかしたら針子が残っているかもしれない。もしいたらきっと上手く火熨斗を当ててくれるんじゃないかって……」
「それを早く言ってよっ!」
さあ今すぐ行くわよと、リオは濡れたドレスを抱えて先を急ぐ。
「あなたのお家ってどこ?」
「あ、家じゃなくて店に……」
「どっちでもいいから早くっ!」
そうして急かされイサークが二人を案内した先は、都でも評判の高級婦人服専門店、マデリーン=カメリアの店だった。社交シーズンに向けての作業が行われているようで窓からは明かりがもれている。高級店に水の滴るドレスを持ち込むのは悪いと思い、イサークだけが店に入って母親に事情を説明してくると行ってしまった。残された二人は豪華で立派な店を仰ぎ見る。
「イサークってお坊ちゃまだったのね。このお店継ぐのかしら?」
「う~ん。あの性格じゃ商売には向かない感じだけど、どうだろう?」
マデリーン=カメリアと言えば新作を発表する度に話題に上る上流階級専用のデザイナーだ。女性の服飾に詳しくないファルスでも知っている有名人だが、学院ではイサークの実家だとはただの一度も耳にした記憶はない。少年らに虐められるイサークだが、そういえば引っ込み思案な性格でも女生徒らには嫌われていなかったのを思い出す。彼女らはイサークの実家を知っていたのだろうか。
「リオも知らなかったよな?」
「知らないわよ。でもなんだかイサークっぽい感じもするかな。女の人に囲まれて育ったら、言いたいことも言えなくなっちゃうのかもね。」
父無し子となじられていたが、父親がいないのなら母親が一人で育てたのだろう。しかもやり手の女主人に、主人に従う大勢のお針子たち。女の集団が怖いのは外の世界に出て初めて知った事実だ。母の様に従順で耐え忍ぶ感じが似合う女性など滅多にいないのだと、リオはファルス以上によく知っていた。
リオとファルスも竜騎士の家系に生まれただけではなく、貴族でも名を馳せるファルムント家の出だ。祖母は妾腹とはいえもと王女。ファルスはその家を継ぐことも決まっているし、家の格や身分で言うならイサークよりも二人の方が確実に上なのだが、生まれ育ったのは竜の住まう森の奥。使用人はおらず身の回りの世話は全て自分でやっていたし、けして豪華な食事を与えられていたわけでもない。育ちで言うなら恐らくイサークとは雲泥の差の経験を積んだだろう。そのせいでファルムントの屋敷を知ってはいても、煌びやかな店舗の様子に圧倒された二人はだらしなく口を開けぽかんと佇んでいた。
「待たせてごめんね、母の許可は得たから二人とも入って。」
イサークが大きな防水の袋にドレスを詰め込んでくれ、案内されて店に入ると、煌びやかなドレスを纏い茶色の髪を高い位置に結い上げた中年女性が三人を振り返った。胸がとても大きく腰はこれでもかという程にくびれている。年の頃は四十を過ぎたあたりだろうが夜なのに化粧も完璧で、装いのお蔭か実年齢よりも若く見えた。少し、結構派手めな美人だ。イサークと顔が似通っているように感じるが雰囲気はまるで違う。煌びやかで堂々とした彼女こそが何処からどう見ても店の主マデリーン=カメリアだと、見知らぬ双子にもすぐに解った。だが振り返った彼女はリオに視線を止めると驚きに目を見開き息を止めてしまう。
「あの……遅くに失礼します。」
固まった状態で凝視され、居心地を悪くしたリオはおずおずと口を開いた。母親の様子に驚いたイサークが慌てて二人を紹介する。
「同じ組のファルスと、ファルスの双子の姉のリオだよ。僕のせいで彼女のドレスを駄目にしてしまって、明日までに何とかならないかなぁって。母上、大丈夫?」
イサークの問いかけで現実に引き戻されたのか、マデリーンは息を吐き出しながら笑顔を作った。
「ええ、勿論大丈夫よ。二人ともナウザーの子供たちね?」
「父をご存知ですか?」
「ええ、あなたはナウザーにそっくりだわ。そしてあなたは……まるで生き写しね。」
少し悲しそうな目を向けられリオは戸惑った。ファルスも気付いたようで、余計なことを口走るなと腕を引かれる。聡いファルスはマデリーンと両親との間に男女の何かがあったのだと気付く。
「彼女が当時の姿で現れたのかと思って驚いてしまったわ。二人とも変わりなく森で過ごされているのかしら?」
「両親とも滅多に森を出ませんが元気にやっています。」
ファルスが答えるとマデリーンは「そうなの、良かったわ」と返事をしてイサークから袋を受け取った。
「これはもしかして、ファミアさんが着たものではなくて?」
「そうです、よくわかりましたね。」
驚くリオにマデリーンは首を左右にゆっくりと振り、懐かしそうに頬を緩める。時がたっても色あせない光景に溜息を落とした。
「これを着た彼女を見て、まるで女神のようだと言葉を失ったのよ。懐かしいわね。なんだか涙が出そうだわ。」
涙ぐむマデリーンにようやくリオも何かがおかしいと気付いたようだ。ちらりとファルスに目配せしてから遠慮がちに口を開く。
「あの……父や母と何か?」
「あら、聞いていない? わたくしとナウザーは婚約していたのよ。」
「婚約?!」
これには三人同時に驚きの声を上げた。婚約していたなんて、ちょっと知り合い程度のものではない。驚く三人の様子にマデリーンは茶色の瞳を三日月型にし、手を口元へ持って行くとくすくすと笑った。
「当時のわたくしは何が一番大切なのか気付けなくて、ナウザーが竜守りになった時にお別れしたの。」
それはナウザーを好きだったけれどそれに気付けなくて、別れてしまったのだと言っているようなものだ。してはいけない質問だったと目配せするファルスに気付かず、目の前にある問題を素通りできないリオは遠慮しながらも言葉を続けた。
「大切なものには……気付けたんですか?」
「リオっ!」
「あらファルスさん、よろしいのよ。」
遠慮のないリオにファルスが声を上げるが、マデリーンは気にしていないようで笑顔でファルスを制した。
「ちゃんと気付けたわ。あなたのお母さまのお蔭で。」
「えっ? あの……」
ふと嫌な予感がよぎりリオの視線がイサークへと流れると、違うわよとマデリーンが笑いながら手を振った。
「変な勘繰りはしないで頂戴ね、イサークはあなた達の兄ではなくてよ。わたくしとナウザーは婚約していただけで、そのような関係になったことはないの。結婚はしなかったけど、イサークも父親には時々会っているんじゃない?」
婚約していたなら深い男女の関係になっていてもおかしくない。もしかしてと抱いた疑問だったが、察したマデリーンがすぐに否定してくれ二人はほっとする。イサークの方は予想すらしなかったようだ。父親と会っているのを指摘され慌てている様子から、どうやら母親には秘密で会っているらしい。父無し子となじられながらも親子関係は良好なようだ。それならおどおどせずに堂々と反撃すればいいものをとリオは思うが、引っ込み思案で争い事が苦手なイサークにはとても難しいことだった。
「それで、このドレスを明日までに元の状態に戻せばいいのね。大変そうだけど何とかなるでしょう。お預かりします。」
本業の主に何とかなると言われリオは小躍りせんばかりに喜ぶ。これでテレジアに粗相が知られる心配は回避できそうだ。
「ありがとうございます。それでその……お支払いなんですけど―――」
「あっ、それは僕がやったことだから僕がだすよ!」
「わたしも悪いからイサークと折半ってことで、お願いできますか?」
「リオ……」
もともとの原因を作り出したのはリオだというのにイサークに半分持たせるなんて。ちゃっかりした性格の姉にファルスは眩暈を覚えた。
「いやね、子供たちからお金を取ろうなんて思わなくてよ。でもそうね、職人の手を煩わせるのだから二人には貸しにしておくわ。」
言葉通りマデリーンは二人から料金を取らずに、翌日には新品同然に蘇ったドレスを渡してくれた。リオは深々と頭を下げ礼をいったが、ファルスは父親の元婚約者という女性とその息子であるイサークに複雑な感情を抱く。悪い人ではなさそうだが、同じ歳の子供までいるのに一度も耳にしたことがないのが気になった。誰も話さなかったのは微妙な立場だったからだろうが、ファルムントの屋敷にイサークがリオを迎えに行った時点で祖父母は双子とのかかわりを感じ取っていただろうに。そしてファルスは、ドレスを返却しに前を歩く二人を黙って観察する。気に食わない虐めっ子らを懲らしめるために二人の関係を勘違いさせようとしたリオの目論見は上手くいっていた。リオの見た目に惹かれていた少年らは、自分が下に見て虐めていたイサークにリオを持って行かれて悔しがっている。しかもリオとイサークの仲を取り持ったのは彼らだ。目論見が外れまくった彼らだが、ファルスが見張っていなくてもリオの機嫌を取りたくて今後イサークを虐めるような事はしないだろう。人間関係が上手く行くのは良いことなのだが、ファルスはしっくりこない感情を持て余し、なんとなく嫌な感じの予感を抱えたままで前を歩く二人を観察し続けた。双子であるファルスとリオの間に入った少年はリオの好みの男ではない。ないのだが、出会って間もないはずなのにしっかりと双子たちの世界に入り込んでしまっているのだ。
そしてこの数年後、ファルスの嫌な予感は的中する。イサークの面倒を見るのがすっかり板につき放っておけなくなってしまったリオは、『僕に君は勿体無さすぎるっ!!』と逃げるイサークを執拗に追い回し、最終的には無理矢理プロポーズさせるに至るのだが……囚われたのがどちらなのか、それは当人らを含めファルスにも判断できかねる事柄であった。